ブックマーク / note.com/ublftbo (2)

  • 慣習|TAKESAN

    共同通信の記事内容変更の話。 ああいうのは「慣習」だという意見があります。その意見を表明する事が、共同通信を擁護する(慣習だからしょうが無いじゃないか、的に)目的か、あるいは単なる事実の紹介(是非はともかく、そういうのがある)か、それは措いて。 シンプルに言うと、 ・細部が変更されるというようなレベルの変更では全く無いものを ・変更履歴も示さずに ・同URIの内容を書き換える という行為を「慣習」などという言いかたで片付けて良いのか、という話ですよね。いや、そんな慣習知らんがな、となるでしょう。見出しも内容も全く違っていて、共通しているのは、山中氏に関する記事である、くらいです。 見かたを変えると。慣習と言うのならそれで良いけれども、そういう行為を慣習とするのであれば、記事の正確さや一貫性等を確保・維持しようという、マスメディアとしての志向が無い事を表明していると看做さざるを得ない、となり

    慣習|TAKESAN
    yoko-hirom
    yoko-hirom 2018/01/26
    政権批判は許さない。スパコン世界一だから無罪。有名人の不倫は報じるな。権威主義個人崇拝マスゴミ叩きの一貫性を保持した結果がこの批判。そんな世の中で信頼出来る情報が出回るかどうか。
  • 理系文系|TAKESAN

    より一般的には、研究・探究の対象によって分けるものだし、またそうであるのが望ましいと思う。けれど、実情としては、(契機はその一般的な分類だったにしても)結果的に形成された集団等への「所属」が強調され論じられるように感ずる。 実際、組織なり何なりで、似たような考えかたをする人が集まる、というのはあり得る事で(属している人も似た人を集めようとすれば)、そういう意味で、「傾向」が形成されるのも、充分生じ得る。だけれど、問題は、「傾向が明らかにされていないのに」傾向があるかのように言われる所。 私がよく、何らかの社会的なカテゴリ(に属する人)の性質を云々する言説に対して、「証拠はあるのか?」と問うのは、その言説自体が、社会現象のありかたに関する主張で、量的な表現に還元出来る言明、という構造になっている場合があるから。 自然現象の振る舞いの記述は、その精確さを厳しくチェックするのに、社会現象について

    理系文系|TAKESAN
    yoko-hirom
    yoko-hirom 2018/01/23
    主張に対して証拠を要求する傾向を示すサンプルを1例確認。
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