大掾氏(だいじょうし)は、中世常陸国に勢力を持った一族で、軍事貴族。坂東平氏(桓武平氏)国香流。常陸平氏の嫡流であり、多くの庶家を輩出した。通字は「幹」(もと)。使用の家紋は「対い蝶(むかいちょう)」、「三つ巴(みつどもえ)」。 国香の子貞盛は天慶の乱で常陸に多くの所領を得た。貞盛は弟繁盛の子維幹を養子にし、常陸の所領を相続させた。維幹は常陸大掾職に任ぜられ、その子孫は代々大掾職を世襲したため、職名から「大掾氏」と呼ばれるようになったとされる。 だが、実際に当の大掾氏の系図にすら、維幹の子である為幹から曾孫にあたる吉田(大掾)資幹まで大掾に任官された者に関する記述はなく、現存する12世紀中期以降の常陸国の国衙が発給した文書においても目代および国衙の税所を統括し後に「税所氏」と称した百済氏(百済王氏)の署判があるのみである。従って、吉田(大掾)資幹以前の常陸平氏の嫡流を「大掾氏」と称すること
天永2年(1111年)、藤原定任の長男・実宗が常陸介に任じられ、常陸国伊佐郡に住し伊佐氏を称したことから始まる。従来は藤原氏の藤原北家山蔭流とされてきたが、下毛野朝臣とする説も提唱されている。また、桓武平氏繁盛流常陸大掾氏族の多気氏の一族とする説もあるが、これは刀伊の入寇で活躍し肥前国を賜った伊佐為賢を始祖とする肥前伊佐氏(鎮西平氏)であり、別系統である。 文治5年(1189年)常陸入道念西[2]の4人の息子・常陸冠者為宗(伊佐為宗)、同次郎為重、同三郎資綱、同四郎為家が源頼朝による奥州合戦に従軍している。4兄弟は石那坂の戦い(現・福島市飯坂)で藤原泰衡の兵と戦い、長子為宗の活躍により、信夫佐藤庄司(佐藤基治)及び宗徒の兵18人の首を得る戦功をあげた。この戦功により念西は伊達郡と信夫郡を賜わり、同地に住して伊達氏を称したが、為宗は本領の常陸国伊佐郡にとどまり、伊佐氏を称した。 後鳥羽上皇と
『先代旧事本紀』は神皇産霊尊の子神である天御食持命の「次」で、川(河)瀬造などの祖とするが(神代本紀・国造本紀)、『新撰姓氏録』では神魂命(神皇産霊尊に同じ)の5世の孫で、滋野宿祢[1]、大坂直[2]、紀直[3]、大村直田連[3]、川瀬造[4]、また伊蘇氏(伊蘇志)・楢原氏・滋野氏の祖と伝わる[5]。「天御食持命の次」の「次」をどのように解するかに問題があり、これを弟と見て神皇産霊尊の子神とすることもできるが[6]、5世の孫とする所伝の方が多い。 紀国造の末裔の紀俊行氏が所有する「紀伊国造次第」では、子に比古麻命がいるとされる[7]。 『先代旧事本紀』天神本紀によれば高天原から葦原中国へ降臨する事となった饒速日尊の護衛として付き従った32神の1柱で、同書国造本紀や紀伊国造家が伝える『国造次第』によれば神武天皇によって初代の紀伊国造に任じられた[8]。 異伝として『紀伊続風土記』所載の「国造
なぜ、反逆者は新しい王権の樹立をめざさなかったのか? 徹底的な殲滅戦が起こらなかったのはなぜなのか?――邪馬台国と狗奴国の戦いから前九年・後三年の役まで、古代史上の主要な内戦の様相を明らかにした、倉本一宏著『内戦の日本古代史――邪馬台国から武士の誕生まで』。古代史ファンのあいだで話題になっている同書の「はじめに」を公開する(一部編集をおこなっています)。 「戦争を(ほとんど)しなかった国」 前近代の日本(および倭国)は対外戦争の経験がきわめて少なかった(倉本一宏『戦争の日本古代史』)。 古代において海外で実際に戦争をおこなったのは、4世紀末から5世紀初頭にかけての対高句麗戦(とその前段階の対新羅戦)、7世紀後半の白村江の戦(に代表される百済復興戦争)の2回しかなかった。 その後も対外戦争は16世紀末の豊臣秀吉の半島侵攻のみであって(海外勢力の侵攻である新羅の入寇や刀伊〈とい〉の入寇、蒙古襲
約2500年前の縄文人の人骨に含まれる全ゲノム(遺伝情報)を解析した結果、約8千年前の東南アジアの遺跡で出土した古人骨から得られたゲノム配列と似ていることが、金沢大学の覚張(がくはり)隆史特任助教(生命科学)らの研究グループの調査でわかった。縄文人の全ゲノム配列の解読に成功したのは世界で初めて。日本人の祖先が、どこから来たのかを考えるうえで注目されている。 研究成果は11日、横浜市で開催中の国際分子生物進化学会で報告されたほか、6日付の米科学誌サイエンス電子版に発表された。 覚張さんらの研究グループは、コペンハーゲン大学を中心とした国際研究チームと共同で調査。愛知県田原市の伊川津(いかわづ)貝塚で出土した縄文時代晩期の成人女性の人骨1体について全ゲノム解析を行った。日本のような温暖湿潤気候の地域では、人骨のDNAは劣化しやすく調査は難しいとされてきたが、最新の研究手法で縄文人の全ゲノム配列
2009/08/09 天皇のルーツ テーマ:日本人のルーツ(526) カテゴリ:歴史 ユーフラテス川とチグリス川を遡っていくと古代アナトリアのヴァン湖があります。 BC3000年紀初め、ヴァン湖南岸にシュメール人一派のフツリ人が建てたエブラ王国が栄えました。 エブラ王国の遺跡から出土した碑文に旧約に登場する神の名や人名が刻まれているそうです。 セム系神話の神々、ダゴン、イシュタル、レセフ、ハダド、 シュメール人の王ズイキドウとエンキ神・・・ズイキドウは、エンキ神に大洪水を予告され船を作って 逃げ大洪水の後はディルムンに着いたと記す粘土板がニップルで発見されました。 フルリ人の神話の神々、アシュタピ、ヘバト、イシャラの名が見られます。 エブラ王国は、BC18~17世紀頃まで栄えて、アモリ人に破壊されましたが、 その後、地中海に面したウガリットに王国を築き、東西世界の接点としてまた栄えました。
探してみたっていうか前から無いなー無いなーってずっと思いながらなんとなく探してた。ええ、結論。ありました。 じゃなくて… 見つからないということが判りました。 第一と第二があると想定して「第三」と呼んでたのに 第二王朝の存在が不明 わりと「あるある」なパターンなんですが、どうしてこうなったのかというと。 ・「シュメール王名表」を元に都市国家ウルの王朝を想定 ・しかし第二の部分は実在したという証拠のある王様が今のところでてきてない ・ウルの場合、確実な歴史記録のあるのは「第三王朝」として知られる王様たちから ・第一の何人かは実在の証拠があるが、第二のあたりの時代はそもそもウルに単独の王がいない 年表だとこういうこと。(出展元「初期メソポタミア史の研究」) 第一王朝のあとはウルクの支配を受け、その後ルガルザゲシ以降はアッカド王朝の支配下に入るので、ここに果たして王朝が入るのかどうか今は微妙なカ
梶原氏の祖は誰? まずは、わりと一般的なところから! 初代の梶原氏は誰?というお話。 梶原氏の祖は、桓武平氏の流れを汲む鎌倉景久という武士。 平安時代末期、景久が鎌倉の梶原村に住み、梶原氏を名乗った事が始まりです。 名前のルーツは? 梶原氏の名前のルーツは、桓武平氏の祖である葛原親王にあります。 かつて、鎌倉の丘陵地に葛原親王を祀るお社があり、そこは今でも葛原岡と呼ばれています。 ちなみに! 親王の名前は『くずはら』と読むのではなく、『かずらわら』と読みます。 その後、そのあたりの住所が、鎌倉郡梶原村になりました。 つまり、葛原(かずらわら)→梶原(かじわら)という事! 鎌倉景久は、自分の先祖を祀った土地に腰を落ち着けて、先祖に因んだ姓を名乗った訳ですね。 葛原親王のさらに前のルーツは? ではでは、葛原親王のさらにその前のルーツを遡ると、どうなるの? 葛原親王の父は、桓武天皇。 母は、多治
『先代旧事本紀』「国造本紀」には阿波国造、『洞院家記』や『北山抄』には安房国造とも表記される。 律令制においては「阿波国」の表記は南海道の旧粟国が使用した(阿波国)ため、阿波国造が支配した東海道の阿波の地名は安房と表記されるようになった(安房国、安房郡など)。これに伴い、阿波国造も安房国造と表記するようになった。『日本文徳天皇実録』の嘉祥3年(850年)6月己酉(3日)条(神道・神社史料集成参照)によれば伴直千福麻呂という人物が「安房国々造」であったという。また『先代旧事本紀』の「国造本紀」の伊甚国造条によれば、伊許保止命という人物が「安房国造」の祖であるという。ただしこの伊甚国造条の「安房国造」は前田侯爵家[注 1]所蔵安貞年間古写本などにおける表記であり、神宮文庫本では「安度国造」と表記されている[2]。 『洞院家記』や『北山抄』によれば、安房国造は10世紀頃までの継続が確認される[3
久しぶりの投稿です。やっぱり文字入力するのが面倒で面倒で。。。(笑笑笑 ) さて前回の続き?(でもないけれど)忌部神について書いていきます。阿波国の他にも伊勢国、安房国・関東一円に分布し御鎮座された神 天日鷲命。なかなか実体が掴めない神だと思いませんか。その謎が解けない理由の一つに天日鷲命という御神名にトラップが隠されていたようなのです。 (阿波国早雲家 忌部系図) 麻植郡川田村早雲系図、即ち阿波国忌部家の系図の初発は天日鷲命と記されています。そしてその後に天日鷲命の御名が初代を含めて六代続けて記入されているのです。 即ち天日鷲命とは初発より継承された御神名なのです。 神代からの伝承は時代の移り変わりを経て、六人の天日鷲命は一人の神として認識されつつあります。当然、二代目天日鷲命からは別の神名も持ち併せておりまして、別の神として様々な記録が残されています。これを調査することによって、より詳
三つ巴紋 天太玉命(あめのふとだまのみこと)と呼ばれる神様がいます。 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に随伴して天降った五伴緒の一人で、「太」(うず)の氏族である忌部氏(いんべし)の祖とされる神様で、弟が天忍日命(あめのおしひのみこと)で、「犬」の氏族である大伴氏の祖になります。 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は、古事記のh 「太」(うず)は天細女命(あめのうずめのみこと)と夫婦になった猿田彦大神の「猿」であり、「太」と「犬」の関係は「猿」=「天照大神」と「狗」(犬)=「豊受大神」の関係になります。 天太玉命(あめのふとだまのみこと)は、蘇我氏に仕えて、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を作っていた秦氏の氏族です。 勾玉(まがたま)の形は、「渦」(うず)の形を表し、その形を表したものが「巴」(ともえ)という漢字で、「太」(うず)と同じ意味があります。 八幡神社(やはたじんじゃ)の神紋は、この「巴」が三
※写真はエリコの遺跡 聖書の記述をもとに、日本人はどっから来たのか考察してみました。 まず、日本人のルーツの一つとして考えられているのは秦氏と呼ばれる人々です。 ↓秦氏について調べてみた結果をまとめるとこんなんです。参考記事紹介してたら膨大になるんで疑り深い人は調べてください。 秦氏と呼ばれる人々は、ヒッタイト→古代エジプト→イスラエル→アッシリア→バクトリア→秦帝国→新羅→日本と移り住んだ氏族であり、古代エジプト式土木建築などの技術力に秀でていた。 参考↓ 【トルコ】古代史をひっくり返す大発見!ヒッタイト帝国の首都ハットゥシャの遺跡 http://taptrip.jp/5113/ ヒッタイト - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%88 紀元前1190年頃、通
2008/05/25 ウラルトゥの歴史 テーマ:日本人のルーツ(527) カテゴリ:歴史 日本の天皇家は、偉大なるウラルトゥ王朝の末裔であり、後に扶余王となって満州の地に君臨し ソロモンとシバの女王の子、メネリケの子孫である大物主一族と同盟して邪馬壱国を建て さらに百済国を建てました。 【ウラルトゥの歴史】 カッシュ人がウラルトゥ地方に侵入する前から、この地には原ヒッタイト族、カルトヴェリ族 ハヤシャ族などが住んでいました。フツリ人はエジプトやカナンから、この地に拡散して きたのですが、ヒッタイト資料は、この地方を【フツリ人の国】と記しています。 フツリ人は、BC2000年紀半ばには、ミタンニ王国に従事し、ヒッタイト王シュビルリウマシュ以降は ヒッタイト王国に従属していました。 ヒッタイト崩壊後、いくつかの少国家がヒッタイトの伝統を継ぎ、カルケミシュはハッティ国 オロンテスはハッテナ国とな
パオンのブログ 最初から続いている不思議な話です。 読まれていない方は、ブログのテーマ・「まとめ」から 読んで見て下さい。 最近、「倭文(しず)」の文字が、私に纏わり付いているので 興味を持っていました。 この意味が、今日、理解できました。 これは、「織物」の名称で、古代日本の織物を表していまし た。 赤と青の横糸をランダムに織り込んだ、大和時代に北九州 の海人族によって作られた織物とされます。 北九州の海人族は、つい最近、「世界不思議発見」で出て きたので、直に理解できました。 海人族とは、海の正倉院と言われる神の島(博多沖に浮ぶ「沖ノ 島」)を守ってきた「宗像(むなかた)」一族をそう呼んでいまし た。 「文」は、文様。織物の「あや」を意味して、「しず」は、「日本 工芸資料」には「筋」から来ていると書かれています。 「倭文」は、『和名抄』には、「シトリ」と注釈がついていて、 倭文布の織る
アラ族の呼び名や通称、別名を整理してみた! 古代史を追って行く時、一番の手がかりになるのはもちろん名前! でも、同じ部族でも、場所や時代でどんどん名前が変わっていくので、チョットややこしいんです。 そこで、アラ族の名前を整理してみたら、日本の世界統治時代の足跡が・・・ アラ族の王族は、オリエントやインドを統治していた時代、タージ(ターイ)と呼ばれていた タージとは、王冠という意味で王権を象徴していた タージの子孫が多治比(タジヒ)と名乗り、そのまた子孫が平(タイラ)と名乗った つまり、坂東平氏はアラ族の阿波忌部氏の流れをくんでいるということ。 だから、平将門がアラ族の象徴である九曜紋を使っている訳ですね。 将門公終焉の地 國王神社 平将門と妙見様の関係 さてさて、その平将門公が熱心に祀っていたのが妙見様! 各地に妙見神社を建てています。 歴史の授業では・・・ 妙見信仰は道教と仏教が習合した
古代史を追って行く時、手がかりになるのは、名前や祀っている神様、地名遷移や家紋などなのですが・・・ 結構ややこしいのが、じつは名前! 広い地域を移動して行くうちに、どんどん『呼び名』が増えて、訳が分からなくなって来ます。 「ん?あれとこれって同じ?」 「あれ?コレとコッチは違うの?」 なーんて。 しかも、子孫たちが色んな時代の『呼び名』を苗字にしたりするので、「同じ部族に、どんだけ名前あるんだ?」っという状況に・笑 っという事で! 今回は、アラ族の呼び名や通称・別名などを整理してみたいと思います。 アラ族は、地中海に進出した際に『アラム』と名乗った!というお話は、以前にしたかと思います。 その後、オリエントを統治したアラ族は、『タージ(大食、ターイ)』と呼ばれるようになりました。 オリエントやインドでは、今でも『タージ』は、王冠や王族を表す言葉になっています。 日本の『多治比(タジヒ)』、
最近、古代史にガッツリとハマっています(笑) 中でも、縄文や天の王朝時代に日本を統治していたとされる、2つの部族の動きがめちゃくちゃ面白い! つぶさに調べて行くと、アラ(アワ)族と呼ばれる太陽信仰族とナガ族と呼ばれる蛇信仰族が古くから共存していたようです。 そして、この2つの部族が、世界中に飛び地を作りながらオリエントに進出! アラ族は、地中海を根拠地に、アラム=太陽族と名乗り ナガ族は、ペルシャ湾を根拠地に、エラム(エラブ、イラブ)=海ヘビ族=海人族と名乗り この2つの流れが、シュメール文明に繋がって行く訳ですね。 この辺の事は、今も地名や国名に、その名残りが残っています。 例えば、シリアにあるアルワード島は、旧名アラド島=太陽族の島という意味。 そして、イランという国名は、元々は海ヘビを表すイラブーだったという事です。 アルワード島 – Wikipedia イラブー(いらぶー)とは |
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