「バナナと言ったらき・い・ろ」 日本人はイノベーションが得意ではないと言われています。 それは発想を生み出す教育をうけていないからです。 日本の教育は点数制。 良いか悪いかではなく点数が高いか低いかで評価を受けます。 点数制は確かに平等ですがこれでは個性は生まれてきません。 アメリカの授業ではよくエッセイというものを書かされます。 エッセイとは英作文の事で、自分の意見を紙の上で表現しなくてはなりません。 日本での教育の場合作文といえば国語の授業ですが、アメリカではエッセイを提出しろという授業は少なくありません。 つまり作文がもっと身近なものにあり、自分の意見を言葉にする機会を頻繁に与えられるのです。 このエッセイを書く時に必要な能力がブレインストーミングです。 アイデアなしには何も書き進められないからです。 アメリカ人はこのブレインストーミングを幼少期から幾度となくやらされてきているので斬
「お母さんね~死ぬまでに、もう一回でええけぇ、したいことがあるんよ~」 夕食時の会話にて 常日頃から、テレビのコマーシャルや大食い美女を見るたびに、このくだらない母ちゃんは、ど~でも良い様な事を話題にしてみます。 娘は無表情でテレビをガン見。 おっと~は「またか」というような顔をして、テレビに向けた目玉をちょっとこちらに向けて「なにがぁ~?」と聞いてくれました。 「もう一回でええけぇ、皆とゲラゲラ大声を出して、下品っぽくてもええけぇ、ぎゃははははと、声で笑ってみたいって言ったじゃろ~」 「・・・・・・」 「ギャル曽根ちゃんや、もえあずちゃんみたいに、腹がぐ~ぐ~に減ってる時に、下品でもええけぇ、でっけぇどんぶり持ってご飯をガツガツ、腹がちぎれるほど食べたいわぁ~」 (ちなみに腸ろう者の私は、腹がグーグー鳴る事はあっても、腹が減った感覚=低血糖に結び付くので、よろしくない) 「それから、あっ
書籍の表の顔はカバーですが、実質的な顔は索引です。 小説やビジネス書など索引がない書籍もありますが、専門書では必ず索引を制作します。そして、索引がどれだけ丁寧に制作され、充実しているかでその書籍の評価が決まります。 専門書の編集者は、他社の書籍を手にしたらまず索引をチェックし、試しに数語、引いてみます。その後、目次を確認し、本文へと進みます。もちろん私もそうです。 研究者はさらに厳しく、索引が適当に制作されていると判断すると、いくら口コミなどでの評価が高く、実際に内容が優れているとしても、その書籍を読むことはありません。 ただ、索引を制作するのは書籍の制作過程の中で最終段階になります。すべての修正が終わり、もうノンブルが動くことはないと確定しなければ索引を制作できません。 例えば「著作権」という語句が281ページの終わりのほうにあり、その直前に著者が加筆したために282ページにずれこんでし
チョココロネと戦争、軍事技術は切っても切り離せない関係にある。 そしてその歴史は、チョココロネのように甘いものではない。 今日はチョココロネと戦争の歴史を見てきたい。 さて、チョココロネだが、その起源は中世にまでさかのぼる。 その頃、チョココロネは騎士階級だけのものであった。 戦場において中世の騎士たちは右手に剣を、 そして左手にはチョココロネを手にしながら戦ったと言われている。 その姿はルーベンスの絵にも描かれている。 剣は力を、そしてチョココロネは名誉を意味した。 人々はそんなチョココロネ騎士達に対して、尊敬の念を向けたものだ。 だが、そうした状況を劇的に覆したのが、軍事革命である。 軍事革命・・・それはすなわち、火薬の発見とチョココロネ砲の発明だ。 それは中世末期に勃発したイタリア戦争において、唐突に姿を現した。 チョココロネ砲の圧倒的火力。 騎士達は、無慈悲に発射されるチョココロネ
誰もが自分の人生で精一杯 何を求め どうなりたい その為に何を得る 得る 得る 得る その事ばかりに一生懸命だ 命がある その事だけでは 誰も満足しない様だ 生きよう 純粋に一緒に生きよう ただそれだけでは 人生とは言わないのか 何かを得る為に生まれたのか それはお金か それとも高尚な精神か それは名誉か それともブランドか 称号を得たら その存在は他のどの命よりも上なのか 上下なのか 優劣なのか でも 私が求めるのは そのどれでもない ただ共に生きたい それだけではだめなのか 在るがままを受け入れ 生きることはいけないのか 生きているだけでは 不満なのか 誰もが求める事に夢中で 与えようとしない 与えるポーズの裏で 我欲が透ける御利益信仰が まるで美しく飾り立てられている
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く