晴天の価値 2月中旬に出張で千葉へ行った。5日間の滞在中はずっと快晴で、気温は20℃に迫る春のような暖かさだった。仕事は朝から晩まで現場を走り回る過酷なもので、身体的にも精神的にも追い込まれた。毎朝、京葉線から見える美しい景色を眺めて正気を保っていた。太平洋へ燦々と…
やおい/BLは、主にレズビアン/ゲイ・スタディーズの分野から批判的に評価されてきた。ゲイにファンタジーを押しつける、ゲイを「一角獣のような幻の存在」として描いており「不愉快」である、男性同性愛者の性を商品化した差別表現であるなどと批判されてきた。これらをまとめて表象の横奪(the appropriation of representation)の問題と呼んでおく。 (石田仁「ほっといてくださいという表明」 『ユリイカ』2008年12月臨時増刊号 総特集BLスタディーズ)> 1 それは〈私たち〉にとって何であるか 本稿の表題はエピグラフとして引いた石田論文への応答というよりは軽くガンつける挨拶するくらいのつもりでテキトーにでっち上げられたものだが、ここでいう〈私たち〉とは、論文に慣用的に使われて嫌う人もいる(私はけっこう好き)一人称複数ではなく、具体的な二者を指している。むろん、読む人は
心と体の性が一致しない人が戸籍上の性別を変えられる「性同一性障害特例法」をめぐり、与党は、子どもがいる場合は性別を変更できない「子なし要件」を緩和する改正案を参院に提出する方針を決めた。子どもが成人したのを条件に「女性の父」「男性の母」が認められることになる。 民主党も同様の検討をしており、与野党間の調整がつけば、今国会中に超党派の議員立法で改正される見通しだ。 性同一性障害者は、外見と戸籍の性別が異なることから、正社員として就職できなかったり、パスポート申請で問題になったり、様々な不利益が指摘されてきた。このため、04年7月に施行された特例法により、家裁の審判を経れば戸籍の性別を変えられるようになった。 しかし、現行法では、子どもがいる場合は、「性別を変えると、混乱する」などとして、家裁で審判を受けられない。当事者には、当初から改善を求める声が強かったうえ、付則で施行3年後の見直し
というわけで、ヒマがあると日記系を見てます。あいかわらずハマってます。こういうのが人生っていうもんだよな。思想とか哲学とか要らんよ。 なんかもう壮絶すぎて言葉もない。 罪と罰@日記系.jp [nikki-k.jp] 他人にはどうしようもないんだけど。犬も可哀想。まだ5日分しか書いてないけど、すでに人の一生分の不幸が書いてある。 教務委員というお仕事を仰せつかっておりまして、それなりに忙しいんですが、民間の金融とか不動産とか旅行会社とかマスコミとかに比べたらぜんぜんマシだと思いますが、まあ忙しいことは忙しいです。うーん、どうなんかな。やっぱり忙しいんかな。原稿の締め切りとか抱えながら新年度のカリキュラムをいろいろアレするとか、履修登録のアレをアレするとか、雑用ばっかりなんですけど、まあ忙しいんだろうなあ。しかし大きな組織で正規雇用されるのが人生初の体験なんで、なにしろ今までバーテンとか
これ、ずっと、「女が好きな女=レズAVの登場人物みたいなエロエロの存在」という偏見のせいかと思っていたんですが、もっと根深い理由に思い当ったので、メモ。 創作物の中のレズビアンやバイセクシュアル女性が「24時間、女と見れば相手構わず欲情するセックスモンスター」みたいに描かれてしまいがちなのは、とどのつまり、「この社会の中では、女性は、女性相手に欲情している瞬間以外は自動的に異性愛者だと判断されてしまうから」なんじゃないでしょうか。 たとえばですね、 朝マックで朝食をとっているOLさん 自転車漕いで学校に向かう女子中学生 淡々と授業を受けてる女子高生 コンビニでレジを打つ女性アルバイトさん ……なんていう、特に誰に向かっても欲情を示していない状態にある女性は、たとえセクシュアリティについて何の表明もしていなかろうと、全員自動的に「異性愛者である」と判断されてしまいがちなわけですよ、この「人類
『女性史学』14号、2004年、女性史総合研究会、pp.105-6 「宗教とジェンダー」研究私見 川瀬貴也 私の専門は宗教学です。その研究対象たる「宗教」といえば、いわば「保守本流」の総本山、と見る向きもあろうかと思います。固定的な男女性別役割・性差別を正当化する教説というのは、これまでの研究が明らかにしてきたとおりですし、旧約・新約聖書やクルアーン、諸々の仏典(偽経も含めて)に女性差別的な言辞が蔓延っていることも、これまた女性神学やフェミニズム仏教学などの成果が鋭く指摘していますし、私も講義で「宗教はいかに女性差別を合理化してきたか・しているか」ということを教えています。 私は元々ジェンダーを主たる対象として研究してきた者ではありません(まだ、それを主題とした研究成果も出しておりません。いずれ出すつもりではいますが)。 私が「ジェンダーと宗教」というテーマに取り組み始めたのは、初
2007年の日本女性学会大会シンポジウム『バックラッシュをクィアする〜性別二分法批判の視点から〜』をふまえて、フェミニズムとセクシュアリティに関する研究会「07年大会シンポをうけておもうこと」が開催されたという。発端の今年の女性学会の大会シンポジウムについては、学会ニューズレターで報告を読んだが、なんかかゆいところに手が届かない感が残ったものだった。だが、周りに参加したという人もいなくてよくわからないままだった。それが今回、山口智美さんの参加レポート日本女性学会研究会レポ:守旧化するフェミニズム? と、FemTumYumでのマッチポンプ、あるいは、対立の禁止が対立をつくりだすならびに発題を読んで、ようやくもやもやが晴れた。簡単にいうと、女性学会に対する内部からの批判が、内部批判ではなく「外部」からの攻撃とみなされ、それを回避しようとする対応がなされたらしいのだ。そして今度の研究会ではその問
北朝鮮が多くの日本人を拉致したということは許しがたいことだが、ひとりの人間の欲望のために、日本人の少年を連れ去ったとすれば、これも問題ではなかろうか。 戦時中から戦後にかけての日本の混乱期のことは体験したことのない、戦後生まれの人に理解してもらうことは難しい。 米軍の無差別な空襲によって、家を焼かれ親兄弟をも無くして孤児になった子供たちが、上野の地下道に寝泊りしていた。 アメリカのお金持ちが、それらの少年をアメリカに連れて行ったという話は、戦後の新聞紙上に美談として記事になっていた。 もちろん純粋な気持ちで少年たちをアメリカに連れて行って面倒を見た人もいたに違いない。しかし『薔薇族』の編集長として長い間、同性愛の問題に取り組んできたぼくとしては、どうしても少年愛のアメリカ人が日本の少年を連れて行ったのではないかと、推測して考えている。 何年か前にアメリカのカソリックの神父さんが少年に手を出
15日土曜日は、「同性カップルの生活と制度」というシンポジウムを聞いてきました。テーマは二つで、タイトルの通り同性カップルがどのような普段の生活を送っているのか、同性カップルはどのような制度を求めているのか調査し、中間報告をするというものでした。非常に興味深い内容でしたね。まず生活ですが、食事は仕事から早く帰ってきた方が作ることが多くなり、掃除はパーソナリティがよく出るんだそうですね。「気付いた方がやる」ことが多いんですが、気付くのは自然とどちらか一方になるんだそうで。それから家の問題も興味深かったですね。正社員として働いている男性カップルは家を持てますが、派遣やバイトの女性カップルは住むところにさえ困っています。年収の違いがはっきりあるんですね。男女は依然として平等ではなく、格差は同性愛カップルにもあるんです。 それから制度について。今は同性カップルの間にはなんの法的裏づけもなく、一緒に
――自己紹介をお願いします。 A: 某上場企業でOLをやっている30代前半です。最近ハマっているのは「仮面ライダー 電王」。好みのタイプは「金色のコルダ」の土浦梁太郎、「遙かなる時空の中で3」の梶原景時、「ときめきメモリアルGirl's Side」の氷室先生です。 B: 私は20代後半、フリーターです。「おおきく振りかぶって」の阿部隆也くん、「アンジェリーク」のクラヴィス。あと、金色のコルダの月森蓮にハマって、そこからその声優だった谷山紀章さんのファンになりました。 C: もうすぐ23歳になります。私もフリーター。中3のときに声優の関俊彦さんのファンになって、そこから広がっていった感じです。好きなのは「電王」と「ここはグリーン・ウッド」、「最遊記」。ネオロマ(ネオロマンスシリーズ。「アンジェリーク」「遙かなる時空の中で」などコーエーの女性向け恋愛ゲームの総称)だとアンジェリークのルヴァ様で
「好き」を扱う言説には力関係が関わっている。 社会の中で歓迎される「好き」と、歓迎されない「好き」とがあって、 屈託なく表明することのできる「好き」と、それが許されない「好き」とが、しっかりと存在している。そこに、力関係の強弱がある。 そして、「弱い」部類の「好き」をもっている人間はどうするかというと、 言っても歓迎されないために、むしろ傷つくことが多い、ああ、ここではこれを「好き」って言ったらいけないんだな… ということを「学んで」いく。内向していく。クローズドになっていく。 出版業界ないしコンテンツ業界においては、「腐女子」はドル箱化しつつあるけれども、実際、世の中規模でみたら、 「女の」「オタクの」「好き」なんていうものは、いわば底辺レベルのものだろう。 「腐女子」がもぐってきた理由というものは、それが分かっていたのでそうしていた、ということじゃないんだろうか。 腐女子をめぐる軸は二
子どもが忌避される時代―なぜ子どもは生まれにくくなったのか [著]本田和子[掲載]2007年12月2日[評者]香山リカ(精神科医、帝塚山学院大学教授)■「次世代を作る」を公的な営みと主張 私事になり恐縮だが、私には子どもがいない。決意や選択の結果というより、何も選択せずにいたら自然にこうなった、とこれまで思っていた。 著者は、少子化の根っこにあるのは「子ども忌避」の心性だとする。だとすると私も、自分でも気づかぬうちに「次世代の人間を作り出すという営み」を積極的に忌避していたのだろうか。これはただごとではない。 しかし著者は、この「子ども忌避」は現代女性の意識の変化のみによって起きたものではない、とする。それは、社会の近代化に伴ういくつかの変化の総体なのだ。そして、親子関係、生活空間、都市空間、情報ツールやメディア、犯罪など、それぞれの要素ごとに「子ども感」の変化の歴史を丹念にたどっていく。
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く