J1・FC東京は28節の鹿島アントラーズ戦で1−5の大敗。続くヤマザキナビスコカップ準決勝でも清水エスパルスに0−3で敗れて3年ぶりの決勝進出を逃した。ポポヴィッチ監督は表情を曇らせ、準決勝の試合直後の光景を振り返った。 「上にいけると信じていたが、そうはならなかった。われわれは、決勝の満員のスタジアムで喜びを分かち合えるチームだと信じて疑わなかった。その気持ちは今も変わらない。試合後、サポーターは失望し、悲しみにくれる表情を見ていると胸が苦しくなった。だが、私もチームもいつまでも落ち込んでいても仕方ない。彼らの涙を笑顔に変えなければいけない。左胸のエンブレムに誓って全力を出して残り試合を戦っていく。それがわれわれの未来にとって必要なことだ」 すでに天皇杯も敗退しているため、FC東京の今季は12月1日のJ1リーグ最終戦で終わりを告げる。残すはリーグ6試合。そのすべてを勝ちにいく。ただし
前日会見に臨むフランス代表GKのロリス(左)。自らを「若林派」と称する『キャプテン翼』ファン【宇都宮徹壱】 フランス戦前日。試合会場のサンドニ(スタッド・ドゥ・フランス)では、日本代表とフランス代表、両チームの会見が行われた。日本側はアルベルト・ザッケローニ監督一人だったのに対し、フランス側はキャプテンでGKのウーゴ・ロリス、そして監督のディディエ・デシャンが、それぞれたっぷり時間をとって質疑に応じていた。個人的に興味深かったのが、ロリスに対してフランスのメディアからこのような質問が出たことだ。 「あなたは90年代に『キャプテン翼』というアニメを見ていたか? 2人の優秀なGKが出ていたが」 それに対してロリスはにっこり笑って「もちろん。われわれの世代はみんな『キャプテン翼』を見ていた」と答えると、質問した記者は「では、あなたは若林派か、それとも若島津派か?」とさらに突っ込んできた。若林
Jリーグ・ナビスコカップの準決勝第2戦が13日に行われ、第1戦を2−1で勝利していたFC東京は、清水エスパルス・大前元紀のハットトリックに沈み、0−3で敗戦。2戦合計スコアを2−4で決勝進出を逃した。 以下は試合後の塩田仁史(FC東京)のコメント。 「0−3というスコアになるようなゲーム内容ではなかった。決定的なチャンスはうちの方が多かった。でも、相手の方が粘り強くて僕たちが負けてしまった。2次攻撃、3次攻撃を受けたときにマークの受け渡しがずれて、1点目は一瞬のすきをつかれて失点してしまった。 0−1で後半に入るときには、追いつけば2戦合計で勝てるので、後半の45分で1点を取るという意識をしていた。でも、相手に先に点を取られてしまった。あの失点(2点目)は僕と丸山のコンビネーション次第で防げたと思う。全体としてナーバスになりすぎずに、もっと自信を持ってやるしかない」 取材協力:Jリ
東アジア選手権・香港戦での観客数は1万6368人。気温3.6度、雨が降りしきる中のナイトゲームに詰め掛けたサポーターは少なかった【Photo:北村大樹/アフロスポーツ】 今年2月、サッカーファンは今さらながらに、この季節のサッカー観戦の過酷さを身にしみて理解することとなった。6日から14日まで東京の味の素スタジアムと国立競技場で開催された東アジア選手権である。いくらテレビ中継に配慮したとはいえ、厳寒のこの時期にナイトゲームを行うのは、どう考えても現地観戦組に対する配慮が欠けていると言わざるを得ない。公式記録を見ると、尋常ではない気温が記されている。中国戦2.5度。香港戦3.6度。韓国戦はちょっと上がって7.3度。ただし香港戦は雨が降ったこともあり、観客数は1万6368人と、Jリーグ開幕以後の国立での代表戦としては最低記録となった。 「この時期に試合はするもんじゃないね。せめて陽があるうち
元日本代表MF広山望は、96年のジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド千葉)入りを皮切りに、パラグアイのセロ・ポルテーニョ、ブラジルのスポルチ・レシフェ、ポルトガルのスポルティング・ブラガ、フランスのモンペリエと世界を行脚し、2004年にJリーグに復帰した後は東京ヴェルディ、セレッソ大阪、ザスパ草津でプレーした。2010年末に戦力外通告を受けた30代のベテランが、現役最後の戦いの場所として選んだのが、米国独立リーグのユナイテッドサッカーリーグ(USL)に属するリッチモンド・キッカーズだった。2011年4月に米国に渡り、2シーズンを過ごした広山は、2012年8月末、17年間のキャリアに終止符を打つことを決断し引退を正式発表した。 そんな広山が先ごろ帰国し、単独インタビューに応じてくれた。たぐいまれな国際経験を積み重ねてきた“さすらいのフットボーラー”が自らの現役生活を振り返るとともに
1997年ファーストステージ、横浜フリューゲルスのスターティングメンバー。ブラジル代表のジーニョ(10)、サンパイオ(8)を擁した【Jリーグフォト(株)】 横浜フリューゲルスは、日本サッカーリーグ時代から「全日空」にゼネコンの佐藤工業が共同出資するという形でスタートしたクラブ。当初は「AS(ANAとSATO)フリューゲルス」と称していたが、93年にはJリーグの呼称ルール(地域名と愛称)に従って「横浜フリューゲルス」と呼ばれるようになっていた。 日本全国をカバーする航空会社である全日空が母体となっていることもあり、神奈川県の横浜市をホームタウンとしながらも、鹿児島、熊本、長崎という九州の3県も「特別活動地域」として認められるという特殊な形でスタート。だが、結果的にはそれがクラブ経営を苦しくさせる要因のひとつとなった。 「横浜市にはマリノスがあり、サッカーというとマリノスというイメージが定
ヤングなでしこの田中陽子もJFAアカデミー福島の1期生。幸野とともに、高い技術を持つ【写真:北村大樹/アフロスポーツ】 「あの若さであれだけ完成された選手はそういないと思います。所々でのミスはありましたが、基本的にはうちの選手はみんな逆を取られてボールを奪えませんでした」 2日に行われたJ2第32節のFC町田ゼルビアとファジアーノ岡山の試合後、岡山のMF仙石廉がマッチアップすることの多かった町田のMF幸野志有人を評したコメントだ。8月上旬にFC東京から町田に期限付き移籍をしてきた19歳の若手ながら、すでにアルディレス監督の標榜するボールとイニシアチブを握った上での攻撃的サッカーの軸としてスタメンを勝ち取っている。 今季は選手層の厚いFC東京で出場機会に恵まれなかったことから「まだ90分のゲーム体力は戻っていない」と幸野本人は語るものの、岡山戦後は「タイミングよくボールを付けてもらえるよ
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