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ブックマーク / mercamun.exblog.jp (19)

  • ブルデュー「科学の科学」は、科学の民主化批判か? | 社会学玄論

    現代社会学の巨人であるブルデューが、科学の質に対する深い分析を加えている。大学での科学をテーマにした講義をまとめて出版された「科学の科学」がそれである。これは、基的に科学社会学の書である。 STSの中心的存在である科学社会学者平川秀幸らが主張する専門性の民主化(「科学の民主化」を意味する)という流れとは全く逆の科学観に準拠していることがもっとも興味深い。ブルデューの科学観によれば、科学的知識とは、一定の資格をもつことで科学界に所属することを許された=科学者たちや科学者集団が作り出す権威付けられた専門的知識である。 つまり、ブルデューによれば、科学的知識とは、科学者個人が単に研究対象との関係から得るのものではなく、科学界において他の科学者との競争・協力関係から構築されるものであり、集合的産物であるということである。 自然科学の場合、数学、統計学、語学などの素養があり、特定の分野の専攻学歴

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    yuiseki
    yuiseki 2011/12/27
  • 「居場所の社会学」書評 「自分探し」から「居場所探し」へ | 社会学玄論

    阿部真大という社会学者がいる。「居場所の社会学」という若者論を書いている。興味のある点は、居場所の社会学が独自の幸福観に準拠していることである。それは、居場所のない人間は生き辛さを感じ、不幸であり、居場所のある人間は幸福であるという思想である。この幸福観は、人間科学的に何ら実証的根拠をもつものではないが、阿部真大氏の個人の社会体験に根付いた貴重な思想なのである。 阿部氏は、居場所がある人間は幸福であるという思想に基づき、家庭、職場、学校、地域社会、サークル、仲間集団、恋愛など、あらゆる社会的領域を人々の居場所にすることで、社会全体がよくなると考えている。 ただし、各社会集団が人々の居場所となっても、それがイコール各社会集団の社会的機能遂行に直結するとは限らない。この点は、保留しておきたい。 これまでの社会学の分析概念から居場所という概念に近い概念を考えてみたい。社会学者ハーバーマスが準拠す

    「居場所の社会学」書評 「自分探し」から「居場所探し」へ | 社会学玄論
    yuiseki
    yuiseki 2011/11/02
  • ホメオパシーは科学的である故に、批判される。 | 社会学玄論

    私がブログ夏休み中にすごいことになっていた。システム論をペースにしたネット論客である情報学ブログさんのブロクが炎上したようである。 http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-5cb3.html 「科学はホメオパシーを否定できない」というニセ科学批判者の道徳意識を逆なでするタイトルにも炎上の原因がある。はてブもすごいことになっている。「科学はホメオパシーを否定できない」というタイトルがニセ科学批判者によるブログ炎上プラスはてブの多量批判コメントを招くことぐらいは、もはや情報学の池田氏なら、情報学的に予測していたことと察する。 ブログ炎上ついては、今更という気がするので、何も言わないが、気になったのは、ホメオパシーそれ自体である。 情報学さんの主張は、ホメオパシーが西洋近代医学=科学の論理と根的に異なる故に、科学によってホメ

    ホメオパシーは科学的である故に、批判される。 | 社会学玄論
    yuiseki
    yuiseki 2010/08/21
  • 社会学はコード化された反省的判断力 | 社会学玄論

    カントは、人間の能力を、因果律に支配された世界を認識する悟性(純粋理性)と自由意志の世界を認識する理性(実践理性)に分けた。悟性の対象は現象世界であり、自然科学の領域に対応し、理性の対象は質(叡智界)であり、道徳学・倫理学の領域が対応するということになる。つまり、事実判断と道徳判断の区別を厳しく線引きしたのである。カントは、道徳判断は、科学の対象外という哲学的根拠を見いだしたわけである。 さて、しかし、この二つを統合する能力として、カントはさらに判断力という能力を持ち出してくる。判断力とは、主語と述語を結合する能力のことである。判断力は、規定的判断力と反省的判断力に区別できるという。 規定的判断力は、「これは何々である」という命題で表され、主語たる対象に述語が属性として含まれていることを意味する。つまり、対象に真理が宿るということであり、客観的であり、自然科学の判断は全て規定的判断力とい

    社会学はコード化された反省的判断力 | 社会学玄論
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    yuiseki 2009/11/30
  • 科学が扱えない領域について | 社会学玄論

    何でも科学の対象にできると考えている方がおられるので、ここで釘を刺しておきたい。もし森羅万象を科学は対象とすることが可能であると考えるのなら、それこそ科学万能主義と言われるものになってしまう。科学は、自己の限界設定ができてはじめてその意味を獲得する。 基的に、反証可能性のない対象については、科学の対象ではない。従って、「神は存在する」や「死後も霊魂は存在する」という反証不可能な命題にかかわる対象については、科学の外にある。神や霊魂は、科学の対象外であり、科学的に扱うこと自体がナンセンスなのである。 社会学では、世界の根源的偶然性については、科学の対象外であり、宗教のみが処理することが可能だと考える。世界の根源的偶然性とは、例えばこういうことである。交通事故にあってある人間が死んだとする。死亡の原因は科学的(医学的)には説明がつく。しかし、なぜこの人だけがたまたま交通事故にあって死なないと

    科学が扱えない領域について | 社会学玄論
    yuiseki
    yuiseki 2009/10/18
  • 人間科学・社会科学からは、脳科学は疑似科学? | 社会学玄論

    (ハード=形式/ソフト=内容)という区別から、心を観察すると、ハード面は確かに脳科学者がいうように脳神経細胞のネットワークから創発するものかもしれないが、ソフト面は社会的につくられて発生したものである。つまり、思考や論理は言語によって可能となり、価値意識や規範意識は教育によって可能となるし、その他、感情や感覚も家庭での躾が影響してくる。要するに、思考、価値、感情、感覚は社会的につくられる。このことを社会化という。 心の構造は脳神経細胞のネットワークによって規定されるかもしれないが、心の内容は社会によって規定される。これはごく当たり前のことであり、社会が存立するためには、ある程度、必要なことである。 さらに重要なことは、自我意識は、社会がなくしては生成しないということである。赤ん坊には感覚・感情レベルの心はあるかもしれないが、自我意識はまだ生成しておらず、自他未分化だとよく言われる。言語を習

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    yuiseki 2009/02/16
  • 言霊が可能となる条件 | 社会学玄論

    生きていること、心を感じること、これは論理的で厳密な概念で書かれた科学的な学術論文を読むよりも、人々には文学・音楽・美術などの芸術のほうが表現しやすく伝えやいのではないだろうか? 優れた物語、詩歌、音楽、絵画等に触れて、泣いたことはないだろうか? 言葉の中に心を感じたことはないだろうか? 日常的に言うと、他者と会話している時、我々は、その言葉から他者が生きており、心があることを感じているのである。言葉は命と心を運ぶのである。シンガーソングライターの曲に感動し、心が揺さぶられるのは、曲に心を感じ取ることができるからである。このように考えると、言葉に魂が宿るとする言霊信仰は、我々の日常体験から乖離しているわけではなく、むしろ当たり前とさえ言える。非科学的だからおかしいとは言えない。 仏典や聖書や論語が、厳密な論理ではなく、物語や喩え話からなっていることも、重要である。命や心や道徳の質を伝える

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    yuiseki 2009/02/16
  • 反証主義の適用外(技術開発系科学) | 社会学玄論

    科学の公準の中に反証可能性が含まれる。つまり、反証可能性のない命題で構成されている学説は、科学ではないとされる。科学と非科学を区別する重要なファクターとして、反証可能性は必須のものと考えれている。 しかし、「命を人工的につくることができる。」「心を人工的につくることができる。」「永久機関をつくることができる。」「タイムマシンをつくることができる。」という命題は、反証可能性をもたない。例えば、ロボット工学者が心のあるロボットをつくる開発実験に失敗したとしても、「心を人工的につくることができる。」という命題が反証されたことにならない。逆に、その後もし成功すると「心を人工的につくることができる。」という命題は、実証されたことになる。さらに、開発が成功し実証された後は、ずっと反証不可能となる。 科学技術・開発にかかるこの種の可能性命題は、反証可能性を判断することができず、非科学的なのだろうか? そ

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    yuiseki 2009/02/02
  • 科学教の本質 | 社会学玄論

    ニセ科学批判者たちが使用するレトリックの自己矛盾を指摘しておきたい。 ニセ科学批判者たちは、科学的知識は事実そのものである絶対的真理には到達不可能であるが、科学によってそれに近づくことができると主張する。つまり、個々の科学的知識は事実と思われる認識内容であって、永遠に事実そのものには到達できないが、実験と観測を重ねることで事実そのものに限りなく近づいていくことが科学の営みであるというわけである。この論理からすると、かえって科学は、絶対的真理を前提としていることがわかる。もう少し詳しく言うと、科学は、事実そのもの=絶対的真理=対象と認識内容が完全に一致した命題の存在に近づくことを目標とすることで成り立っている。しかし、何を根拠に事実そのものにより近づいていることを判断できるのだろうかという疑問がすぐに湧いてくる。ここで科学そのものがパラドックスに陥ることは、システム論者なら誰でもわかる。それ

    科学教の本質 | 社会学玄論
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    yuiseki 2009/01/05
  • クオリアという観察(質/量) | 社会学玄論

    科学者·茂木健一郎が提唱するクオリア論は、微妙な立ち位置にある。ニセ科学批判者系のブロガーからあまりよく思われておらず、ニセ科学や擬似科学のレッテルを張られそうな雰囲気である。 区別の論理から、クオリア論をコード分析すると、実は自然科学ないしは数理科学に対する第二次観察だと言える。つまり、自然科学ないしは数理科学は、(質/量)というメタコードに準拠しており、量をマークして構築された学問であるということである。一方、クオリアは、決して量には還元されない世界の一面を指していることになる。自然科学や数理科学は、クオリア論によって相対化される。質は量に還元されず、量は質に還元されない。 ただし、ここで問題となるのは、クオリア論が実証性、反証性、客観性をもつかどうかである。クオリアは主観的感覚であり、客観化することができない。しかし、そうなると、量の世界は、数式で表現できる客観的世界であるが、質の世

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    yuiseki 2009/01/05
  • 科学による客観的事実の独占化 | 社会学玄論

    科学が存在する前から、人は自然に対する知識をもっていたわけであり、科学のみが客観的事実を独占するというのは、おかしな話である。 例えば、河豚には毒があるとか、水を沸かすと蒸発するとか、種をまくことで穀物が生えてくるとか、数え上げれば切がない。また自然に対する知識には、能というものもある。匂いや味で腐ったものを判別することもできる。近代化し科学が誕生する前から、人間は自然に対する客観的事実を知っていたのである。自然に対する客観的事実は科学の専売特許ではないことがわかる。科学的方法でしか客観的事実を得ることができないと考えたり、科学が一番よく客観的事実を見つけ出す方法であると考える人がいたら、それは一種のおごりである。 科学という知識に人間が頼りだしたのは、近代社会に入ってからである。近代社会の仕組みと科学は平行している。社会学的には、科学を論じることは、近代化を論じることと質的に同じであ

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    yuiseki 2009/01/05
  • 自己観察=社会観察 | 社会学玄論

    自己認識は、同時に社会認識であり、社会認識は自己認識である。なぜなら、社会のシナリオ=役割は、我々人間の中に存在するからである。言語や規範の習得そのものが社会の内面化である。社会学では、人間が社会を内面化することを社会化という。この社会化が社会秩序を発生させる基盤であり、社会の素になる。だから、自己を観察することで、自己に内面化した社会を観察することができる。(人間は他者との関係性の中にあり、自己観察は同時に他者観察も含むことに注意) 人が社会について語ることができるのは、実は自己に内面化した社会を観察できるからである。調べてもいないのに社会を語るなという人もいるが、これは社会学というものに対する無理解からくる。少しでも社会学を学べば、調べなくても社会を語ることは可能であることがわかる。社会は自己に内面化しているからである。人間は、社会を内面化することで社会生活を送ることができるのである。

    自己観察=社会観察 | 社会学玄論
    yuiseki
    yuiseki 2008/12/16
  • 歴史学は全て非科学的知識。 | 社会学玄論

    (一回性/反復性)、(個別性/一般性)という区別から科学主義や反証主義を観察してみたい。 原理的に、反証可能性は、反復性のある命題にのみ適用され、一回性の命題には適用できない。 例えば、「リンカーンはアメリカ大統領になった」「リンカーンは死んだ」という命題は、歴史上の真実であるが、この命題には反証可能性はない。 一回性・個別性から構成されている命題についての真偽は、反証実験ができず、反証主義の適用外である。しかし、このような命題も歴史学では真実として扱われている。何を根拠にして真実であることがわかるのか? 歴史的事実=真実は、演繹的推論でもなく、実験でもなく、成立っているように思われている。 科学主義者は、「リンカーンはアメリカ大統領になった」「リンカーンは死んだ」という命題については、科学的に立証できないので、真実ではないと言うのだろうか?それでは、あまりにも歴史学者が可哀想である。ニセ

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    yuiseki 2008/09/19
  • 生きる意味の脱パラドックス化 | 社会学玄論

    生きる意味とは何か? を考えてニヒリズムに陥る者が多い。 生きる意味を追求する思考は、必ず自己言及のパラドックスに陥る。一つの生きる意味が見つかったとしても、またそれを根拠付ける意味が必要となり、無限遡及に至るからである。これは、(意味/無意味)という区別自体に(意味/無意味)という区別を自己適用していることになる。 同じく、(当の)自分とは何か?を考えて独我論に陥る者は多い。 自分とは何かを追求する思考は、必ず自己言及のパラッドックスに陥る。自分が何であるかがわかった途端、その何とは何かという疑問が生じ、無限遡及に陥るからである。これは、(自分/自分でない)という区別自体に(自分/自分でない)という区別を自己適用していることになる。 善悪、真理、幸福など、これら全ても同じである。 このように全ての哲学的課題は、必ず自己言及のパラドックスに陥り、原理的に答えることは不可能であり、不毛な議

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    yuiseki 2008/07/27
  • ソシュール批判(素朴実在論の復権) | 社会学玄論

    実に多くの哲学者や現代思想家がソシュールの言語学に騙されてきた。名称の恣意性は認めるが、言語つまり概念が差異の体系からなるというのは、誤謬である。この誤謬のために、多くの思想家が勘違いの上に理論を構築してしまっている。その典型が構造構成主義である。 例えば、ソシュールの言語論からすると、犬という概念は、犬とは異なる動物との差異によって規定され、意味をもつと考えられる。一つの概念は、それと異なる概念との差異によって意味が生成すると考えられている。 ところが、実際にはどうだろうか?犬という概念を子供が身につけるために、犬以外の動物をいくら教えたところでダメである。ブタや象を見せて、これは犬でないと指し示しても無駄であり、犬を見せて犬と呼んで指し示すことをしない限り、犬という言葉=概念は学習することができない。また、カレーライスというべ物を知るために、いくらカレーライス以外のべ物をべても、

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    yuiseki 2008/05/11
  • 社会脳論(脳科学批判) | 社会学玄論

    個人レベルの合理性とは異なり、社会にも合理性がある。 人類の脳の進化は、クロマニヨン人ぐらいからほとんどとまっているらしい。しかし、人は脳を進化させるのではなく、社会形態を進化させることで、環境に適応してきた。 実は、社会には脳がある。三人よれば文殊の知恵とあるがごとく、個々人の脳の理性を凌駕した偉大な理性が社会にはある。人間は、社会の理性を利用することで生きているのである。脳科学の欠点は、社会脳の存在を無視して個人の脳だけを分析する視野の狭さである。社会脳との関連なしに、個人の脳はわからないのである。 伝統は、社会脳の一種である。伝統とは、長い人間の歴史で生き残ってきた知恵である。伝統を踏襲することで、共同体内では、おおよそ、うまくやっていけるわけである。ただし、伝統は、社会が変化すると、通用しなくなるものがあるので注意である。 社会学者ハーバーマスは、対話的理性(コミュニケーション的理

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    yuiseki 2008/05/11
  • 社会学玄論

    この独自の社会哲学思想について分析を加え、今後、この思想が多くの人々にコミュニケートされていき、現代日社会において、社会統合や自我統合の機能を果たすことができるか社会学的に検証していきたい。 さて、訂正可能性の哲学が言わんとすることは、真なる民主主義や平和を実現するためには、既存の社会の否定や修正ではなく、訂正によって可能となるということである。既存の社会の否定は左翼やリベラルの立場であり、既存の社会の修正は右翼や保守主義の立場に対応することになる。このような二つの対立する立場を止揚し、訂正する力のみが持続可能な社会を可能にするというのである。そして、明治維新や戦後の象徴天皇制などは、訂正する力の賜物だと主張している。これまでの日社会の社会改革は、既存の社会体制を全否定する革命ではなく、また単なる伝統の修正でもないというのである。日社会は、革命でもなく、伝統の継承でもなく、訂正する力

    社会学玄論
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    yuiseki 2008/03/03
  • 科学は錯覚である? | 社会学玄論

    西條氏の構造構成主義の源流には、構造主義科学論がある。構造主義科学論は、池田清彦氏があみだした独自の科学哲学である。構造主義科学論の最大の特徴は、物理的リアリティに準拠していないということである。つまり、対象と認識の一致という真理観を排除した科学論である。普通、自然科学は観察対象に宿る性質を認識するという立場をとり、客観性は観察対象の同一性によって保証されると考える。 しかし、構造主義科学論では、そのような真理の模写説を完全に否定する。構造主義科学論においては、対象にこれこれの性質や因果法則が宿るという素朴実在論的な科学観を退ける。構造主義科学論においては、科学の根拠を、観察対象に宿る普遍的な属性に求めるのではなく、認識主観が所有する物の見方の形式、つまり構造に帰着させる。人々が共通の認識構造で観察する時に、客観性が成立ち、科学も成立つとする。 例えば、水が100度で気化するのは、水という

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    yuiseki 2008/02/18
  • ニセ科学批判の前提 | 社会学玄論

    やはり室井さんのトラックバックが気になり、少し考えてみました。 「ニセ科学批判は、ニセ社会科学である?」かも・・・。 「○○は科学的事実であると社会的に誤解されている。」という前提が成立たないと、ニセ科学批判も成立たないことになる。例えば、「血液型性格判断は科学的事実であると社会的に誤解されている。」という命題が、社会調査法による統計的意識調査によって実証されているか否かということである。個々のニセ科学と呼ばれる批判対象に対する先の命題が、社会学による意識調査によって実証されないと、ニセ科学批判は実質的に意味をなさなくなる。 確かに、個々のニセ科学と呼ばれる批判対象に対して、個別に社会学に基づく統計的意識調査は行われている様子はない。菊池氏や天羽さんが大がかりなそのような社会調査を実施したという話は聞かない。もしそれを当に(社会)科学的に実証するのなら、社会学の知見を要することになる。ま

    ニセ科学批判の前提 | 社会学玄論
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    yuiseki 2008/01/05
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