タグ

2021年5月23日のブックマーク (5件)

  • 本と善意 - 何を読んでも何かを思いだす

    ヘレーン・ハンフ編著『チャリング・クロス街84番地 増補版』(江藤淳訳、中公文庫、2021)が出たので読んだ。 たしか四半世紀ぐらい前に旧版を読んでいるはずだが、細かいところは忘れていたので、新鮮な気持ちで読むことができた。 著者のヘレーン・ハンフはニューヨーク在住の作家。といっても当時はまだ有名な作家ではなく、テレビのシナリオや子ども向けのを書いて糊口をしのいでいた。 そんな彼女の楽しみは読書なのだが、いつも読むのは英文学やギリシア・ローマの「古典」で、それも小説や物語よりもエッセイや日記を好む。古書が好きで、新刊には見向きもしない。 しかし彼女の趣味を満たしてくれるような古書店が近くにはない。 そこで彼女は新聞に載っていた広告を頼りに、大西洋を隔てたロンドンの「チャリング・クロス街84番地」の絶版専門の古書店「マークス社」に欲しいのリストを送り、を取り寄せることにした。194

    本と善意 - 何を読んでも何かを思いだす
  • 【錯視】ボールは何色に見えますか? じつは全部同じ茶色です - ナゾロジー

    全部同じ色のボールボールは何色に見えますか? 実は全て同じ色です。 / Credit:David Novickここに映るボールは、おそらく誰の目にも赤、緑、青の三色に見えるでしょう。 しかし、錯視画像のお約束どおり、これら12個のボールは実は全て同じ淡いベージュ色です。 なぜ、私たちの目はこれほどまで明らかに、ボールの色をベージュ以外の色で認識してしまうのでしょう? ノヴィック教授によると、この錯覚は「ムンカー・ホワイト錯視(Munker-White illusion)」と呼ばれる現象に起因するといいます。 「質的に、私たちの知覚は色に対する鋭敏さより、形に対する鋭敏さの方が優れています。そのため、私たちは形をより詳細に認識する一方、色はあまりはっきりと認識しないのです。 そのため、球体の輪郭はすべて同じように見えますが、色は隣接する空間ににじみ出したり、同化したりしてしまうのです」 ノ

    【錯視】ボールは何色に見えますか? じつは全部同じ茶色です - ナゾロジー
  • 書くことがなくなった - phaの日記

    気づいたらインターネットで書くことが特にないな、という状態になっていた。ツイッターとか何をつぶやいたらいいかわからない。 もともとツイッターとかで熱心につぶやいていたのは、ネットにいるたくさんのよく知らない人たちに曖昧にちやほやされたい、という自己顕示欲があったからだったのだろう。 年をとったせいか、知らん人に別にそんなにちやほやされたくないなー、という気分になってきた。興味のある人には直接連絡を取って話せばいいし、人間関係をむやみに広げたいという気持ちもなくなってきた。 昔はネット上で流行ってる話題に乗っかっていっちょかみしたり、仲良くなりたい人にエアリプしたりなんかもしてたけど、もう全くそんなことする気がしない。 そうすると、つぶやくことを何も思いつかなくなってしまった。もともと、つぶやく必要があることなんて特に何もなかったのだろう。 なんかいろいろできあがってしまったんだな。これから

    書くことがなくなった - phaの日記
  • リベラルアーツを学ばないと、「そもそもオジサン」になってしまう。 - BIZPERA(ビズペラ)-ビジネス書評はペライチで

    「そもそも」 このキーワードの破壊力は凄まじいですよね。 「そもそも」が議論にもたらす効果は、極論すると次の2点。 誰もが常識だと思い込んでいた固定観念を打ち砕き、ブレイクスルーにつながる どうでもいい論点をほじくり返されて、これまで積み上げてきた議論がぶっ壊されて、スタートに戻る よく目にするのは2のパターンですね。 権限や発言力がない人が「そもそも」と的外れなことを指摘してきても、特に問題ないのですが 〇〇部長みたいな人から同じ指摘をらうと、ザワザワと慌ててしまう人も少なくないと思います。 もちろん、「それはどうでもいい論点です(キリッ)」と言い返して、〇〇部長を抑え込むべきでしょ、という意見もあるでしょう。 しかし、誰もがそう強く在れるわけではありません。 偉い人から「そもそもさ~」と問われると、たとえそれがどうでもいい論点であっても、たいていの人は慌てふためくはずです。 そんな「

    リベラルアーツを学ばないと、「そもそもオジサン」になってしまう。 - BIZPERA(ビズペラ)-ビジネス書評はペライチで
  • 第1回:MMDからVTuberへ ──身体運用の複製・流通・再生 | 踊るのは新しい体 太田充胤

    我々はもう、持って生まれた自分の身体で踊らなくとも構わないのかもしれない──3DCGVTuberアバター、ゴーレム、人形、ロボット、生命をもたないモノたちの身体運用は人類に何を問うか? 元ダンサーで医師でもある若き批評家・太田充胤が、モノたちと共に考える新しい身体論。 ─ 複製される芸術作品はしだいに、あらかじめ複製されることを狙いとした作品の、 複製となる度合を高めてゆく。[1] ──ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』 新しい身体 アプリケーションを立ち上げると、画面には真っ白な空間が現れる。 いや、正確には、画面の中央に表示されたのは白い四角形、そしてそこに引かれたいくつかの線である。しかし直観的には、その奥に果てしない空間がひらけていることが明らかだ。水平面には碁盤の目状に線が敷かれ、原点からはXYZ方向に赤・青・緑の3の矢印が伸びている。マウスでドラッグすると、

    第1回:MMDからVTuberへ ──身体運用の複製・流通・再生 | 踊るのは新しい体 太田充胤