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ブックマーク / mizunohosi.jugem.jp (13)

  • Blog向上委員会 | 文章に書き手は現れるのか

    コメントの多いブログの特徴テーマがはっきりしている。 その人が「見える」。 ブログペットを付けている(冗談)。 人とのコミュニケーションを主体にブログを運営している。 よく、記事の最後に疑問を投げかけている。 「読者層」がはっきりしている。誰に向かって書いているか。 人のブログに頻繁に書き込みしている。 実生活で交友関係が広い(リアルでもてる奴はネットでももてる)。 コメントの少ないブログの特徴その人が「見えない」。自分を出していない人。 ブログとある程度、距離を置いている。 文章が自己完結。 独り言が多い。 文章を書くことに主体が置かれている。 誰に向けて書かれているのか分からない。 人のブログに書き手自身が興味ない。 実生活で交友関係が狭い。 こうやって列挙していくと、上で書かれている理由のほとんどに当てはまる。かと言って

  • Blog向上委員会 | 閉鎖

    何だか最近、「書かされている」という意識があった。また同時に、「書くために読んでいる」という意識もあった。確かに文章を書くことは楽しい。だが、ブログ論のための文章でも無くてはいいのではないか、と思うようになった。閉鎖に伴い、多少惜しい気持ちもあるが、過去ログはすっぱりと消したいと思う。ここにこのブログが存在する限り、「書かなくては」と意味も無く迫られるのだ。さらに同じようにブログ論を読みつづけてしまう、という危惧もある。 いままで時間を取られすぎていた。このブログを考える時間が比較的多かった。その時間を別に当てたいと思った。結局、また新たにブログを作ることになるのだが、おそらくブログ論は書いていかないだろう。 このブログの閉鎖の最大の原因は「無駄を省く」ということ。WEB世界で自分が行なっている事を整理したかったという気持ちが強い。だから移転前のブログもすでに消してあるし、ゆくゆく

  • Blog向上委員会 | 無意味

    どこからか記事を引っ張って来て、それに感想を付けて記事にするブログの書き方。もしくは似たようなものとして読書感想文、映画の感想、ドラマなどなど。あとで読み返すために、今そのときを刻む思いで更新されるブログ。仮に読み返さなくても、少なくても私は読み返さないだろう、今を書き記していく事に意味はあるのかどうか。 無意味と題した今回の記事。このブログの存在。無意味な事は無駄なのか、いま無意味と思っていても将来、意味のあることに変わるかも知れない。ただ、そんな将来の漠然とした不確かな存在のためにブログを書きつづけるのか。 ブログ論、と世間で言われている文章を書いてきたが、ブログ論を書いて何になる、というのが今の私の現状。自分でも読み返さない、あとになって何も残らないブログ論に何の意味があるのか、そんな事を「また」思ってしまう。10代の、何でも興味を持っては手を出していたあの頃とは違って、将来、自

  • Blog向上委員会 | だから何?

    別にあなたのために書いているわけではないし、そんな一行だけのコメントを残すぐらいなら、今後このブログを読まなくても私はぜんぜんかまわない。書き手には書く自由があり、読み手は読む自由があるのだから。WEBだから何を書いてもいいだろう、という認識は間違っている。ブログを書いているのは機械ではない、生身の人間なのだ。書き手は読み手の事を頭の片隅に入れるべきだし、読み手はその文章の先にいる管理人の存在を意識すべきだ。テレビに向かって愚痴を言っているのではない、コメントを残した時点でその言葉は管理人の元に届いてしまうのだ。 顔が見えない、匿名だから、だから何を書いてもいいだろう。そんな誰が書いたか分からない言葉に傷つくブロガーがいる。割と弱い存在なのだ、私という人間は。言葉はそのままの形で読み手に伝わるし、意図するところを汲み取ってくれることは、案外と稀なことなのかもしれない。 全世界に向け

  • Blog向上委員会 | みんなが認める当たり前なんてない

    個人ブログに書かれる文章なんてその書き手の一主張であって、それが「常識」になったりはしない。人間はそれぞれ物事に対して「こう思う」という考えがあり、その根底にはそれぞれの価値観が存在する。その考えが強ければ強いほど反対意見は受け入れ難いし、自分の考えを一般の「常識」として捉えてしまいがちになる。 ときに断定的な書き方をし、「常識」や「当たり前」という言葉で自分の文章を包み、読み手に誤解を与えてしまう。読み手も一般のネットマナーや、例えばブログなら「トラックバック論」の共通認識を過剰に求めてしまっている気がしてならない。「マニュアル人間」に似た傾向がネットにもあるということだ。仮にそのブログで「こんなの当たり前でしょ」なんて文章を目にしても、それをあなたの「当たり前」にする必要なんてどこにも無い。ネットの文章なんてコーヒー片手に「ふーん」くらいの気持ちで読めばいい。それがブログ論なんて曖

  • Blog向上委員会 | 人様のブログにコメントを残しにくい理由

    まず一つのブログを、一つの記事と言ってもいい、真面目に読んでいない。すべて流し読みしていることだ。考えれば何か浮かんできそうなものだが、何かが浮かんでくる前に「ふーん」と軽く口にし、満足してしまう。 さらにはコメントを書く際に、このコメントによって誤読される恐れはないだろうか、私が誤読している可能性はないだろうか、とつい考えてしまう。こんな面倒なことならばコメントなんて書かなくていいや、と消極的になってしまう。 出会いは別れの始めである。 ブログの開設はそのブログの閉鎖の始まりを意味する。生まれた瞬間に死が間違いなく訪れるように。このブログだっていつか閉鎖するときが必ず訪れる。いつかネットから失われるのだ。それが明日かもしれないし、一年後かもしれない。私という個人の人間が存在していた唯一の居場所が失われる。ブログを開設していた頃に人様のブログにどれ程のコメントを残しただろう、ど

    AdYandW
    AdYandW 2006/05/21
    私がコメントに積極的になれないのは引っ込み思案もあるけど、時間がかかるというのも大きい。いろいろ考えてしまって、なかなかまとまらない事が多いので…。
  • Blog向上委員会 | いろいろ

    はてブに書かれるコメントの中に、記事の一部分だけを引用したものを見かけることがある。最近流行っているのかな、と思えるほどその数は少なくないように思う。なぜ記事の一部分のみを引用するのか。私は皆目見当がつかず、記事の中で書き手が一番言いたいことだったり、その読み手が重要だと思った箇所だったり、その記事を印象付ける一言だったりと、ただ独りよがりに日々推測するばかり。 ニュースサイトは、自分のところを時たま取り上げてくれるところ意外、基的に見ない。好きなニュースサイトの傾向は、自分の興味ある分野を多く取り上げているところ。一行でも良いからコメントはあった方がいい。 毎回のようにコメントがつくブログを目にする。羨ましいと言う気持ち以前に、なぜ記事を書く度にこの人のブログにコメントがつくのだろう、という疑問が先に湧き起こる。そして、なぜ私のブログにはコメントがつかないのか、という疑問があと

    AdYandW
    AdYandW 2006/05/09
    「RSSでみて、タイトルが気になったら読みにいく」が一番多い。タイトルにはいつも悩むけど、タイトルだけで釣るみたいな記事にしたくないというのはよく思うところだったりします。
  • Blog向上委員会 | 誰のためにブログを作っていますか。

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    AdYandW
    AdYandW 2006/05/03
    完全に自分のため。自分以外の誰かのためにブログをつくり、続けているつもりは無いです。
  • Blog向上委員会 | 言葉だけなら何とでも言える

    現実の私はそんな立派な人じゃない。でも自分のブログでなら少し立派になれる。ちょっと格好つけて、ちょっと格好いいこと言って、書いているうちに気分が良くなって、結局、自分にウソをつく。 現実の私が見えないからこそ、好き勝手に書ける。別人になれる。作り上げた虚像の自分を使って、私に語りかける。私を励ます。ときに失望させ、悲しませる。私は何をしているのだろうと時々思っていた。誰に吼えているのだろう、と思っていた。 私は冗談がつけない。虚像の自分を使っても面白いことは書けない。そういう性格なのだ。仕方ない、という諦めではない。だからあなたが羨ましい。ブログに馬鹿を書いて読者を笑わせるあなたがとても羨ましい。 言葉だけなら何とでも言えるのだ。格好いいことが言えるのだ。格好いいと言ってもらえる。でも、私にとってそれはウソでしかない。当の私はこんなにもレベルの低い人間なのだから。 「これ

    AdYandW
    AdYandW 2006/04/12
    言葉だけで作り上げるもう一人の自分。どう見せるのか、何を言うのか。たしかに別人になってしまうのだろうけど、私はある程度現実の自分にもリンクさせたいとも思っている。全くの別人になる気はない。
  • Blog向上委員会 | どこで満足するのか

    向上心という言葉を背に、空回りしている自分がいる。見えない何かが私を空回りさせている。ただ現実を見ればいい。今、目の前のことを一生懸命に取り組めばいい。 なぜ今を見ないで将来に夢を見るのか。私は自分に問いたい。いま私が立っているこの場所は、そんなにも不幸な立場なのか。ただ、足元に落ちている幸せに気づいていないだけではないか。 書ければそれだけでよかった。ブログは予期できないことが起こりうる。私の意識に関係なく突如、知ってしまった。それはまるで禁断の果実を思わせた。 果てを失った私の欲望。追い続けた、果てのない世界を。追っているつもりで全く進んでいないことに気づかないまま。次第に矛盾が生まれた。蜃気楼を思わせるその矛盾は、私の更新意欲を枯れさせた。 求めてしまう。完璧を、究極を、そして自ら破滅を招き入れる。いつになれば満足するのだ。コメントをもらえたら、一日100人訪れたら、

  • Blog向上委員会 | 開かれた世界へ

    そこに意味を見出せなくなった私は、書くことをやめた。読むことをやめた。閉じた世界から逃げたのだ。解決するすべを探ろうとせず、一目散に逃げ出したのだ。何もかも人の所為にして……。 閉じた世界に限界を感じたのなら自分から切り開いていけばいいとは、あのときの私は考えなかった。今だからこそ、と言う気はない。今になっても変わっていないからだ。 見てもらえれば勝ちである、という認識がある。何と勝負して、何に勝つのか皆目定かではないが、ブログで言えばアクセスさえしてくれたらいい、という、カウンターさえ回れば後は何もいらない、という何とも寂しく、寂しい? 人の価値観はこの際関係ないか。 中身が良ければ読んで貰えると思っていた時期が私にもあった。何を以ってして「良い」と判断するのか、自分ひとりの価値観で勝手に解釈し、勝手に沈んでいたあの頃だ。なぜアクセスしてもらえないのか、そんな自惚れに溺れてい

  • Blog向上委員会 | 更新停止になるとき

    ブログがつまらなくなった 書くことが見つからない 大体思いつくネタを書いてしまった ブログをする時間が無くなった 他に新しいブログを作った 新しいブログのほうが面白くなってしまった リアルが充実し始めた。←今の私がいる場所 そして時間が無くなった 時間があってもリアルを優先したくなった ブログをするメリットが感じられなくなった 次第に更新停止、閉鎖 確かにブログは楽しい。いや、楽しかったと言い換えてもいい。少なくてもこのブログについては。いまは正直言って別のブログのほうが楽しい。主に自分のため、身内のためのブログ。ここでアドレスを書くことは簡単だ。ただ、アドレスを書いたとたんに私の匿名性が一気に崩れ落ちる。あるサイトの一コンテンツとしてリンクされているからだ。 そのためかアクセス数もコメント数も十分なほどある。出来上がってたった1ヵ月半のブロ

    AdYandW
    AdYandW 2006/03/13
    やっぱり、意欲と気力と時間がないときかな。これらがないとどうしようもない。ネタは1週間ぐらい明ければ、なんとかなると思う。半分休止状態になるけどね。
  • Blog向上委員会 | 誰にも読まれないのなら、せめて自分だけでも読もう

    最近、何かの記事を書くとき自分のブログの過去ログをあさっている。過去ログをあさり、これは違うんじゃないか、という記事を探し出す。それを元に記事を書く。 「カテゴリーの煩雑さ」について。 テーマは統一させたほうがいいという趣旨の記事。でもいまはテーマがバラバラになってもいいような気がしている。「プロフィールは必要か」という記事の中に「記事主体かブロガー主体か」ということがチラリと書いてある。一番の読者は自分自身である、ということは間違いない、と私も思う。そして私は私というブロガー主体で見ている。ブロガー主体で見る私のブログは果たして面白いのか。誰かのためを意識するならば、見返りが無ければ、きっと面白くないのでは。 こんなブロガーは得てして自慰行為に走りやすい。自分だけが満足し、自分に酔い、うちにうちに向かう。 テーマによってブログを分ける。私もそんな考えだった。でも今は一箇所

    AdYandW
    AdYandW 2006/02/28
    狙って書くというのはあまり無いような…狙っても出来ないし。結局、私は自分が書きたいことを書きたいように書いているだけだと思う。
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