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2006年5月31日のブックマーク (7件)

  • Blog向上委員会 | みんなが認める当たり前なんてない

    個人ブログに書かれる文章なんてその書き手の一主張であって、それが「常識」になったりはしない。人間はそれぞれ物事に対して「こう思う」という考えがあり、その根底にはそれぞれの価値観が存在する。その考えが強ければ強いほど反対意見は受け入れ難いし、自分の考えを一般の「常識」として捉えてしまいがちになる。 ときに断定的な書き方をし、「常識」や「当たり前」という言葉で自分の文章を包み、読み手に誤解を与えてしまう。読み手も一般のネットマナーや、例えばブログなら「トラックバック論」の共通認識を過剰に求めてしまっている気がしてならない。「マニュアル人間」に似た傾向がネットにもあるということだ。仮にそのブログで「こんなの当たり前でしょ」なんて文章を目にしても、それをあなたの「当たり前」にする必要なんてどこにも無い。ネットの文章なんてコーヒー片手に「ふーん」くらいの気持ちで読めばいい。それがブログ論なんて曖

  • 教師は毎年、同じ授業をしているよね - 『斬(ざん)』

    ふとした思いつき。「歴史は繰り返される」とか「話題がループしてる」なんて事をよく聞くけどさ。考えてみれば各科の教師って、ほぼ毎年毎年同じ教科書で同じ授業をするんだよね。そりゃー、毎年少しつずつ練りこまれてよくなっていくだろし、その時の空気によっても少しずつ変わってくるんだろうケドさ。ベースは変わらない。 毎年、生徒が変わるから通用するってか、その時に教えることが決まっているからそうなるんだよね。でも、ブログとか Web 上で何かを書いたり、論じたりする場合は、一回だけ表に出ただけで、後は過去記事に埋れやすい。 Web には、生徒と呼べる(その情報を知りたいと思ってる)人が不特定多数バラバラにいるだろう。しかし、それらがいつ見るか分らない。生徒は受動的ではなく能動的にならないと、辿り着けないのが、今の Web 環境。しかも、かなり熟練した検索をしないと、ピンポイントに欲しい情報(授業)に辿り

    教師は毎年、同じ授業をしているよね - 『斬(ざん)』
  • なにを欲してブログを書きますか - Mugi2.0.1

    何かしらの文章を書いて,ブログに載せる。受けたい。ブクマがほしい。アクセスがほしい。理解してほしい。共感してほしい。頷いてほしい。感想がほしい。意見がほしい。言及がほしい。きっと,欲しいものはいろいろあるのだろうけど,ほんとうは,ただ,ぎゅっと抱きしめてほしいだけかもね。この言葉たちをね。(id:kira-laさんのところにコメント入れたとき,ふと思いました)

  • ブログでのコミュニケーション - こころの風景

    「もっとトラックバックを活用しませんか」という記事に複数のトラックバックをいただいた。既にトラックバックを有意義に活用して楽しんでいる方の賛同トラックバックは「援護射撃」としてありがたかった。しかしブログをやっている大部分の人は、『考え出すとほぼ送れなくなってしまいます…。』と書かれているAd.Y&Wさんのような感じなのではないだろうか。もっとトラックバックを活用しようと呼びかけた私自身も、実はいまだ発展途上である。「大したこと書いていないから」とか、かえってノイズになってしまったりしてしまうのではないかということが送ることを考えるたびに浮かんで来るような時期もあったな。 それでも読み返して、うなずき以上の意見があれば送ろうとか思った時期もあったんだけど、自分のブログにおける全体的な自分語りの強さとか、それを相手側に送ってまで読ませるというところに何か抵抗のようなものを感じて躊躇しているう

  • 一流の「論客」になるためには - 琥珀色の戯言

    http://blog.goo.ne.jp/kamimagi/e/17b5c616ce002a8224965284f5de2f82 要するに、「ネット上で頭が良さそうに見せるには」というコツが書いてあるのですが、いろいろと思い当たるフシもあり、興味深く読ませていただきました。 あと、僕が考えた「論客」になるための秘訣としては、「自分のオリジナルを書くとボロが出るので、常に他人が書いたものを『批評する側』にまわれ」ということです。要するに「揚げ足を取れ」ってことですね。 まあ、僕は基的に「論客ごっこをしている人」などには、全然興味も共感も抱けないのですけど。 彼らの言いたいことって、たいがい「俺は頭がいい」ってことだけなんだものなあ。 でもさ、常々疑問なのは、「医者は、患者にもっとわかりやすい言葉で説明しろ!」って言っているような「論客」たちが、自分のブログで日人の大多数が知らないような

    一流の「論客」になるためには - 琥珀色の戯言
  • おれはおまえのパパじゃない - 価値観の押し付けと感想メソッド

    何か一言でも言おうものならものすごい勢いで「それはあなたの価値観でしょう! 価値観の押し付けはやめてください!」とか言われるのがブログ界の常であり、それを回避する最善の策が感想メソッドだということは、ブログどっぷりの皆さんならとっくにおわかりのことと思う。「〜と思った」、コレ最強。吉岡さんが○○のことを△△だと思うことを誰も止められない。にも関わらず、吉岡さんが○○のことを○○だと思うことは自分に対する価値観の押し付けだと主張する西山さんがいたりするのでブログ界はなかなか侮れません。実を言うと、感想メソッドは押し付けから最も遠い位置にありながら、洗脳合戦の有効な武器として働いているので、西山さんの主張も全く間違いだと言い切れないわけですけども。でも西山さんが騒げば騒ぐほど、吉岡さんの武器は有効に働くので、それはそれでいいのです。

    おれはおまえのパパじゃない - 価値観の押し付けと感想メソッド
  • デジモノに埋もれる日々: 「予告」は未来の自分を縛る? モチベーションのコントロールの難しさ

    日曜コラムです、こんばんは。 はてなブックマークで「あとで書く」というタグをよく見かけます。 これは文字通り、対象の記事に何かひと言言いたいことがあって、 「これに関する記事をあとで何か書きますよ~」という意思表示です。 私の記事でも、ブクマして頂いた際にときどき、この「あとで書く」タグを 付けていただくことがあります。そんなとき私は、 あとで書くキター! wktk ということで、「あとで実際に何が書かれるのか」を楽しみに待っていたり します。ところが、ところが、この「あとで書く」タグは、結構な確率で あとで何も書かれなかったりします。 えー、放置プレイですか 。・゚・(ノД`)・゚・。 「あとで書く」という宣言に拘束力なんてあるハズがありませんし、 そもそもこの「あとで書く」という意思がどの程度の強い気持ちを持って 書かれているのかはわかりませんが、少なくとも、私が自分で確認したもの を

    デジモノに埋もれる日々: 「予告」は未来の自分を縛る? モチベーションのコントロールの難しさ