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ブックマーク / uumin3.hatenadiary.org (16)

  • uumin3の日記:読む側の一論理

    結論のはっきりしたブログ記事を読むのは確かに面白いと感じます。でも案外それはその結論が自分の今まで持っていた考えに沿ったものであることを前提にするんじゃないかとも思います。そこでは自然に「いやなら読まなきゃいいじゃない」が実行されているのかもしれません。あるいは自分の信念と逆方向のことを断ずるところにあたってしまった場合、どこがおかしいかを(好感を持てる記事の何倍もの熱意をもって)探してしまったりするのではないでしょうか。 そういう意味では白黒をはっきりさせる書き方をなさる人のところは、自分の考え方を強化・補強する役割を担っていると言えるかもしれません。 これに対してうだうだ悩み結論がはっきりしないようなブログ記事や自分が考えたこともないような観点で書かれた記事は、よほど意味が通らない場合を除いて、何か立止まって考えるきっかけを多く与えてくれるようにも思います。頭に素直に入ってこない見慣れ

    uumin3の日記:読む側の一論理
  • uumin3の日記-あなたと私は同じで違う

    「あなた(たち)と私は同じだ。同じに考えて欲しい」 「あなた(たち)と私は違う。違ったものとして認めて欲しい」 このどちらも人は求める時がありますし、異なる状況では同じ人がどちらの願いも言ってしまうのかもしれません。ここだけ抜き出せば相矛盾する内容に見えますが、当にどちらもありの時があるんじゃないかと思います。 たとえば知的障碍を抱えた子供を普通学級に入れたいと願う親御さんは「同じに扱って欲しい」とそこで思うのでしょうし、また同時に「ハンディキャップの分だけは庇って欲しい」と先生や学校に対して希望することもあるでしょう。それをわがままだと切り捨てる人もおられますが、そのケースごとの思いは考えればわかることができるだろうと感じます。原則として同じ存在と認めて欲しい。個別には扱いを考えて欲しい。それは何も特別のことではなく、私たち誰もが願い、そして部分的にも現実にあることなのですから。 これ

    uumin3の日記-あなたと私は同じで違う
  • 2007-03-14

    ついしん。どおかニーマーきょーじゅにつたいてくださいひとが先生のことをわらてもそんなにおこりんぼにならないよおに、そーすれば先生にわもっとたくさんの友だちができるから。ひとにわらわせておけば友だちをつくるのはかんたんです。 (小尾芙佐 訳) 知っている筋の休止宣言とか消滅とかが続くような気がしましたので… これがたぶん一番難しいこと。私も逆方向に進んで(かつ失敗して)いると思います。 (あいつは馬鹿だとおもわれていれば、ともだちはいっぱいできます…かなりうろ覚えの引用でした。19:08修正しました) 昨日の話をちょっとひっぱります。まずはご指摘があって改めたように、広田照幸氏は日大学文理学部の教育学科教授にかわられておりました。ご人を含め各所にお詫びいたします。日大の文理学部は頑張って人材を集めておられますね(ヨイショ)。でもこれは必ずしもわざとらしい持ち上げのみでもなくて、たとえばあ

    2007-03-14
    AdYandW
    AdYandW 2007/03/17
    “ひとにわらわせておけば友だちをつくるのはかんたんです。”
  • 人間関係の「力」 - uumin3の日記

    「それほど問題にならないいじめもある」などと言えば、あるいは相当な反発があるかもしれませんが、私自身の経験の中では確かにあまり残らないタイプのいじめもありました。短期間で済み、その後関係が改善されたというものに限定されますが。 後に残るいじめとなりますと、誰それが死ななかったから結果オーライとはとても言えず、心の中にずっと痛みとして残ってしまう「目に見えない被害」があるものだと考えています。その解決まで望むのはおそらくできないことだろうとも。 「いじめという言葉に皆振り回されているんじゃないですか」というコメントをいただいて、確かにそうだと思いました。そして、だからこそ重い意味を持たないうちに手当てできるならそれがベストではないかと改めて思ったのでした。 ただ生徒個人の間での微妙なニュアンスを大人が拾い上げるのは相当の難事です。家族の格的な協力があったとしても漏れはあるかと思います。生徒

    人間関係の「力」 - uumin3の日記
  • uumin3の日記 - いじめの早期発見

    これはもう少し落ち着いてからと思っていたのですが、一言だけ記しておきたくなりました。 いじめの類は、完全に無くすことは無理だと思います。特にその定義を「いじめられた」という気持ちに求めるならば、それが皆無になろうなどとは考えられません。ですから図るべきはいじめの深刻化の防止、早期発見早期処置以外には無いでしょう。 いじめられた感が誰にもない社会なり学校なりはすでに理想郷です。誰かが屈辱感を絶対に感じないでいられる理想など追うだけロスになってしまっているのではないかとも感じます。そういう建前を議論するうちに、とりあえず対症療法が肝要ではないかと思うのです。 今より数を減らすことは可能でしょう。そのための方策として責任の明確化、ある程度の厳罰化も必要となるでしょう。たとえば現行の「いじめられた者が転校する」風潮だけは早急にやめるべきかと思います。いじめられた側が悪いわけではないのですから。厳密

    uumin3の日記 - いじめの早期発見
  • いじめでの「自殺」(続き) - uumin3の日記

    滝川市の女の子のケースでは「キモい」と言われたということが採り上げられていますが、これは彼女が孤立させられていたために致命的に響いたものだったと考えます。言葉自体が凶器であるというよりは、関係性の中でそれが凶器にもなり得るということなのでしょう。 「キモい」という言葉が悪い、それを使うのを止めよといいたくなる気持ちもわかりますが、たとえば30年前に子供のわたしが「キモい」と言われてそれで傷ついたかというと、まずその言葉を聞いたことがない私にはダメージはなかったでしょう。(もちろん「気持ち悪い」と言われればへこんだでしょうし、「気持ち悪い」より軽く使える「キモい」という言葉〜使う側の罪悪感を少なめにするもの〜が増えるのは問題ですが、それはまた別のお話) 以前にも書きましたが、意図的に中傷語・悪口を禁じてもそれはまた別の罵倒語を生み出すことにつながり、このイタチごっこにおしまいはないように感じ

    いじめでの「自殺」(続き) - uumin3の日記
  • 2006-10-05

    滝川市の教育部長や教育長、市長が自殺した女の子の家へ行って謝罪したという報道を見ました。急転直下の謝罪劇になりましたが、もとよりこのような事後のごたごたが解かれてもそこで得られる慰めなど取るに足りないものでしかありません。ご遺族の心中をお察しし、亡くなったお子さんのご冥福をお祈りします。 ただこの自殺の件をぼーっと考えていて、やはり「自死」という手段を選んだこのお子さんは、どこかに「意趣返し」の気持ちを抱えていたとも思うのです。小中学生の、それも自死までのいきさつを書いた遺書を残したケースは、多かれ少なかれあて付けの面を持つとずっと感じてきました。自分の子供だった時を考えても、もちろんそれは空想でしかなかったのですが、自分がここでこのタイミングで死ぬ・家出する・消えるなんてことがあればどれだけ○○*1を後悔させてやれるだろうか…という妄想にも似た想像があったと憶えています。 そこにはそのか

    2006-10-05
  • uumin3の日記:多元主義を考える

    殺し告白:坂東さんを告発の動き…タヒチの管轄政府 この記事の中で坂東さんの弁明の寄稿がありますが、 ペットに避妊手術を施して「これこそ正義」と、晴れ晴れした顔をしている人に私は疑問を呈する。 と、おっしゃっておられます。 ああこの人の中では、飼いや飼い犬に避妊手術を行う人たちは「正しいことをやって晴れ晴れ」と内心思っているように見えていたんだなと、そう思いました。もちろん人それぞれ。そう思う人もいるかもしれませんし、それがどのくらいいるかは私にはわかりません。 また結局、彼女が子を崖から捨てて殺しているということに強く反応した人たちは、坂東眞砂子が子を殺して「正しいことをやって晴れ晴れ」と内心思っているように見えてしまっていたのではなかったかとも思いました。 坂東さんは彼女の好悪で行動されました。つまり避妊や去勢は絶対にいや、という感情です。そしてそれが子を殺すよりも酷い事に思

    uumin3の日記:多元主義を考える
  • uumin3の日記 他の人もやっているから…というのは小学生の言い訳

    気になったニュースです。 研修生、時給450円残業 千葉養豚場殺人 社団法人「千葉県農業協会」が受け入れている中国人研修生(26)が研修先の養豚場で男女3人を殺傷したとされる事件で、来は残業してはいけない研修生が時給450円で月50時間前後の残業をしていたことがわかった。(略) (ashahi.com 2006年09月02日) 中国人容疑者による殺人と傷害の背景に、苛酷な労働環境(といいますか搾取の構造)があったという話です。 もちろんこの中国人容疑者の刑法上の罪は厳しく問うべきですが、外国人研修生をいいように使っていた側に対しても厳罰があってしかるべきでしょう。これに似た話、かつて日から外国へ出稼ぎや移民に行って搾取されたとか騙されたとかいう話なら、はっきり酷い話だと思う人が多いでしょう。それと何も変わりはありません。人の欲をい物にする奴らはどこの国、どこの時代にもいるでしょうが、

    uumin3の日記 他の人もやっているから…というのは小学生の言い訳
  • 2006-08-05

    「言葉は、頭の中でシナリオのように組み立てられてから発せられるものではない」ということを意識されたことはあるでしょうか? それが書き言葉であれ話し言葉であれ、完全な「文章」、首尾一貫したまとまりが脳内のどこかに形成され、それを声や文字で出力する…というイメージを無意識に抱きがちだと思うのですが、それが誤りであることはちょっと自分の行為を振り返ってみると容易にわかることでしょう。 私たちは書きながら考え、喋りながら会話を組み立て、そういう言語化の行為の中で再帰的に自分にフィードバックしつつさらに言葉を生み出していくのです。 書くのが苦手な人 ご自分で書くのが苦手だと思われている方の少なからぬ人は、頭の中でちゃんとまとめてから文字にしなければいけないという思い込みがその筆を縛っているように見えます。誰もそんなことはできていないのですから、もっと気楽に書くという行為を始められたらよいのではないか

    2006-08-05
  • 2006-04-05

    人間の死亡率は100%です。誰も死を免れるものはいません。 しかしそこから、誰もがひとしなみに死ぬのだからいつ死ぬかとかどう死ぬとかは問題とはならない、とは私には思えません。むしろ死が誰にでも来るものだからこそ、生きる時間というものは限られていて、限られたものだからこそそれは貴重なのだと感じます。 人の命を奪うということは、その限られた貴重な生の時間を奪うということです。そこにその貴重さに伍す真っ当な「対価」がない場合、私たちはやりきれない喪失感を感じるのでしょう。 無駄な死などないと思いたいのですが、突然わけのわからない者から殺されてしまうという事態に際しては「対価」としての意味を見出すのがかなり困難です。 死を迎えた方にとってはその死がどう意味づけられるかが問題となるかどうかわかりませんが(未知生、焉知死)、少なくとも残されたものにとってはその死に意味があって欲しい、「対価」があって欲

    2006-04-05
  • いい人も悪い人もいない - uumin3の日記

    自分にいい(顔を見せてくれる)人とそうでない人がいるだけで、全部いい人、徹頭徹尾悪い人というものはいないのだと思います。その誤解は、ある人が自分にいい顔をしてくれなかったり、都合がよくなかったりした時、その責を相手の「悪い人」「愚かな人」という属性に勝手になすりつけてしまう癖が私たちにあることから生じます。 なぜその人が自分に優しくないかということを考えた時、人はまず自分に問題があるとは考えません。半ば考えるのを放棄して、いろいろある可能性のうち最初にその人が「悪い人」であるからと考えてしまうのではないでしょうか? 人にとって他者は謎です。それが謎であるからこそ、その謎を少しずつ解くことでその人に近づき理解していくことができるのです。でも二つの方向でその謎はほったらかしにされます。一つは「わかっている」と思ってしまう方向。そしてもう一つは「考えず、決め付ける」方向です。 決め付けを一概にだ

    いい人も悪い人もいない - uumin3の日記
    AdYandW
    AdYandW 2006/03/20
    自分と接している時の状況で決め付けがちだが、それが全てではないということは意識しておいた方がいいんだろうな…。なかなかそこまで回らないんですけど。
  • uumin3の日記:なぜブログ論が流行るのか?

    私が最初に彼のサイトを見、名前を記憶したのは「関東大震災における朝鮮人虐殺」に関しての検証の記事においてでした。何年か前のことです。(関東大震災における虐殺された朝鮮人は何人?←ここをクリック) 今、上記のようにまとめられておりますので、その検証の後を辿るのは簡単なことだと思います。 もし、まだご覧になっておられない方がいらっしゃいましたら、時間がある時にでもぜひどうぞ。 俺は、資料のデータ的な不備を大目に見て、極力人数を多めに見ても、「1」のデータから「神奈川県」に相当する部分を抜き、「2」のデータから「神奈川鉄橋」を除いたものをプラスして、1200+700で、2000名程度が虐殺の正確な人数に近いと思います。 従って、たとえば教科書に記述する場合は、 関東大震災では朝鮮人が、日人の自警団により300名以上虐殺された。また警察・軍隊などによりその数倍にも及ぶ犠牲者が出たという目撃者の証

    uumin3の日記:なぜブログ論が流行るのか?
    AdYandW
    AdYandW 2006/03/07
    やたらとブログ論関連に反応しているけど、「サイトを続ける意義」を模索、再確認している部分はあるのかも。一応の方向性は決めたけど、揺ぎ無いものもなく、いろいろなことに一喜一憂している所もあるし…。
  • uumin3の日記:平等を考える手がかり

    「所得の格差が拡大」74% 社世論調査 「所得の格差が広がってきている」と思う人は74%で、そのうち7割の人が「問題がある」とみている。81%の人が「お金に困るかもしれない不安」を感じる一方、「勝ち組」「負け組」に二分する傾向には、抵抗を感じる人が58%――。朝日新聞社が昨年12月から1月にかけ郵送で実施した全国世論調査で、格差やお金をめぐる意識が浮かび上がった。「競争は活力を高める」「挽回(ばんかい)できない社会だとは思わない」との見方も共に6割を占め、競争社会それ自体は、前向きに受け止める姿勢がうかがえる。 「格差社会」をめぐっては、小泉改革との関連で国会でも論争が続いている。「所得の格差が広がってきていると思うか」との問いに「広がってきている」と答えた人は74%、「そうは思わない」が18%だった。格差が拡大しているとみる74%の人に「広がっていることをどう思うか」と聞いたところ、6

    uumin3の日記:平等を考える手がかり
  • uumin3の日記 責任というもの1

    日記をどうにかこうにかここまで書いて来て(最近は勢いに欠けていますが)、今年自分で一番何だかんだ考えていたのは「責任」ということだったのではないかと思います。もちろんスパッと切れよく語るというよりも、うじうじ行きつ戻りつしながらそれに関することを書くことに(意図的というよりは流れとして)なっていたと今顧みて思います。 最初に「責任」について触れたのは、靖国神社問題について書いている時でした。またちょうどその頃、JR西日の鉄道事故に関して思うところを書き、この二つが図らずも頭の中で絡んできて次のように書きました。 4月30日 責任をめぐって … ですが、この事件によって一般のJR社員全てに責任を問うべきでしょうか?たとえばJR九州で昨日貨物列車を運転した人や、JR北海道で今日人事を担当している人や、JR東日で明日常磐線の車掌をする人などに責任があるとすべきでしょうか? そこまではほとんど

    uumin3の日記 責任というもの1
  • uumin3の日記 : 文章力というものはありません

    「文章力というものはありません」と書くといささか扇情的ですが、文章力という実体はありませんしはっきり確かめる術もありません。それは結果から振り返って作られた仮想の尺度です。ただそれが有用に働く場合もあるとは思いますが…。 文章力と同様の成り立ちを持つ語に学力という言葉があります。当たり前に使っている言葉でもありますし、学校でも、公文書でも用いられるものです。そしてそれを量るものとしてテストがある…と普通思われています。 しかしよく考えて見るとこの話も転倒しています。実はテストなどの結果があって、そこから逆に学力というものが想定されているだけなのです。なにしろ学力というものは目に見えるものではないですから…。 ちょっと入試のことを考えてみましょう。たとえば高校入試で「国語」「英語」「数学」「理科」「社会」の五教科が課されていたとします。現行の制度では「国語」が何点、「英語」が何点、「数学」が

    uumin3の日記 : 文章力というものはありません
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