ブックマーク / maroon-lance.hatenadiary.org (29)

  • 記者は知っていたか - 跡地。

    高宮太平『昭和の将帥』図書出版社 翌朝早く永田の私邸を襲うと、まだ寝ていた。起きるのを待っていると「どうだ、北大営は占領したろうね」と応接室の扉を排して出てきた。目が赤く充血している。「今朝はまだ社に寄っていませんから、その後の状況は知りません」と言うと、 「あの要塞砲を旅順から運ぶのには苦心したよ。支那人の目につかないように、いや、日人にだって知らすわけにいかないのだから、石原は非常に慎重にやったんだ。おそらく敵の飛行機は完全な姿で格納庫にあるはずだ。雨だれ砲撃といって格納庫や兵舎の周囲に砲弾を落とすようにしていたんだが、うまく行ったかな」 と、前からの計画の概要を大体話してくれて、「これは君の肚にしまっておくんだよ、いま書かれては元も子もなくなるから」と哄笑した。 NHKスペシャル「日人はなぜ戦争へと向かったのか 第3回 "熱狂”はこうして作られた」 - Apeman’s diar

    記者は知っていたか - 跡地。
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    Apeman 2011/02/28
    「これは君の肚にしまっておくんだよ、いま書かれては元も子もなくなるから」 by 永田鉄山
  • いつか来たというよりはいつもの道か - 跡地。

    の中道附近の政治家というのは、どうしてこうも弱いのかなあと思う。昔でも、近衛文麿なんか日をがんがん戦争へ持って行ったし。自民党にしても党首の谷垣さんは別に極端な思想の持ち主ではないけど、党自体はどんどん変な方へ流れて行ってとどまるところを知らない。まあ私は結構この人は好きでね。先週の新聞で「野党になって初の国政選挙をどう戦いますか」と聞かれていきなり「私はいま頭に来ている」と応えているのはかなり面白かった。そういえばこの人のお祖父さん、影佐禎昭も、一味違う支那通と自他共に認める人物だったのに、支那事変では暴支膺懲の声に流され、石原完爾をがっかりさせたね。

    いつか来たというよりはいつもの道か - 跡地。
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    Apeman 2010/06/21
  • オマリーとは何だったのか - 跡地。

    http://www.sankei-kansai.com/2010/05/07/20100507-023589.php 新外国人のマートンの活躍に驚いているファンも多いだろう。春季キャンプで野球評論家からは酷評されていた。ここ数年、阪神で活躍した「助っ人打者」といえば、アリアス、ブラゼルなど、それぞれオリックス、西武と日球界でプレーした経験のある選手しかいなかった。 そのマートンを「彼は日で成功する」と推薦してきたのが昨年4月、阪神の駐米スカウトに就任したアンディ・シーツ氏。南信男球団社長は「彼はほかの選手にあまり関心を示さなかった。マートン以外なら、あまり自信がもてないとまでいった」。そこまで言い切られたら球団も獲得に動くしかなかった。 アンディ・シーツ「甲子園球場にダメ外人はいりまへ〜ん」

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    Apeman 2010/05/09
  • 「救いを」祈る研修生 - 跡地。

    朝日新聞2月21日朝刊 在日華人第10部鼓動潮流 東北地方のある教会。信者たちは1人の中国人女性のために祈り続けている。日人牧師(55)は「素朴な笑顔が忘れられない」と話す。 女性は山東省出身。教会に近い港町の水産加工場で研修生として働いていた。2007年8月、初めて教会を訪れ、日曜ごとに電車でやってきた。礼拝中に涙を見せ、12月に洗礼を受けた。片言の日語で「イエスさまが私と一緒にいます」と話していた。牧師は「重労働の中で、信仰が心の支えになってほしい」と願った。 しかし、翌年5月の礼拝を最後に女性の姿を見なくなった。牧師が、女性を受け入れていた水産協同組合の通訳に尋ねると、中国の送り出し機関との間に「宗教活動を禁止する」との取り決めがあり、教会に通い続けるならば「帰国させる。(送り出し機関に預けた)保証金も没収される」と女性に告げたという。 こうした取り決めで、中国からの研修・実習生

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    Apeman 2010/02/24
  • 北条義時 - 跡地。

    阪谷芳直『老北京の面影』 「センチメンタルなところや甘さを全然持たず、冷酷無残に政治目的を追求する鉄の意志の持ち主、こういうのがスターリンだ。あれはアジアの遊牧民族の生み出す人間の型であり、日には滅多に生まれない型だ・・・ こっち(中江)は、日歴史上の人物についてそれほど知識があるわけじゃないが、ただ一人だけ北条義時という人物はスターリン的素質の持ち主じゃないかと思うんだがね。君はどう見る?」

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    Apeman 2010/02/13
    id:Wallerstein さんを召還させていただきます。
  • 武者小路実篤、戦争支持派とは一線 - 跡地。

    http://www.asahi.com/culture/update/0104/TKY201001030235.html 小説「友情」などで知られる作家の武者小路実篤(むしゃのこうじ・さねあつ)(1885〜1976)が、中国人作家の魯迅(ろじん)の弟にあてた手紙の実物がみつかった。44年ごろのもので、第2次世界大戦中は戦争に協力的だったとされる実篤が、戦争末期には国策追従の文学者から一定の距離を持っていた様子が読み取れる。 手紙は、魯迅の弟で文学者の周作人(1885〜1967)にあてたもの。周と、戦争支持派の作家片岡鉄兵との論争を仲裁する目的で書かれた。論争のきっかけは、43年8月に開かれた国策に協力する文学者の会議。知日派とされる周は参加せず、そんな周を片岡は国策に非協力的だと非難していた。 手紙はペン書きで、原稿用紙5枚にしたためられている。封筒には筆で「周作人兄 武者小路実篤」と記

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    Apeman 2010/01/05
  • 新証言・伝説のタイトルマッチ - 跡地。

    モハメド・アリとジョー・フレージャーの第三戦”スリラー・イン・マニラ”を、フレージャーサイドから描いた傑作ドキュメンタリ。現在Web上で話題になるマイノリティ問題にも示唆するところが多く、是非とも総合テレビでの放送を望む。 アリは兵役を拒否しタイトルとプロライセンスを剥奪された。しかしフレージャーはこのアリの行動を勇気あるものとして認めた。彼はアリを文字通り物心両面で援助した。 ジョー・フレージャー「一日おきにアリから電話が来て話し合ってたよ。『今どこにいる?あの件はいつ行動に移すんだ?』『どの件?』『俺に協力する件だよ。俺たちが協力すればライセンスを取り戻せる』」 フレージャーはリチャード・ニクソンにまでアリのプロ資格剥奪の撤回を訴えたが、軽くいなされた。しかし時流がアリに味方をし始めた。アリは復権した。ところがそうするとアリは、フレージャーを口汚く罵り始めた。 その中でも特に、次のよう

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    Apeman 2009/07/19
  • AとBとの会話が不通 - 跡地。

    A、B、Cといる。Aは社会において圧倒的多数を占める。Bは余所者であるがAとの交流は長い。いろいろな面でAに較べて不利な扱いを受ける。Cは更にニューカマーで数も少なく歴史的因縁は無い。 AがCを出汁にBを叩きながら、一方でCもそのままにしておくというのは、勿論よくあることだ。 2009−1945=64 1868+64=1932

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    Apeman 2009/07/11
  • 「対馬丸」の無念映画で切々と - 跡地。

    朝日21日朝刊 米潜水艦の攻撃で1400人以上の犠牲者を出した学童疎開船「対馬丸」を描いた映画「銀の鈴」が完成し、21日、大阪市で上映される。家族4人を失った西岡利美さん(83)は国が沈没の事実を隠そうとしたため、4人の死亡をいまだに公式に伝えられていない。「一人でも多くの人に、犠牲になった人のことを知ってほしい」と願う。 「こんな映画を作って下さって、ほんまにありがたい」。西岡さんは大阪市内で12日に開かれた試写会に招待され、監督の斎藤勝さん(50)に頭を下げた。 対馬丸は44年8月、那覇から1788人を疎開させようとして撃沈され、少なくとも1418人が死亡した。軍は生存者に「沈没したことは絶対に口外するな」と命令。子供の安否も分からず苦しむ親らを若手の俳優が演じる。 「母さんたちを疎開させた船が沈没したらしい」西岡さんは就職していた香川県・小豆島で終戦後、訪れた父から知らされた。父は母

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    Apeman 2009/06/21
  • 遷都計画 - 跡地。

    「日は朝鮮人を満州に追い出して韓半島に住もうとした」(1) | Joongang Ilbo | 中央日報 金氏によると、日は1943年の秘密国土計画「中央計画素案」で、京城府(ソウル)南の郊外、日の岡山と福岡の3カ所を大東亜圏の首都移転候補地に決めた、としている。 日人は韓半島と満州に、朝鮮人は満州に移住させる計画も立てた。金氏は「日の元官吏らとの面談で、首都移転候補地の京城府郊外は韓国外国語大竜仁(ヨンイン)キャンパス辺りであることを確認した」と述べた。 −−日帝はなぜ首都を移転しようとしたのか。 「ソウルは当時、日帝の支配圏の中心だったうえ、歴史的に地震のないところだったからだ。他の2つの候補地は日土だったが、彼らの心はすでにソウル付近に決まっていた。秘密計画を見ると、日人800万人と朝鮮人200万人を満州に移住させ、日人200万人を韓半島に移住させるという内容の人口

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    Apeman 2009/06/12
    これはすごい・・・
  • <座談会>ノモンハン事件の謎と嘘(1) - 跡地。

    歴史と人物』昭和61年冬号 動く国境線 秦 ノモンハン事件は国境紛争が原点です。そこで、まず当時のソ満国境線について論じてみたいと思います。 日(八月二十八日)、ご帰国を明後日にひかえて出席いただいたクックス博士は、昨年『ノモンハン』という上下二巻の大冊をスタンフォード大学出版局から刊行されました。原書は千三百ページ、注が一千個所近く付いたもので、三十年近い時間をかけて緩められ、内外できわめて高い評価を受けています。まず、クックスさんから……。 クックス ソ連の観点からは、ノモンハン事件は、短時間に終ったただの国境紛争としてではなく、大きな国際的問題の一環として扱われるべきだと思います。 一九三九年(昭和十四年)から四一年にかけ、ソ連にとって国境線とか国境の防備は、ヨーロッパも含めて、重要な問題だったと思います。当時、ソ連にとって最大の脅威は、東西二正面で戦うようになるかもしれないとい

    <座談会>ノモンハン事件の謎と嘘(1) - 跡地。
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    Apeman 2009/06/10
    シリーズ第1弾
  • サリンジャー - 跡地。

    はてなブックマーク - asahi.com(朝日新聞社):ライ麦畑「続編はダメ」 サリンジャー氏、差し止め要求 - 国際 このニュースのブクマで、サリンジャーって生きてたんだと驚いている人が何人かいる。私も死んだというニュースを聞かない以上生きてるんだろうというぐらいの認識だったけど。そういえばガンズの『chinese democracy』にもCatcher in the Ryeという曲があるな。 「太っちょのオバサマ」でない人間は一人もおらんのだ。 野崎孝訳『ゾーイー』 この心境には程遠いな。

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    Apeman 2009/06/04
    そういや、レヴィ=ストロースがまだ生きている、ということを時々確認せずにはいられないな
  • 三島由紀夫「東大を動物園にしろ」 - maroon_lanceの日記

    新執行部の招集で御殿下グラウンドに五百人ぐらいの教師が集まった。そこへ百五十人かそこらの学生が現われただけで、この青空集会もたちまちにして雲散霧消させられちまった。そういう連中がこれまで何をしていたか。"変革の情熱"だの"変革の思想"だのと、エラそうなことをいって学生に吹きこみ、みずからも変革の情熱だか妄想にとりつかれていたんだ。 その彼らがいま、当の学生に見事に足もとをすくわれてヒーヒーいってるのも、みんな自業自得なんだよ。 「私は勉強する学生よりも、学生運動をする学生の方が好きです」なんていってたのは、どこの誰だい? 大河内一男前総長だよ。それならそれで、愛する学生運動家の吊し上げを最後までらって死ねばいいじゃないか。それこそが男としての一貫性だ。言行一致だ。 それをナンだい、遠くの方から"告示"を出して、入れられないと被害者面してやめてしまう。「肥ったブタよりも痩せたソクラテスにな

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    Apeman 2009/05/06
  • 森戸事件と興国同志会の分裂 - 跡地。

    中谷武世『昭和動乱期の回想』 中谷 当時の「日の会」、前身の興国同志会、それと吉野作造博士が中心の新人会が東大内の学生団体として対立しておった。妙なもので新人会の出身者がそれぞれ後の社会主義政党の指導者になりましたね。そして興国同志会、「日の会」の先輩が後の保守党、今の自民党の指導者になっている。 岸 私のクラスで社会主義のほうにいったのは三輪寿壮、あれは私の一高時代からの非常な親友の一人で、大学にいって後は彼は新人会に入るし、私は上杉さんの木曜会に入る、これはその後の興国同志会になったわけだけれども、そこで社会とか国家に対する考え方は三輪君と私とは大分違ったんだけれども、しかし彼の死ぬまで交友をつづけたもっとも親しい友人の一人でした。今言われるように、大学の先生では吉野先生と上杉先生、美濃部先生は学生運動に関係はしなかった。 中谷 関係しなかったですね。それで興国同志会が分裂した動機は御

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    Apeman 2009/05/04
  • グラン・トリノ - 跡地。

    何?まだ見てないだと!?さっさと見に行け、この春巻き野郎!!!

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    Apeman 2009/05/02
  • これが国策捜査だ! - 跡地。

    渡邊行男『中野正剛自決の謎』より摘要 東條総理 中野一派の問題について政府の態度をはっきりさせたいと思う。議会も明日より開かれる。この際はっきり処置したい。今回、政府は苛烈なる戦争下、これに即応して国内態勢強化を決意せることは御承知の通りである。従ってこれの遂行いかんが戦局に重大なる影響を与えることと信ずる。 私は総理として国政に巨歩を進め、一億民心を中心として十億民衆の結束を企図している。而して今日までなるべく抱擁してきた。今後も然りである。しかしながら、足並みをみだす者は断乎処置することを必要とする。今までは教え導くことを主としてきたが、今日はそれだけではだめである。敗戦の原因の一つは国内の足並みの乱れることである。今回の中野一派の行為は許すべからざるものありと信ずる。 内相、法相も同意されている。この処置に付てはいかにするやを研究致したい。議会に臨む関係上、大麻国務相にもお出をお願い

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    Apeman 2009/04/01
  • 随分はっちゃけてるが - 跡地。

    「人工衛星でも落とす」とか「朝鮮総連の資産を凍結する」とか、最近かなりとばしてる政府だが、冷静に見たら結構理不尽なこと言ってる。それでも国際社会から責められないのは、日が積み重ねてきた善行と、逆に北朝鮮の素行の悪さの御蔭だろう。政府は先人と金親子に感謝を忘れず、この問題に冷静に対処して頂きたい。生きた球を打つ好機ということで、迎撃システムのテストをしても良いし、人のいない国土に落ちるように念を送っても良い。そこはまあよしなにすれば良いけど、一つ。資産凍結というと、私はどうしても真珠湾攻撃以降、身包みをはがされ、砂漠の収容所にぶちこまれた当時の在米邦人を想起せざるを得ず、嫌な気持ちになる。大体腹いせ以上の効果があるのかも怪しいものだし、もうちょっと別の方法を考えて貰いたいものだ。

    随分はっちゃけてるが - 跡地。
    Apeman
    Apeman 2009/03/31
    「真珠湾攻撃以降、身包みをはがされ、砂漠の収容所にぶちこまれた当時の在米邦人」
  • ストラテジックチョ - 跡地。

    色々考えたが、やはりイスラエルを責める道具立てに、歴史問題を絡めるのは下策であるという指摘は、まったくその通りであると思う。戦略的には、歴史的文脈は一切無視し、ただ只管現在のイスラエルの行いを攻撃する方が良かろう。ホロコーストの唯一性とやらが、アメリカを縛っているとするなら、なおさらそれはこちらから言うべきことではない。相手に言わしむるが上策だ。まあ内心思っていても口に出す人間など居るまいが、もし万が一、自分たちの行動の正当化の果てにホロコーストを持ち出すようなトンマな親ユ派がいたら、そのときこそは百年目である。また、誰も引っかかる人間がいなかったとしても、それはそれで良いではないか。それで誰かが傷つくわけじゃない。

    ストラテジックチョ - 跡地。
    Apeman
    Apeman 2009/03/30
    「それはそれで良いではないか。それで誰かが傷つくわけじゃない」
  • ちょっと感想 - 跡地。

    もう先週のことになるが、白戸仁康『北海道の捕虜収容所』を読み終えた。詳しい感想はまた後ほど書くが、先に一つだけ。 さらに午前一〇時半、弁護側の最終弁論が終わったところで、一枚の紙片を手にした首席検察官が再論告を求めた。サットルの両親からの電報である。「私たちの愛する子供レイモンドを殺した憎いヒラテを絞首刑にして、子供の仇をとってもらいたい」という電文を読み上げ、最後にこうつけ加えた。この両親のためにも、世界の平和を願うためにも、平手に絞首刑の宣告を下されることをお願いします」。 日の朝日新聞社説は被害者の裁判への参加を取り上げていた。私は罪を憎んで人も憎む極々平均的な日人で、勿論死刑存続派であるのだけれども、この件だけはどうも諸手を挙げて賛成とはいきかねる。というのはやはりこのBC級戦犯裁判の有り様が頭にあるからだ。被害者やその遺族が、被告を死刑にと求めるこの残酷さ。被告のやったことの

    ちょっと感想 - 跡地。
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    Apeman 2009/03/15
  • 六列車でいこう - 跡地。

    文藝春秋四月号の座談会で、秦郁彦教授が、日露戦争前に田中義一がロシアの輸送能力を過小に見積もったという話をされておられた。有名な話だからご存知の方も多いと思うが、一応『評伝田中義一』より、次のエピソードを紹介しておく。文中の"私"は参謀部の楠山大尉(後の浜面中将)である。 ≪明治三十六年一二月の末であった。いよいよ日露両国の国交断絶が切迫し、国内の輿論も大方開戦に傾いた時である。近いうちに御前会議があって、廟議を決せらるるという少し前であったと思う。当時私は大尉で、シベリヤ鉄道の輸送力を調査していた。 ある日、田中少佐は私をよんで、"近いうちに御前会議があるから、その前に材料を準備せねばならぬので、ロシアの鉄道輸送を調査せよ"と命ぜられた。そこで私はあらゆる材料を収集調査して、ロシアの輸送力は、一日に八列車、即ち三時間毎に一列車を輸送し得るという結論に達した。即ち八列車の中で、約二列車は

    六列車でいこう - 跡地。
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    Apeman 2009/03/15