ブックマーク / wallerstein.hatenadiary.org (32)

  • 一連の問題の所在 - 我が九条

    (上に出ているブクマ以外にこのブクマありはてなブックマーク - 2010-02-01 - 我が九条) この一連の動きでの問題の所在は何なのか。そこが今一つ共有されていない。 まずは動きを簡単に時系列で追いかけてみる。 ガメ氏がエントリで次のように発言する。 ついでに国民のほうは「隣の国がうるせーで、あの死んだにーさんたちが集まってる神社はなかったことにすべ」とゆいだした。 「なんか新しい公団住宅みたいな墓苑にすればいーんでない?」 そーゆーのをゴツゴーシュギというんじゃ、ボケ。 それに対しApeman氏がブコメで「へぇ。それ誰のこと? 」とコメントした。 次にガメ氏のエントリにおいて次のような記述がある。 戦後の日人BC級戦犯の裁判記録を読んでいると、こういう些細な誤解が時にいかに重大な結果を引き起こすか、よくわかります。 わっしは、「死の行進」で弱りきったアメリカ兵になけなしのキンピラ

    一連の問題の所在 - 我が九条
    Apeman
    Apeman 2019/06/03
    これに尽きる>「ガメ氏はどうするべきだったのか、明らかだろう。「裁判記録」を読んでいなかったことを素直に言えばそれでよかったのである。そうすればこんなに大騒ぎになることもなかっただろう。」
  • 「無知を思い込みでカバーし」てる例 - 我が九条

    しばらくunko氏の指摘する「無知を思い込みでカバー」している例を挙げていきたい。 unko氏によれば「疋は貨幣単位。例えば鎌倉時代だと1疋が30文」 ということで、疋を貨幣単位以外に解釈しているのは「無知を思い込みでカバー」している例であるようだ。 疋、馬一-、絹一- (いろは字)1559年(永禄二)、日我 「いろは字」(重要文化財)とそれを執筆した日我については以下のリンクを参照。http://libdspace.biwako.shiga-u.ac.jp/dspace/bitstream/10441/4439/2/SJ02_0022_115Z.pdf 日我が永禄二年に執筆した「いろは字」。現在重要文化財に指定されている室町時代の辞書である。日我はunko氏によれば「無知を思い込みでカバー」している人物なので、unko氏は「正しい答えは出ないぞ」と日我にもいうべきだろう。ちなみに『時代別

    「無知を思い込みでカバーし」てる例 - 我が九条
    Apeman
    Apeman 2016/12/04
    話題そのものには馴染みがないのに既視感がある、というw
  • 近衛政家はワインを飲んだのか - 我が九条

    キリンのサイトには 古くは1483(文明15)年の『後法興院記』に、関白近衛家の人間が「チンタ」を飲んだという記述がある。このチンタが赤葡萄酒のことといわれている。 という記述がある。ワインと日人|酒・飲料の歴史|キリン歴史ミュージアム|キリン 手元にある『後法興院記』文明15年をいくら読み返しても「チンタ」など出てこない。「チンタ」はポルトガル語由来らしいが、文明15年、1483年にポルトガル語が日に伝来している可能性はほぼないだろう。 サントリーも同様の内容を載せている。 この時代に書かれた公家日記「後法興院記」に、「珍蛇(チンタ)」というお酒を飲んだという記述があります。 この「珍蛇」は、スペインやポルトガルから伝わった赤ワインを指すと考えられています 日ワインの歴史|日ワイン サントリー 次にこんな記述が酒店のサイトにある。 かなり確かなのは文明15年(1483年)の『後法

    近衛政家はワインを飲んだのか - 我が九条
    Apeman
    Apeman 2016/08/01
    世に歴史捏造の種は尽きまじ、なんだな。
  • 反日的な自虐史観w - 我が九条

    産経新聞の記事。 突然の“南蛮船”の漂着を受けて、土佐の大名・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は乗組員を土佐・浦戸に収容すると、事の一切を秀吉に報告。秀吉が派遣した奉行の増田長盛(ましたながもり)は乗組員の全員処刑の可能性と積み荷の没収を伝えるのだった。 当時の国内外の海事法では積み荷の扱いは船側にあるにもかかわらず、秀吉側は何を誤解したのか、「漂着した積み荷の所有権はその土地に移るのが昔からの日での習わし」などと主張してしまったのだ。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140427-00000508-san-cul 秀吉は何も誤解していない。「漂着した積み荷の所有権はその土地に移るのが昔からの日での習わし」という「寄船慣行」があったのだ。問題は単に入港した船まで寄船とみなしてしまうことにあったのであって、日の昔の慣行を現代的価値観で「誤解」

    反日的な自虐史観w - 我が九条
    Apeman
    Apeman 2014/05/11
    産經新聞の「自虐」的捏造w
  • 名前の順番 - 我が九条

    せいすいえいこ氏は名前の順番について次のように主張する。 私の経験では、名前の順序など、大したことではない、 というのが、専門家筋の意見である。 しかし、式典などでは、席次は常に、政治的配慮が含まれていて、 その認識は、おろそかにできない、はず。 http://1st.geocities.jp/rekisironnsyuu/hanesitaronnbunn.html そして「これが、歴史学の方法として一般化するようなことになったら、歴史認識も社会認識も混乱するだろうに。」と歴史学を攻撃する。歴史学の成果が自らの信じるところとい違う時に歴史修正主義者が採用する常套手段ではある。 しかしこの批判は全く的外れであり、ためにするものであることを指摘した。そもそも論拠が『大日史料』の配列であ、しかも氏は『大日史料』すら参照していない可能性がある(参照していれば「緩怠」を「緩急」と書くことはあり

    名前の順番 - 我が九条
    Apeman
    Apeman 2014/04/06
    資料読解における背景知識の重要性について。
  • 引付頭人奉書 - 我が九条

    http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20140303/p1#c1394330265においてせいすいえいこ氏とやりとりをし、氏のサイトを拝読する機会を得たので、氏のサイトに載っている史料の中から、私に論評できる史料の検証を行おうと思う。 題材は『東寺百合文書』ホ函にある二通の引付頭人奉書。 東寺八幡宮雑掌申山城国 久世庄事、申状〈副具書〉如此、早広田 出羽亮五郎相共莅彼所、退濫妨 人、沙汰付下地於雑掌、可執進 請取状、使節緩怠者、可有其咎之 状、依仰執達如件、 正平七年二月廿五日       陸奥守(細川顕氏)(花押) 海部但馬守殿 画像は「http://hyakugo.kyoto.jp/contents/detail.php?id=1827&p=4」 東寺八幡宮雑掌申山城国 久世庄事、申状〈副具書〉如此、早海 部但馬守相共莅彼所、退濫妨 人、沙汰付下地於雑掌、可執進

    引付頭人奉書 - 我が九条
    Apeman
    Apeman 2014/03/15
    ※欄。永井先生のところにもあのメール送ってたのかw
  • どう伝えるか - 我が九条

    歴史学研究においてはしばしば時空を超越した解釈がまかり通る。11ノットで疾走する帆船もその一つだろうが、北方史でもそういう事例がある。現在津軽安藤氏が十三湊から没落したのは嘉吉二年(1442)が定説の地位を占めている。曰く、南部義政は安藤盛季の婿となって油断させ、嘉吉二年に一気に十三湊を陥れた、という。盛季は翌年死去し、安藤氏は北海道に落ちのびた、という。これは『新羅之記録』という17世紀中頃に松前景広によって記された著作に依拠している。 しかし『満済准后日記』には永享四年(1432)に下国(安藤氏)と南部氏が合戦して下国氏が北海道に没落した、という記述がある。矛盾する二つの史料がある場合、信頼性の高い史料を優先すべき、と私は考えるのだが、その見解は学界の大勢とは異なるようだ。現在の通説は、そこに足利義教の強力なリーダーシップが発揮され、安藤氏は十三湊に帰還できたが、嘉吉の乱で義教が横死す

    どう伝えるか - 我が九条
    Apeman
    Apeman 2013/01/07
    「我々の前には幾つかの道がある。 一つはウィキペディアで研究者への罵倒を交えて自らの史料解釈の結果を示す、というものである」 グラディエーターの道!
  • 鎌倉幕府否定論再論 - 我が九条

    鎌倉幕府の成立年代には大きく分けて7つある。数少ないこのブログの読者ならば何回か読んでいらっしゃると思うし、新たな読者がいるともあまり思えないが、再び。 鎌倉幕府の成立については一一八〇年、一一八三年、一一八四年、一一八五年、一一八九年、一一九〇年、一一九二年の諸説がある。これは例えば学問研究が進んで、新たな史料が発見されればどれか一つに収斂されるのか、と言えば、それはない。何故かといえば、鎌倉幕府の開設年代のズレは、「鎌倉幕府とは何か」という問いに対する解答が異なるからだ。 一一八〇年説を支える史実は「源頼朝が鎌倉に邸宅を構えた」ということである。頼朝の邸宅は単に頼朝が居住するだけではない。頼朝に従う「侍」を管理する機能も持っている。「侍所」というのはある程度の権門勢家ならば備えている機構であって、侍所を備えた邸宅を構える事は、頼朝が鎌倉を中心とする南関東を実力で支配しようとする意思を明

    鎌倉幕府否定論再論 - 我が九条
    Apeman
    Apeman 2012/02/27
    「学問研究が進んで、新たな史料が発見されればどれか一つに収斂されるのか、と言えば、それはない。何故かといえば、鎌倉幕府の開設年代のズレは、「鎌倉幕府とは何か」という問いに対する解答が異なるからだ」
  • 大河ドラマ『平清盛』のツッコミ所 - 我が九条

    「王家がどう」とか「色彩がどう」とかツッコミがあるが、一番のツッコミ所はやはり吹石一恵演じる舞子が院御所で殺されたところだろう。ケガレを極度に忌む彼等が御所内で血を流させるわけはない。吹石一恵が忙しくて初回しか出演できないのであれば、御所の外で殺される、とかやりようはあったはずだ。 かつて『北条時宗』で近衛基平が御所内で自害するシーンがあり、それについて郷和人氏は次のように述べている。 平安末にラーメンが存在したか否か。これは知っている・知らないの問題にすぎない。清盛が白河上皇の落胤か否か。これは学説の分かれるところですので、どちらを採ることも可能です。でも何十年も研鑽を積んでいるはずなのに、天皇や朝廷の質を理解していないとなれば、これは中世史研究者としてのこの上ない恥辱です。関白に御所で切腹させるとは、考証役の私はダメな研究者だと、満天下に広言しているのに等しい。ですから、こうした根

    大河ドラマ『平清盛』のツッコミ所 - 我が九条
    Apeman
    Apeman 2012/01/12
    「一番のツッコミ所はやはり吹石一恵演じる舞子が院御所で殺されたところだろう。ケガレを極度に忌む彼等が御所内で血を流させるわけはない。」
  • 高岡蒼甫氏ツイート雑感2 - 我が九条

    こんな記事が(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110801-00000008-jct-soci)。そら宮崎あおいさんは火消しに走るのも止むを得ない(笑) 著名人の中でも、高岡さんの主張に共感を示す声も出てきた。 元航空自衛隊幕僚長の田母神俊雄さんは、ツイッターで7月29日、「テレビで韓流ドラマが一日中流れていることに私も違和感を感じています」と明かした。そして、「公共の電波を使って韓国の情報戦略に協力することは止めてもらいたい。しかし、どこからかカネでも出ているのかもしれません」とつぶやいている。 また、元横浜市長の中田宏さんは、ツイッターで、「正論言ってるよね。ずっとそう思ってた。一体どこの国のテレビって感じ」と高岡さんを支持。元国交相の中山成彬さんは、ブログで「乗っ取られているテレビ界の内実を知って我慢ができなかったのでしょう」と書き込み、自民党

    高岡蒼甫氏ツイート雑感2 - 我が九条
    Apeman
    Apeman 2011/08/03
    高岡蒼甫に「共感」する声がさして広がりなんてもってないことを示すメンツでもあるが、国会議員(それも野党第一党の)がヘイトスピーチにほいほい便乗してもろくに問題視されないという現状を示してもいる。
  • 現代の価値観で過去を判断すること - 我が九条

    「現代の価値観を過去に持ち込むな」という議論がある。私は思う。そんなに悪いことか?と。 私は郷和人氏の次の指摘に全面的に従いたい。 次に、政治や権力を通じて歴史的人間を考えようとすると、史料を読むにあたり何に依拠すべきなのかについて、実は確たる定めがない。 a、中世人も現代人も、同じように思考し、希求し、行動するだろう。たとえば無駄に死ぬのは好ましくないし、できれば豊かに、せめて安楽に日々を送りたいだろう。この意味で、今を生きる私たちの感覚を基準に、中世の事象を解釈することは有効である。 b、いや、そうはいっても中世人と現代人はやはり異なるのだ。両者の感覚が同一であることを前提として安易に議論を進めると、時として思わぬ陥穽にはまりこむ。罪と罰の意識が相当に相違することは研究者のあいだでは共通の認識になっているし、「所有」の概念が未成熟だから、職の体系ができるのである。 aもbも決して間違

    現代の価値観で過去を判断すること - 我が九条
    Apeman
    Apeman 2011/07/26
    「「個々の研究者のバランス感覚であるとかセンス」が非常に大事であるという指摘は大事である。そこを間違うとそれもまた大いなるトンデモにならざるを得ない。」
  • 中島久万吉商工相辞任事件−北朝抹殺のその後− - 我が九条

    中島久万吉は斎藤実内閣の商工大臣。斎藤実内閣は犬養毅内閣が5・15事件で首班暗殺という事態を受けて組閣された内閣。犬養毅暗殺後は同じ政党の党首が就任する慣例に従って元老西園寺公望は当初は立憲政友会総裁の鈴木喜三郎を首班にしようとしたが、政党政治の継続は当時の政治情勢を考えると、再び軍部によるテロを惹起する危険があった。軍部は検察出身の法務官僚平沼騏一郎を推薦する。しかし西園寺と昭和天皇は平沼のファッショ傾向を嫌い、リベラルで軍部にも抑えの効く人物として、前朝鮮総督で元海軍大臣、海軍予備役大将の斎藤実を首班に指名する。 斎藤実は一旦は国際連盟脱退と満州国承認など、軍部の意向に沿いながら、国際連盟復帰を目指そうとする。その動きに対して様々な政局が仕掛けられた。その一つが中島久万吉がかつて足利尊氏を評価した随筆攻撃である。十三年前の同人誌に掲載された随筆を、講談社の雑誌「現代」が中島に無断で転載

    中島久万吉商工相辞任事件−北朝抹殺のその後− - 我が九条
    Apeman
    Apeman 2011/06/11
    「この一件を見ても「敵を尊敬するという発想」から北朝を抹殺している、と考えている人の無知ぶりが知れる」
  • 天皇の代数 - 我が九条

    天皇の代数は難しい。125代目と言えば簡単だが、昔からいろいろな数え方が存在する。 南北朝時代には神功皇后を歴代に数えていた。逆に弘文天皇と淳仁天皇と仲恭天皇は歴代に数えない。従って後醍醐天皇は何代目か、と言えば、現代では96代目となるだろうが、南北朝時代には94代目である。 肝心の南北朝時代の天皇だが、現代の、特に自分が発起人を務める教科書を決算委員会の場で採択するように圧力をかける政治家は次の様にしか考えないだろう。 後醍醐−後村上−長慶−後亀山 しかし当たり前だが、今上天皇は後亀山の子孫ではない。室町時代には自分が擁立する天皇の先祖を持ち上げ、自分が擁立する天皇に反逆し、天皇を僭称した不届き者は天皇とは扱わなかった。室町時代の天皇の代数は次のように意識されていた。 後醍醐−光厳−後醍醐(重祚)−光明−崇光−後光厳−後円融−後小松−称光−後花園 ちなみに今上天皇は崇光−栄仁親王−貞成親

    天皇の代数 - 我が九条
    Apeman
    Apeman 2011/06/09
    南京事件の犠牲者数について「さまざまな見解があり」と書く教科書(http://bit.ly/jXZLRx)なら天皇の代数についても同様に記述すべきだろうな。
  • これはひどいウィキペディア「元寇」編 - 我が九条

    ウィキペディアは非常に便利な反面、稀に嘘が紛れ込んでいる。何も知らない人が、自分を物知りと勘違いして自分の思いこみを書き込むからである。近衛基平のところでは岩波書店の社長の安江良介氏を『深心院関白記』の解説執筆者と勘違いするほど業界関係に無知な人(喩えれば阪神タイガースの四番を坂井オーナーと勘違いしているレベル)が恥ずかしげもなく書き込んでいるわけで、今回のもかなりひどいレベル。 関係部分を引用。 1271年9月、三別抄からの使者が来着した直後に、元使の趙良弼らが元への服属を命じる国書を携えて5度目の使節としてきた際には、幕府はこれを朝廷に進上した。朝廷は急いで伊勢に勅使を派遣し、神々に異国降伏を祈った。朝廷内部では返事を出すかどうかで論争されたが、幕府が返事を出す事に反対した事、朝廷内でも「蒙古の要求に屈するべきではない」という強硬論が強かった事から、朝廷・幕府ともに国書を黙殺する事にな

    これはひどいウィキペディア「元寇」編 - 我が九条
    Apeman
    Apeman 2010/08/30
    「近衛基平の霊言か(笑)」w
  • 鎮魂の寺院 - 我が九条

    恨みを残した死者は祟る。その祟りを避けるために鎮魂が行われる。 戦没者は自らを死に追いやった国家に祟る。だから祟らないように鎮魂を行う必要があるのである。秋山哲雄氏は『都市鎌倉の中世史』(吉川弘文館、歴史文化ライブラリー)で鎌倉に寺院が多い理由を考察しているが、そこで「鎮魂の寺院」について述べている。 円覚寺は「蒙古襲来」で戦死した全ての人々(日・高麗・元・旧南宋など)を、敵味方関係なく鎮魂するために北条時宗が建立した寺院である。永福寺は源平合戦や奥州合戦で戦死した全ての人々(源氏はもとより平家や源義経・藤原泰衡も)を、敵味方関係なく鎮魂するために源頼朝が建立したものであった。宝戒寺は鎌倉で滅亡した得宗家の人々を鎮魂するために後醍醐天皇が建立した寺院である。 秋山氏は次のように指摘する。「鎌倉時代から戦死者の供養は敵味方の区別なく行われていることに現代人は注目しなければなるまい。現代にお

    鎮魂の寺院 - 我が九条
    Apeman
    Apeman 2010/08/15
  • 今日の出来事 - 我が九条

    講師控室で先生方(面識はない)が世間話。ネットのデマをマジに受け止めていろいろ差別的な発言をしている。「ネットの中に真実がある」と信じる段階で人文科学研究者としての資質に疑問符が付くだろうし、差別的な言辞をもてあそぶ段階で教育者として失格だろう。少なくとも「人にはどうしようもない属性で不利益な取扱をすることを容認する」人が教育者をやってはいかんだろう。大学の教師がいくら専門性で選ばれていて、他の能力は問われない、と言ってもねぇ。私だって中世史研究の過去の成果で一応大学でバイトさせてもらっているわけで、九九がまともに覚えられてなくても、英語がほとんど理解できなくても、漢字の書き順が怪しくても問題はないわけで、ネットのデマを真実と受け取っても、多分仕事には関係がないわけで、自分で自分のバカさ加減を見る機会は少ない。他山の石として自戒の材料にしよう。

    今日の出来事 - 我が九条
    Apeman
    Apeman 2010/07/15
    “英文の若い教師と話していたらドレフュス事件を知らなかった”と知人から聞いたことあり。
  • 院政のはじまりー白河院ー - 我が九条

    院政を始めたのは白河上皇である。白河上皇は子どもに譲位した後、自由な立場から院政を行った。 これがよくなされる説明である。しかし実際にはそれほど単純に院政が成立したわけではない。白河天皇が自分の皇子善仁(たるひと)親王に譲位したその背景には、白河天皇の妄執があった。 発端は後三条天皇親政に遡る。後三条天皇は藤原摂関家を外戚としない天皇であることは、有名である。後三条が実際に院政を行おうとしたか否かについては、議論の分かれるところであるが、後三条の皇位継承計画によれば、とりあえず白河天皇を即位させ、時期が来れば皇族を外戚とする実仁親王を即位させようと考えていたようだ。 白河天皇は自分が愛した賢子の血を引く善仁親王に皇位を継承させたいと考えた。そういう中で皇太弟の実仁親王が死去し、その機を捉えて善仁親王の即位を強行した。堀河天皇である。ここに院政が成立した、と言われる。 しかし白河上皇自身、院

    院政のはじまりー白河院ー - 我が九条
    Apeman
    Apeman 2010/06/25
  • 権門体制論と天皇制 - 我が九条

    権門体制論それ自体は天皇を【国王】とすることは必ずしも前提としない。だからこそ権門体制論の枠内で天皇ではなく治天を【国王】とする議論も可能なのである。しかし黒田俊雄は断固として天皇を日中世国家の【国王】とすることを譲らない。 これについて次のような意見がある(「唯物史観 | Japanese Medieval History and Literature | 5488」)。 唯物史観を信奉するのに、なぜ権門体制論なの? 権門体制論は、天皇の地位を必要以上に高く評価しているじゃないか。 それは、唯物史観を奉じる研究者が「従三位」とかの位階を授けられてる (そういう人は少なくないそうです)のと同じくらい、ヘンじゃないか。 「唯物史観を信奉するのに、権門体制論」は「自分の思想と研究とが同一のベクトルをもつべきだ」という意見と対立するのだろうか。私はそうは思わない。権門体制論は唯物史観に立脚して

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    Apeman
    Apeman 2010/06/14
  • 顕密体制論理解のために - 我が九条

    中世における「社会的意識諸形態」を理解するための概念が顕密体制論である。「社会的意識諸形態」とは、イデオロギーと記せば分かりやすいだろう。イデオロギーとは階級的な利害に基づいて支配階級を正当化するためのものである。 そのことを頭において郷和人氏の顕密体制論に対する見解をみてみよう。 仏教はそもそも何のためにあるのだろうか。国を鎮護するため?天皇や貴族に日々の安寧をもたらすため? 非常にイデオロギーとしての顕密仏教の特質を押さえた議論である。中世の「実在(ザイン)」においてはまさにそうなのだ。「ザイン」に注目する限り、仏教は鎮護国家のために存在するのであり、王法と仏法は相依相即なのである。そして概念としてもイデオロギーとは階級的な利害に基づいて支配階級を正当化するためにある。支配階級との関係で言えば、それが顕密仏教の正統である。顕密仏教の正統に位置づけられるのが、国家鎮護と王法仏法相依

    顕密体制論理解のために - 我が九条
    Apeman
    Apeman 2010/06/08
  • ネットに真実が(嘲)の事例 - 我が九条

    大阪産業大学に関する朝日新聞の阿久沢悦子記者の署名記事(「http://www.asahi.com/kansai/news/OSK201006020007.html」)。6月2日付け。 中国語の普及などのため、中国海外の大学と提携して運営する「孔子学院」について、同学院を開設する大阪産業大学(大阪府大東市)の重里(しげさと)俊行事務局長が、中国側の認可組織を「文化スパイ機関」などと発言したため、同大は1日、重里事務局長に辞職を求めた。中国人留学生らから抗議の声が上がり、中国側からも説明を求められていた。辞職が受け入れられなければ解任し、学内に謝罪文を掲示するという。 詳しい経緯。 大阪産業大によると、09年4月、孔子学院側に大学所有のビル(大阪市福島区)にキャンパスの移転を提案。同大学が資産運用に失敗し、経営の合理化に迫られたためだったが、孔子学院側は「上海外大や中国政府との協議が必要」

    ネットに真実が(嘲)の事例 - 我が九条
    Apeman
    Apeman 2010/06/04