1879年11月にベルリン大学教授トライチュケが発表した論文「我々の展望」は,あからさまな反ユダヤ主義の姿勢により多くの人々の反発を呼んだ。ただし,その反発は初めほとんどユダヤ文化人によるものであり,それらユダヤ人とトライチュケの間に論争が繰り広げられた。しかし,1年後の1880年11月に局面は大きく変わった。ドイツの主要新聞に「声明」という名称で75人の非ユダヤ系文化人による反ユダヤ主義批判の共同声明が発表されたのである。署名者のなかにトライチュケの同僚であるベルリン大学ローマ史教授のテオドーア・モムゼンも名を連ねていた。自由主義者のモムゼンは,トライチュケの反ユダヤ主義的言説に中央集権的反自由主義を感じ,ユダヤ人を擁護することで同時に自由主義の擁護も行おうとした。これによりトライチュケ対モムゼンの論争が火ぶたを切った。ふたりの論争はベルリン反ユダヤ主義論争の帰趨を決めるものであり,その