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ブックマーク / maroon-lance.hatenadiary.org (13)

  • 武者小路実篤、戦争支持派とは一線 - 跡地。

    http://www.asahi.com/culture/update/0104/TKY201001030235.html 小説「友情」などで知られる作家の武者小路実篤(むしゃのこうじ・さねあつ)(1885〜1976)が、中国人作家の魯迅(ろじん)の弟にあてた手紙の実物がみつかった。44年ごろのもので、第2次世界大戦中は戦争に協力的だったとされる実篤が、戦争末期には国策追従の文学者から一定の距離を持っていた様子が読み取れる。 手紙は、魯迅の弟で文学者の周作人(1885〜1967)にあてたもの。周と、戦争支持派の作家片岡鉄兵との論争を仲裁する目的で書かれた。論争のきっかけは、43年8月に開かれた国策に協力する文学者の会議。知日派とされる周は参加せず、そんな周を片岡は国策に非協力的だと非難していた。 手紙はペン書きで、原稿用紙5枚にしたためられている。封筒には筆で「周作人兄 武者小路実篤」と記

    武者小路実篤、戦争支持派とは一線 - 跡地。
  • 好戦的な子供 - 跡地。

    http://d.hatena.ne.jp/sunafukin99/20071226/1198668287 を読んでとっさに思い浮かんだのが、平林盛人の『わが回顧録』の次の一節。 一番困ったのは私の五女香苗が世田谷池ノ上小学校の一年生であったので、同じクラスの幼い諸君から銘々の慰問文を貰った中に「アノニクイシナヘイヲ」とか稀には「チャンコロヲ」などとある。それに合同で礼状もどうかと思ったので、銘々別々に支那の絵はがきで出した。そして支那兵の憎むべきでないこと、チャンコロ等と呼ぶものでないことを諭しつつお礼状を書くのであるが、一々片仮名でわかるように教えるのは一番苦痛でもあり苦手でもあった。 平林が第十七師団長であったときの話である。 そういえば蓮田善明も次のようなことを書いている。 http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-93.html

    好戦的な子供 - 跡地。
  • AとBとの会話が不通 - 跡地。

    A、B、Cといる。Aは社会において圧倒的多数を占める。Bは余所者であるがAとの交流は長い。いろいろな面でAに較べて不利な扱いを受ける。Cは更にニューカマーで数も少なく歴史的因縁は無い。 AがCを出汁にBを叩きながら、一方でCもそのままにしておくというのは、勿論よくあることだ。 2009−1945=64 1868+64=1932

    AとBとの会話が不通 - 跡地。
  • K少将の詩 - 跡地。

    彼が最初、生徒をスパイにしたてあげて、国家革新を夢見る青年将校を陥れたとき、私は声をあげなかった、 私は青年将校ではなかったから。 ノモンハンで多くの軍人が自決を強いられたり予備役に追われたとき、私は声をあげなかった、 私は関東軍勤務ではなかったから。 彼が漢口の料亭に放火したとき、私は声をあげなかった、 私は11軍勤務ではなかったから。 彼がマレーで連合軍捕虜を殺せ殺せと叫んでいたとき、私は声をあげなかった、 私はイギリス人ではなかったから。 彼がマニラでゲリラを殺せ殺せと叫んでいたとき、私は声をあげなかった、 私はフィリピン人ではなかったから。 そして彼がガダルカナル島で私を臆病者呼ばわりして攻撃したとき、 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。 ニーメラーの詩 - 我が九条

    K少将の詩 - 跡地。
  • 白猫黒猫 - 跡地。

    水が高きから低きに流れるように、人間は右傾する。よって在特会のような主張は、日の丸がどうとかいう左翼のそれより、社会への浸透力がずっと強い。故に私はこれらに対する反差別デモを、それを構成する人の思想を問わず支持するし感謝もする。一方的であっても。

    白猫黒猫 - 跡地。
  • 遷都計画 - 跡地。

    「日は朝鮮人を満州に追い出して韓半島に住もうとした」(1) | Joongang Ilbo | 中央日報 金氏によると、日は1943年の秘密国土計画「中央計画素案」で、京城府(ソウル)南の郊外、日の岡山と福岡の3カ所を大東亜圏の首都移転候補地に決めた、としている。 日人は韓半島と満州に、朝鮮人は満州に移住させる計画も立てた。金氏は「日の元官吏らとの面談で、首都移転候補地の京城府郊外は韓国外国語大竜仁(ヨンイン)キャンパス辺りであることを確認した」と述べた。 −−日帝はなぜ首都を移転しようとしたのか。 「ソウルは当時、日帝の支配圏の中心だったうえ、歴史的に地震のないところだったからだ。他の2つの候補地は日土だったが、彼らの心はすでにソウル付近に決まっていた。秘密計画を見ると、日人800万人と朝鮮人200万人を満州に移住させ、日人200万人を韓半島に移住させるという内容の人口

    遷都計画 - 跡地。
  • <座談会>ノモンハン事件の謎と嘘(3) - 跡地。

    <座談会>ノモンハン事件の謎と嘘(2) - There is a light that never goes out.の続き 情報分析の大失態 秦 第六軍が編成されたあと、八月二十日からソ連軍の大攻勢が始まりますね。これに対する準備がぜんぜんないのに、日軍のほうは四日目に攻勢に移ります。このあたり、インテリジェンス(情報・諜報)が、まずかったと思われるんですが……。七月三日の時も、攻勢計画が洩れていたという話がありますね。 クックス モンゴル陸軍の公式戦史の中に飛行機に乗っていた日軍の高級参謀将校が捕われて、そのブリーフケースの中から日の攻勢計画の書類を入手した、という記述があります。 須見 その高級参謀というのは、墜落して死んだ島貫忠正第二飛行集団参謀じゃないですか。 秦 その可能性はありますね。 須見 八月二十四日の日軍の攻勢移転ですが、あれは私に言わせればめちゃくちゃですよ。

    <座談会>ノモンハン事件の謎と嘘(3) - 跡地。
  • 南京、捨てるべきか護るべきか - 跡地。

    蒋介石が南京防衛のために集められた兵力は僅か12箇師12万と言われている。上海で18万の死傷者を出しているのでこれも致し方ない所だろう。大勢の高級将校は「固守」に反対した。白崇禧は遊撃戦を主張し、劉斐は一応抵抗した後すぐに撤退する「象徴的な防衛」をしようと主張した。文官では、近衛内閣との和平を唱えていた胡適を逮捕しろと唱えていた居正が、一転講和を主張するようになった。期待したソ連の出兵も絶望的であった。しかし蒋介石は死守を選択し、同じく死守派の唐生智を衛戍司令官に任命した。トラウトマンを介して日側から出てきた講和条件が厳しいことに蒋介石は、安堵した。これなら無視できると。これは、ハルノートを「天佑」だと喜んだ我が参謀部の反応と同じである。

    南京、捨てるべきか護るべきか - 跡地。
    D_Amon
    D_Amon 2009/06/07
    戦争を望む者は敵が厳しい条件を突きつけてくることを望む。名分となるがゆえに。
  • 平和をたずねて:南京−沈黙の深い淵から - 跡地。

    via 毎日新聞、「南京−沈黙の深い淵から」 - Apeman’s diary http://mainichi.jp/select/wadai/heiwa/visit/archive/news/20080409ddp041040019000c.html 「日アメリカに謝れと言えんのは、日中国に心から謝っとらんからじゃないですか」 日は、個人個人は兎も角全体としては、かつて自分たちが犯した犯罪にある程度自覚があるから、まず勝手に自分の中で相殺処理をしちゃって、外に出せないのではないかなと思った。中国なんかはその点、自分たちの罪を客観視する機会がまだ無いので、自分たちが日やその他の列強にされたようなことを、平気でチベットなどにしながら、一方で戦争被害を訴えられるのでは?あくまで全体を覆う空気の話だけど。 追記 最初、(この記者の意見は)逆じゃないかなと書いたが、逆ではないな。日

    平和をたずねて:南京−沈黙の深い淵から - 跡地。
  • 「アンチCNN」サイトの言い分 - 跡地。

    例によって産経、福島香織記者のブログより。 http://fukushimak.iza.ne.jp/blog/entry/542995 これは凄い。ネタで遊んどる場合じゃねえ。 世界各地では、中国は人権はないといい、チベットの文化的絶滅や、民族の大虐殺や、なにやかやいってますが、1950年前のチベット人口はいったい何人なのか、よく研究してみたらいいですよ。120万人の種族の大虐殺ってどこから出てきた話なの?これこそでたらめだし、中国共産党が毎年チベットにどれだけの予算を分配しているかもみんな調べるといい。とっても多いんですよ。 文革時期の話も同じで、漢族がラマ寺院を打ち壊しにいったのではなくて、みなチベット族同胞が打ち壊したんです。現在、中国共産党は若いラマ僧の数を抑制しているけれど、これは非常に正常なことだと思います。ラマ僧はみな共産党から給料をもらっているんですよ。公費で医療を受けるっ

    「アンチCNN」サイトの言い分 - 跡地。
  • 「要は、勇気がないんでしょ?」で権威が失墜する作戦部長 - 跡地。

    ちょっと昔の話。今よりも僕はずっとずっと軍隊が好きで、国防方針を説明するのが好きだったんです。 でまぁ、当時も今と変わらず抗日が酷くて、 男友達と飲みながら「抗日が酷い、だから対ソ戦できないんだ」と文句言ってたのです。 市ヶ谷で。 したらまた、この友達が「じゃあ、わかった」と言うのです。「今から北平に行こう」と。 独断専行は昔はやりましたけどオレは焦りました。「いや、ちょっと待って」とあわてます。 でも友達は、少し遠くで飲んでいる宋哲元と秦徳純を指さし、「あそこ行ってドンパチやろうぜ」と言い、支那駐屯軍に打電しようとします。 オレは「いや、向こうも迷惑だし」とか「さすがにうざいっしょ」とか言って止めます。 友達は「嫌がられたらすぐ圧迫面接で和平交渉すればいいんだよ」と言ってましたが、オレが動こうとしないので行くのをあきらめました。 「じゃあ、北平じゃなくて、蒋介石の拠南京襲うか?」と友達

    「要は、勇気がないんでしょ?」で権威が失墜する作戦部長 - 跡地。
  • 徳王自伝 - 跡地。

    徳王(ドムチョクドンロプ)の回想録より。 訪日期間中、私は個人の身分で吉田[悳]騎兵監を訪ねた。吉田が包頭で日駐屯軍の部隊長[騎兵集団長]をしていた頃、私が包頭へ軍隊の慰問に行くと、彼は日軍部隊を集合・整列させて出迎え、私にあいさつをさせるという特例を設けたので私はとてもよい印象を抱いた。私は彼が他の日軍人とは違うと思った。私が訪ねて行くと、彼はとても丁重にもてなしてくれ、次のように言った。 「私は包頭を離任しましたが、包頭については人から聞いてよく知っています。私が去ってから、後任の中島[小島吉蔵の誤り]部隊長がずいぶんと悪いことをして、多くの人を逮捕したほか、敵に内通した中心人物の王文治等も殺してしまったそうですね。彼のこのようなやり方はあまりにも稚拙でばかげています。この人たちを逮捕・殺害しても、何の役にも立ちません。なぜ彼らの組織と人員を逆に利用して、我々のために情報を集めた

    徳王自伝 - 跡地。
  • 鰻と梅干 - 跡地。

    昭和初期の日の歩みは錯誤の積み重ねである。一つ一つは小さくてもそれが重なり、やがて坂道を転がりだす。例えば支那駐屯軍の増強問題。これは関東軍の北支への容喙に対する牽制として為されたものだが、勿論そんなこと中国側が知るわけがない。またその兵力配置について参謀部(石原莞爾第一部長*1)は通州に置くことを望んだが、条約上京津鉄道から離れた場所には置けないという梅津美治郎陸軍次官*2の強い反対にあい、豊台に置くことになった。二十九軍と眼と鼻の先に置かれたこの一大隊が、盧溝橋事件を誘発する有力な原因の一つであることは論を待たないだろう。また併せて後に通州でおこった惨劇を思い合わせると、何ともいえない気持ちになる。国が滅びる時というのはこういうものだろうか。 南京は錯誤の集大成ともいえる。我が軍による蛮行はこれで終わったわけではないのだが、南京ほど虐殺の起こる条件が揃っていた事例はあまり無い。簡単

    鰻と梅干 - 跡地。
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