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宇宙と歴史に関するDittyのブックマーク (54)

  • 宇宙開発の政治史を記述した先駆的研究The Heavens and the Earth(1985)の紹介|武内和人|戦争から人と社会を考える

    1957年にソ連が打ち上げた人工衛星スプートニク1号はその後の国際政治の展開に大きな影響を及ぼす出来事でした。アメリカ国内ではソ連に宇宙開発で追い抜かれたという危機感が高まり、宇宙関連技術に関する研究と教育への関心が高まるきっかけとなりました。当時の大統領だったアイゼンハワー(Dwight David Eisenhower)も、この世論の高まりを受け、宇宙開発を推進しますが、同時に宇宙開発の軍事利用に歯止めをかける必要があると考え、軍隊とは別の連邦政府の機関として1958年の国家航空宇宙局(National Aeronautics and Space Administration, NASA)を設置しています。マクドゥーガルが1985年に刊行した『天空と地上:宇宙時代の政治史』は、この時期中心に冷戦時代のアメリカの宇宙開発政策の展開を捉えた先駆的な研究です。 McDougall, W. A

    宇宙開発の政治史を記述した先駆的研究The Heavens and the Earth(1985)の紹介|武内和人|戦争から人と社会を考える
  • https://twitter.com/Kyukimasa/status/1709504717754372120

  • The V-2 Program: Operation Backfire to the Hermes Project

  • ロシアの宇宙活動(5):宇宙政策シンクタンク_宙の会

    宇宙政策シンクタンク「宙の会」は、宇宙政策について調査、議論し、提言することを目的にしています。多くの欧米のシンクタンクに見られるように、下請的調査ではなくて、中立、公平な立場での政策提言をめざします。そのスローガンは「静かな抑止力」。宇宙活動を世界標準並みに、科学技術力、将来産業力、環境・災害監視力、国際協力と外交力、という国の総合的ソフトパワーに活用すべきとの考えです。 先回、二つの疑問を提起しました。第一の疑問は、コロリョフは何処からグライダ作りの資金を手に入れたのかということ、第二の疑問は、コロリョフが、自分で設計、製作したグライダ、飛行機に乗りたかったことの延長が、何故、ロケットにまで至ったのかということでした。 第一の疑問は、直接、コロリョフがロケットに至った理由とは無関係に見えますが、これが第二の疑問への答の伏線となっているので、まずそのことから始めたいと思います。 1925

  • ロシアの宇宙活動(4):宇宙政策シンクタンク_宙の会

    宇宙政策シンクタンク「宙の会」は、宇宙政策について調査、議論し、提言することを目的にしています。多くの欧米のシンクタンクに見られるように、下請的調査ではなくて、中立、公平な立場での政策提言をめざします。そのスローガンは「静かな抑止力」。宇宙活動を世界標準並みに、科学技術力、将来産業力、環境・災害監視力、国際協力と外交力、という国の総合的ソフトパワーに活用すべきとの考えです。 コロリョフの家から海軍の水上機の離着水がよく見えたことは先回述べましたが、そのうちに彼は、飛行機を遠くから見ているだけでは満足できず、海軍航空隊の基地に近づき、鉄条網の外に連日へばりついて飽かず中の動きを眺めているようになりました。そんな、ある日、彼は警備の若い兵士から中に入ってもよいと言われました。兵士は、ただ招き入れただけではなく、飛行機の傍に連れて行って、親切に説明までしてくれたのです。彼は、以後、おおっぴらに基

  • ロシアの宇宙活動(3):宇宙政策シンクタンク_宙の会

    宇宙政策シンクタンク「宙の会」は、宇宙政策について調査、議論し、提言することを目的にしています。多くの欧米のシンクタンクに見られるように、下請的調査ではなくて、中立、公平な立場での政策提言をめざします。そのスローガンは「静かな抑止力」。宇宙活動を世界標準並みに、科学技術力、将来産業力、環境・災害監視力、国際協力と外交力、という国の総合的ソフトパワーに活用すべきとの考えです。 前回述べた様々な反証は、コロリョフは1929年に、ツィオルコフスキーに会っていなかったであろうということを強く示唆しています。 決定的な証拠はないので、断言はできませんが、会っていたというほうを「白」、会っていなかったというほうを「黒」とすると、現在のところ、黒に近い「灰色」といってよいのではないでしょうか。伝記作家ゴロヴァノフはそのような判断をしています。 黒に近い灰色であったとして、それでは、何故、コロリョフがツィ

    Ditty
    Ditty 2022/07/17
    “コロリョフはツィオルコフスキーに会ったか”
  • ロシアの宇宙活動(2):宇宙政策シンクタンク_宙の会

    宇宙政策シンクタンク「宙の会」は、宇宙政策について調査、議論し、提言することを目的にしています。多くの欧米のシンクタンクに見られるように、下請的調査ではなくて、中立、公平な立場での政策提言をめざします。そのスローガンは「静かな抑止力」。宇宙活動を世界標準並みに、科学技術力、将来産業力、環境・災害監視力、国際協力と外交力、という国の総合的ソフトパワーに活用すべきとの考えです。 ゴロヴァノフは、彼の大著「コロリョフ伝」の中で、コロリョフが22歳のときツィオルコフスキーに会ったという説に対して、次のような根拠で疑問を呈しています(私の解釈による追加が若干あります)。 (1)  コロリョフがツィオルコフスキーに会ったとすれば、それは、1929年10月3日から23日までクリミア半島のカクテベリで行われた、第6回全国グライダ競技大会に出場しての帰りで、彼は、大会が終わってから、職業学校時代を過ごしたオ

    Ditty
    Ditty 2022/07/17
    “コロリョフはツィオルコフスキーに会ったか”
  • ロシアの宇宙活動(1):宇宙政策シンクタンク_宙の会

    宇宙政策シンクタンク「宙の会」は、宇宙政策について調査、議論し、提言することを目的にしています。多くの欧米のシンクタンクに見られるように、下請的調査ではなくて、中立、公平な立場での政策提言をめざします。そのスローガンは「静かな抑止力」。宇宙活動を世界標準並みに、科学技術力、将来産業力、環境・災害監視力、国際協力と外交力、という国の総合的ソフトパワーに活用すべきとの考えです。 宙の会から、宇宙活動とくにロシアの宇宙活動を中心に原稿を書く機会を与えられました。 私は、かつて、日ロケット協会の会報「ロケット・ニュース」に旧ソ連のロケット設計者セルゲイ・コロリョフの伝記を連載したことがありますが、今回は、そのコロリョフのことから書き始めて、ロシアの宇宙活動についての雑感を述べることにします。 最初に、コロリョフの紹介を簡単に行うことにします。 コロリョフは日露戦争(1904-1905)直後の19

    Ditty
    Ditty 2022/07/17
    “コロリョフはツィオルコフスキーに会ったか”
  • The National Archives Catalog

    The online portal to the records held at the National Archives, and information about those records.

  • https://www.nasa.gov/wp-content/uploads/2023/06/sp-4408.pdf

    Ditty
    Ditty 2019/07/14
    Challenge to Apollo - The Soviet Union and the Space Race 1945-1974 https://history.nasa.gov/SP-4408pt2.pdf
  • The Medieval Flat Earth

  • ロシア未来派とコスミズム - 山形浩生の「経済のトリセツ」

    モスクワのレーニン廟には、レーニンのミイラというか防腐死体があるのはもちろん有名な話だ。通常、それはソ連(およびその他)の社会主義が個人崇拝に堕した明白な印として嘲笑されることが多い(ベトナムのホーチミン廟と同じで)。そして、それ自体はまちがいないことだ。 でもその一方で、そこにはもっとずっとおっかない発想があったというのを今日初めて知った。レーニンの遺体保存を主張した葬儀委員レオニード・クラーシンは、ソヴィエト科学がいずれ死者を復活させられると気で信じていて、そのために死体保存をすべきだと主張していたんだと。そしてレーニン廟は、それを実現するためにアレクセイ・シューセフが設計したもの。シューセフはロシア未来派の一人だったんだけれど、死者復活に備えてかれは、レーニン廟をタイムマシンとして設計したんだと。 その設計の基的なアイデアの根底にあったのは、かのロシア未来派のマレヴィッチの思想。

    ロシア未来派とコスミズム - 山形浩生の「経済のトリセツ」
  • 「八王子隕石」決め手得られず…国立極地研 : 科学・IT : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

    今から200年前の1817年(文化14年)12月29日、八王子に多数降り注いだ「八王子隕石(いんせき)」とされる小石について、国立極地研究所(東京都立川市)などは28日、分析の結果、物だとの決め手は得られなかったと発表した。 今後、隕石に関する情報提供を八王子の旧家などに呼びかけ、現物の発見を目指すという。 八王子隕石は当時、町の中心部に長さ約1メートルのものを含め、多くの破片が落ちたと記録されている。一部は江戸幕府の天文方が調べたが、散逸したという。 ところが、1950年代、京都の土御門(つちみかど)家で約0・1グラムの小石が見つかった。「隕石之事」と書かれた紙包みの中に、八王子隕石について記載した紙に挟まれていたため、現物とみられた。ただ、1866年(慶応2年)、京都に落ちた曽根隕石(約17キロ・グラム)のことを書いた紙も一緒に入っていたため、違う可能性もあった。 今回、極地研の山口

    「八王子隕石」決め手得られず…国立極地研 : 科学・IT : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
  • Space World Magazine

  • 蛇乃目伍長の「エアフォースの英国面に来い!」 Mk.2 : ロケット・キャッチャー

    2016年11月03日16:00 ロケット・キャッチャー カテゴリヘンなパテント 「Mechanix Illustrated」誌、1953年1月号に掲載された “ROCKET CATCHER” 。→■ …なにか悪い冗談のようですが、ロケット自体が多段式になるとか帰還モジュールだけが帰ってくるとかの発想が無かった時代としてはこれも考えられる手段の一つだったのでしょう。 キャプションにある通り、US2592873として特許が取得されています。→■ キャッチャーは山の斜面や水上に設けられるみたいです。 ニュアンスの似ている物は1919年にすでに登場しています。 「ELECTRICAL EXPERIMENTER」誌1919年12月号に掲載された “Aerial Passenger Rocket" と呼ばれるアトラクションです。→■ 考案者はハリー・セコーとヒューゴー・ガーンズバック! 電磁砲(時代

    蛇乃目伍長の「エアフォースの英国面に来い!」 Mk.2 : ロケット・キャッチャー
  • お知らせ : 京都新聞

    File Not Found. 該当ページが見つかりません。URLをご確認下さい。 お知らせ 事件・事故のジャンルを除き、過去6年分の主な記事は、インターネットの会員制データベース・サービスの「京都新聞データベース plus 日経テレコン」(http://telecom.nikkei.co.jp/public/guide/kyoto/)もしくは「日経テレコン」(社・東京 http://telecom.nikkei.co.jp/)、「ジー・サーチ」(社・東京、 http://www.gsh.co.jp)のいずれでも見ることができます。また、登録したジャンルの記事を毎日、ネット経由で会員に届ける会員制データベース・サービス「スカラコミュニケーションズ」(社・東京、http://scala-com.jp/brain/) も利用できます。閲読はともに有料です。 購読申し込みは下記のページから

  • 【連載】宇宙開発秘録 - 夢敗れたロケットや衛星たち

    H3ロケット3号機現地取材 第4回 H3ロケットは2機連続成功、「まぐれでないことを証明できた」 2024/07/02 19:27 連載

    【連載】宇宙開発秘録 - 夢敗れたロケットや衛星たち
  • MAN WILL CONQUER SPACE...SOON

    Ditty
    Ditty 2016/02/24
    フォン・ブラウン。
  • 明朝のロケット操縦士ワン・フー氏の謎

    轟音と煙とともに消えた男 〔略〕一五〇〇年ごろの中国。時は明王朝。人類初の宇宙旅行を企てた男がいた。竹製の特別あつらえの椅子に端然と腰掛けた男、その名は王冨[ワンフー]、明の高級官吏である。椅子の後ろには四七基の火薬ロケットがノズルをそろえ、凧が二つ、椅子を引っ張りあげている。四七人の苦力[クーリー]が一基ずつ、ロケットの導火線にマッチで火をつける。 「バーン!」 耳をつんざくような爆発音、つづいてモウモウたる煙。煙が晴れたとき、哀れな王冨の姿は残っていなかった。ただ淋しく、粉々になった椅子の残骸が王冨の運命を物語っていた。急いで駆け寄った人々はつぶやいた。 「ああ、王冨さんは天国へ行っちゃった」 王冨がニュートン力学をマスターしていれば、天国へ到着するのは早くて六、七分後と見積もっていただろうが、彼はたぶんその予定よりもかなり早めに天国に着いたにちがいない。それにしても、戦争の道具として

  • The BIS Space Station