韓国を中心としたオンラインゲームについての本。学術書というよりも、ビジネス書に近いと思う。 内容はかなり充実していて、概観を把握するのに、良い。韓国にとくに興味が無い人にも、オンラインゲームについての研究として役に立つと思う。 ただ、私はこの著者ほど、現時点のオンラインゲームに対して肯定的になれないので、いかにして日本でオンラインゲームを発展させるか、というこの著者の問題意識を共有できない。むしろ、日本ではオンラインゲームはそれほど必要ではなく、それに代わるものがあるのだが、別に無理に日本でオンラインゲームをやらなくてもよいのではないかというのが私の立場である。 また、韓国のオンラインゲーム産業も、結局世界市場というか英語圏の市場では、MMORPG分野ではどうせブリザードに(というかWoWに)負けるのではないかとひそかに思っている。ただ、オンラインのカジュアルゲームの分野での韓国の動きは確
■[1995][etc]オマ頃#10 「1995X」 「オウマーだったあの頃」シリーズ最終回は、1995年にオウム真理教を巡って書かれた文章・発言を集めてみた(例によって強調はkataru2000による)。内容そのものよりむしろ、こういった文章が書かれ、読まれた11年前の時代の気分とか空気を感じてもらえたらと思う。読んでいただけるとわかるけど、2006年の今だったらこの内容をこういう言い方で書いても通用しないだろうなあと思われるものも、今だったらもっとストレートに書いても通じるよというものもある(もちろん別に違和感を感じないだろうものもある…爆笑問題のやつとか…)。あらためて1995年を境にして、世の中の潮目が変わったんだなあと思う。そして地下鉄サリン事件は確実にきっかけになっている。 潮目が変わったのならば、やり方を変えないと釣果は上がらない。現在30代以上で肩書きのある人が、11年前と
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webデジタルARENAの『うたのおねえさんのアートがネットに与えた衝撃!! 』が私に与えた影響は凄まじいものがあった。その衝撃を敢えて一言で言うならば「開いた口が塞がらない」というものである。 平気で著作権を侵害する無神経さきっかけはYouTubeに投稿された同番組の一部。著作権的に考えるととても認めるわけにはいかないので直リンクはできないうたのおねえさんのアートがネットに与えた衝撃!! / デジタルARENAと一見、著作権に気を遣っているかのように思えるが、はいだしょうこさんが描いた作品を模写という形で紹介している。模写が著作権を侵害しているのは明白である。個人が自己責任に於いてYOUTUBEを視聴したり、YOUTUBEの画像を紹介したりする事自体までは私もとやかく言うつもりは、ない。しかし、デジタルアリーナは日経というメディアが金を出して作っている情報サイトではないのか。そこで著作権
科学史においては、何が科学で何が科学でないかについてはこだわらない。それにはいろいろな理由があるのだが、そもそも「科学」という言葉自体、かなりあいまいに使われていて、それに対応する言語によって差異があるからでもあるし、そもそも本質主義的な定義を受け入れないほどに、歴史的・地理的な文脈に規定されているからでもある。だが、それ以上に、定義を考えることがそれほど科学史の研究に役立たないからだ。科学の定義を決めたとしても、その定義に当てはまるもののみを科学史の対象とするかといえば、そうではない。科学史の研究にとって貢献するような対象であれば、それは科学史の対象になる。つまり、一方で、明らかに誰もが科学と認めるような中核的な科学があり、それに対する歴史的研究を科学史と呼ぶことについては一応コンセンサスが得られている。そして、科学であるのか、ないのか分らないようなものについても、それについての研究がコ
2008-12-26 もっとほしいです!! 2008-12-26 よーちよちよちよち!!!! 2008-12-26 だしゃーし!!!!!! 2008-12-26 えふwwえふwwえふwww 2008-12-26 試してみたお!
ネタだから、オタク産業、アニメや漫画なんかの未来とか可能性は、それらが時間消費型娯楽の域を脱しない限りは難しいので、そんなものに日本の未来を賭ける、なんて馬鹿な考えはやめたほうがいいと思います。愛・蔵太の少し調べて書く日記アニメやマンガというような「それを体験するのに時間の掛かる」商品は人生という限りのある時間の中で機会コストのかかる商品であるので、今後衰退していくであろうという推察。機会コスト、というのは「鋼の錬金術師」ではないのだけれど「何かを得るには何かを犠牲にしなければならない」状態を指します。例えば恋人と映画を見に行ったとして、映画を見ている時間というのは恋人が隣にいてもおしゃべりをするという機会を犠牲にしなければなりませんね。上映時間中は買い物も、食事も出来ません。トイレだって我慢したくなるくらいです。人は誰でもオギャーと産まれたその瞬間から確実に死のカウントダウンが始まってい
皆さん朗報でございます松永の仕事が一つなくなりましたしかもちくりによるものだそうでございますよろしゅうございましたねこれでまた一歩清潔な社会に近づきましたこうして俺が社会からはじき出されてのたれ死んだらこの世はなべてこともなし安全で平和で幸福で過去に汚点も何もない人たちだけが住むことのできる均質で異物のない、美しい楽園が現出するのでございます自分と考えの違う人の存在におびえることもなく理解できざるものの恐怖を味わうこともなくネットは誰かに操作されることもなくいいことづくめの太平楽「罪人に石を投げる資格が当然あって投げられる側に回ることは決してありえない」と自認する人たちだけが住むちょー理想郷の登場でございますはぁチャカポコチャカポコ 野田は電話で「自分の書いたことの結果に責任を取る」と言っていたがたとえば彼の記事のために月25万円分の収入がなくなったといったらちゃんと払ってくれるのだろうか
昨日のRGNであれだけ人が集まったのは、それほど多くの人がゲームについて語る場所を求めているからだと思う。ゲームはそれほどにプレイヤーに対して(おそらくそれ以上にデヴェロッパーに対しても)強い個人的な紐帯を作るものなのだ。そういったゲームについて語りたいという情熱を解放して昇華させることはとても重要だろう。他方で、そのようなゲームについての「語り」に終始していては、アカデミックなゲームについての学問は成立し得ない。ゲームのファンは、ゲームをプレイすることによって生じる体験というゲームの本質的な部分を知っているが故に、ゲームについて語るべき重要な情報を持っている。だが、正にファンであるがために、ゲームに対してバイアスを持たざるを得ない。さらに言えば、ゲームのプレイ体験を語るだけではゲームを論じることにならない。論理的な構造、分析的枠組み、先行研究との関連づけ、参照された事実から主張への論理的
社会, web, 心理松永さんがブログを使って読者を洗脳しようと企んでいるとか本気で信じている人がいるみたいですけれども。 こういう事を本気で書いている人って他人の書いた文章を読み解く力が抜本的に足りないか、コメントやトラックバックを通じて異なる意見や感想があるという事を知ったり、自らの意見を書いたりする術を持っていないのかと本気で心配になってしまいます。 私は松永さんがどんなに優れた文章を書いていて多くの人に支持されているアルファブロガーだろうと、私が「ヘンだな、おかしいぞ」と思ったらブログに書いています。そういう事をする私を「ずれている」と揶揄する人もいるようですけれど、自分がズレているかどうかだとかも「書いて見ないとわからない」ですよね。 大切なのは「自分の意見を公開する事、そしてその意見のレスポンスを読む事」だと思うんですよ。 松永さんが過去に何を信じていたかとか、今何を信じている
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