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ブックマーク / d.hatena.ne.jp/kenjiito (17)

  • 日本は高等教育過剰か?(1) - Cerebral secreta: 某科学史家の冒言録

    は高等教育過剰か?この問い自体が様々な曖昧さを含んでいる。まず第一に、過剰かどうかは、何をもって適正な基準とするかに依存する。従って、日に高等教育が過剰であるとする議論において、何をもって適正なな基準とするかが示されていないのであれば、迷走した議論にしかなりえない。そして、何が適正であるかは、論理的に導きだされるものではなく、主権者の政治的判断によって決定されるべきことであると思う。 第二に、過剰ということ自体にも、様々な意味がありうる。なされている教育の量や質 が過剰なのか、大学生数ないし大学数が過剰なのか、あるいは使われている予算が過剰なのか。 このエントリーは4つほど続けてエントリーを書くシリーズの最初のものである。ここではまず、日は高等教育が過剰であるとする主張にどのようなものがあるのか考えてみる。そして、次のエントリーではそれを批判・検討する。三番目のエントリーで、逆に日

    Dryad
    Dryad 2010/08/20
    結局のところ、どの論点もこれに尽きるよなぁ『日本に高等教育が過剰であるとする議論において、何をもって適正な基準とするかが示されていないのであれば、迷走した議論にしかなりえない。』
  • ハーバード白熱教室は日本で可能か?(後編) - Cerebral secreta: 某科学史家の冒言録

    先々週のエントリーで、NHKで放映されたマイケル・サンデルのハーバードにおける授業について、それがハーバードの一般教養の授業として実際にどのように実施されているのかについて、放映された部分だけでは分からない、大学院生らのTAによるディスカッション・セクションや、きめ細かい指導があることについて書いた。*1先週のエントリーでは、そのような一般教養の授業のやり方をそのままハーバードから日の大学に持ち込むことが極めて困難であろうということについて書いた。*2 このエントリーで考えたいのは、次の点だ。たとえ、ハーバードでの教育システムをそのまま日に持ち込むことができないとしても、ハーバードで達成されている成果をある程度上げるような、日における一般教養教育の仕組みを考えることは可能ではないか。そこで、もし可能であるとすれば、そのためには一体どのようなことができるだろうかについて考えてみたい。

  • ハーバード白熱教室は日本で可能か?(前編) - Cerebral secreta: 某科学史家の冒言録

    先週書いたエントリー、「『ハーバード白熱教室』の裏側』*1で、テレビで放映されたマイケル・サンデルの授業は、実際のハーバードの授業のうわべにすぎず、あの授業を含むハーバードの一般教養の授業には、多くのリーディング・アサインメントが課され、多数のTF(日でいうところのTA、ティーチング・アシスタント)が配置されて、少人数性のディスカッション・セクションが並行して行われ、ディスカッションや、ペ―パー、筆記試験によるきめ細かい指導と、成績評価がなされていることについて書いた。これに対する反響で多かったのは、日の大学ではあのような授業は可能かどうか、という事に関するものだった。とくに、日ではとても無理、という悲観的な反応が多かった。*2これに対して何らかのの形で答える必要があると思うので、日曜日の午後を利用して、一つエントリーを書いてみる。 『ハーバード白熱教室』は日で可能か?結論から書く

    Dryad
    Dryad 2010/08/03
    四番目を見て http://bit.ly/9AHbFh を思い出した/入学者を半分に減らして「エリート教育」色をさらに強めるとかしかなさそうな
  • 『ハーバード白熱教室』の裏側:ハーバードの一般教養の授業をサンデルの講義を例にして説明してみる - Cerebral secreta: 某科学史家の冒言録

    ハーバード大学におけるマイケル・サンデル(Michael Sandel)の授業が、『ハーバード白熱教室』としてNHKで放映され*1、かなりの人気を集めて話題になっているようだ。これはすべて再放送を待つまでもなく、ウェブ上で観ることができる(ただし英語だが)。*2 ちょうどいいので、これを使って、ハーバードの学部向け一般教養の授業の作りを説明してみようと思う。色々誤解もあるようであるし、あの映像だけでは分からないこともある。 私自身は、サンデルの授業を履修したことはないのだが、大学院生のときに、一般教養の授業のTAやHead TAをかなりやったので(といってもサンデルの授業ではもちろんなく、私の専門の科学史やSTS関係の授業である)、ハーバードの一般教養の授業の仕組みはかなり分かっているほうだと思う。とくに、日人のハーバードの学部生というのがほとんどいないわけであるし、私が説明するのもまっ

  • 「【事業仕分け】刷新会議事務局長が野依氏を「非科学的」と批判」(産経ニュース) - Cerebral secreta: 某科学史家の冒言録

    http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/091126/plc0911262253029-n1.htm 野依良治氏が事業仕分けを「見識を欠く」と言ったことに対し、行政刷新会議の加藤秀樹事務局長が次のように言ったそうだ 仕分け人は)誰ひとりとして科学技術を否定していない。そういうことを見も聞きも知りもせず、『非見識』というのは非科学的だ これは色々な意味で興味深い。非科学者が科学者(それもノーベル賞受賞者)に対して、非科学的だというのはちょっと面白いことである。そこで、ちょと条件反射的に感想を書いてみる。もう少し調べてから書きたいこともあるのだが、今は時間がないので。 私は事業仕分けには基的に賛成なのだが、科学技術関係事業への適用の仕方に大きな問題があると考えており、その意味で野依氏の「見識を欠く」というのはそれほど外れていないと思っている。その意味

    Dryad
    Dryad 2009/11/28
    久々にエントリを拝見(´・ω・`)
  • 学会バンケット・4S2010実行委員会 - Cerebral secreta: 某科学史家の冒言録

    東大駒場にて。3年後の会議の準備としては、だいぶ順調に進んでいるように見える。幸いなことに私はほとんど何もしなくても良く、こういう会議に出るだけでよいらしい。そもそも日のSTSではどちらかといえばアウトサイダーな私がこういうところに呼ばれるのもやや意外である。4Sに出席した回数・発表数から言えば、日人では私ははかなり多いほうなので(ひょっとしたら一番多いかもしれない)、その経験を、ということらしい。しかし、会議に出席した印象では、大部分の委員は、あまり変な(日的な)方向にもっていこうというところはないようなので、私は幸いにして発言する余地がなくてすむのがありがたい。実行委員長は割りと手際よく進めてくれたので(あるいは、新幹線で大阪に帰らないといけない人がいたせいか)、ほぼ時間どうりに終了。時間どうりにおわる会議というのは良い。 一つ論点になったのは、バンケットのことである。4Sの側で

    Dryad
    Dryad 2007/12/20
    『日本には、そういった権力構造を掘り崩す文化自体がないので、日本の文化を称えることは権力構造を保持するように機能することになる。』
  • サイエンス・コミュニケーション - Cerebral secreta: 某科学史家の冒言録

    あまり根拠のない憶測を、説明不足を承知で、書いてみる。 近年のサイエンス・コミュニケーション・バブルは、ゆとり教育のしりぬぐいなんだろうか、と思う。だとしたら、それが欠如モデルに傾くのは必然的だといえる。ようするに、ゆとり教育でがたがたになった理科教育を、さすがにそのままでは日の前途が危うい、ということで、あやまちを正面から認めずに糊塗するためにやるのがサイエンス・コミュニケーションで、そうなったら、その内容は学校の理科でやることの延長だとしても不思議はない。 知識としての科学を教え込み、それに対する無批判な態度を条件付けるような種類のサイエンス・コミュニケーションは無いほうがましだと思う。なぜなら、科学リテラシー以上に重要なのは政治的自覚であり、そして、科学的権威が無批判な態度を助長するならば、それは政治的自覚を阻害することになるからだ。 これは決して反科学を唱えるものではない。むしろ

    Dryad
    Dryad 2006/12/04
    「科学リテラシー以上に重要なのは政治的自覚であり、そして、科学的権威が無批判な態度を助長するならば、それは政治的自覚を阻害することになる」
  • 遊びと学びの相対性 - Cerebral secreta: 某科学史家の冒言録

    下のを読んでいて思ったこと。 いや、相対性という言葉はあまりよくないのだが。 要は、ある種の技能や知識の習得が遊びであるか、学びであるか、の区別は、社会や文化に依存していて、相対的であって、質的な境界が引けるものではない、ということ。 これは自明、ではないだろうか。 だが、逆に言えば、その境界線は、ある時代のある文化には一応存在している、ということでもある。だから、いくらゲームが高度化して、複雑になったからといって、そのゲームをマスターすること、それ自体に必ずしも意味があるとは私は思わない。 問題は、その境界線の引き方は、必ずしも、社会の有用性に基づいていない、ということだ。だから、ゲームにおいて、有用な技能が学べるとしても、それがゲームであるが故に、過小評価され、逆に、まったく有用でない技能や知識の習得が、学校でなされるが故に絶対視されることもありうる。 そして、その境界の引き方は既

    Dryad
    Dryad 2006/10/19
    遊びやゲームが有用でないというより、有用でないものの象徴としてゲームが位置づけられている?
  • 「 バーチャル・リアリティは悪」再考 - Cerebral secreta: 某科学史家の冒言録

    Dryad
    Dryad 2006/10/04
    「メディア技術が強力になりうるのは、もちろんそれが国家と結びついたとき」「保守層が最先端のメディア技術を敵視している限り、国家権力がそれを取り込まないでいてくれるかもしれない」
  • hc12: Julian Kucklich Game Studies 2.0 - Cerebral secreta: 某科学史家の冒言録

    http://www.digra.org/hardcore/hc12 DiGRAのウェブサイトに掲載されるHardcore Columnというコラムの最新のもの。ここで著者は「Game Studies 2.0」を提案している。このタイトルだけで、半分おふざけだとわかるわけだが、Kucklichの示している方向性は私の考えとかなり近いように思われる。彼は次のように書く: What all of these publications have in common is an appreciation for the fact that games do not take place in a vacuum; they are embedded in cultural, social and political contexts. なんだかどこかで聞いたような。 しかし、Web 2.0と同様、G

  • 質問票を作るかどうかという問題 - Cerebral secreta: 某科学史家の冒言録

  • Henry Jenkins, "Game Design as Narrative Architecture" - Cerebral secreta: 某科学史家の冒言録

    Henry Jenkins, "Game Design as Narrative Architecture," 多分、この論文がHenry Jenkinsの代表作なのだと思う。LudologyとNarratologyの対立を乗り越え、ゲームにおけるナラティブの位置づけについて考えるための里程標的な論文であると思う。この論文は、ゲームにおけるludologyとnarratologyとの間の対立を契機としながら、ナラティブ一般について再考を促す、長い射程をもつ(とはいえ、私自身はナラティブ一般についての学問的言説について云々する資格を持たないのだが)。 かつてゲーム研究は、ナラティブを中心に研究する人達で占められていた。もともと、文学や、映画を研究していた人達がゲーム研究に移ってきたことが多かったが故に、それはごく自然なことだった。それがGonzalo Frascaのludologyの提唱によ

    Dryad
    Dryad 2006/07/20
    「Jenkinsはゲームデザイナーとは物語の語り手なのではなく、ナラティブの建築家として、世界(あるいは日本の慣習に従って「世界観」と言っても良い)を彫刻するのだという。」
  • ゲームとメタコミュニケーション - Cerebral secreta: 某科学史家の冒言録

    Gregory Bateson, "A Theory of Play and Fantasy," in Katie Salen and Eric Zimmerman, eds., The Game Design Reader: A Rules of Play Anthology (The MIT Press, 2006), pp. 314-329. 原著は1972年のSteps to an Ecology of Mind、すなわち『精神の生態学』。この論文はCailloisの言うところの、mimicryとしての遊び、の、コミュニケーションにおけるインプリケーションの分析。 Batesonはコミュニケーションには、様々なレベル、外延的(denotative)レベル(がマットの上にいる)、メタ言語的(「」という言葉には毛皮はない)、メタ・コミュニケーション的(の場所を言うことで好意を伝え

    ゲームとメタコミュニケーション - Cerebral secreta: 某科学史家の冒言録
  • 「コンテンツ」 - Cerebral secreta: 某科学史家の冒言録

    Dryad
    Dryad 2006/07/12
    そもそも字義的にも、containerにcontainされる何か、という意味であったような気もしますし。
  • 魏晶玄『韓国のオンラインゲーム研究』東洋経済新報社、2006. - Cerebral secreta: 某科学史家の冒言録

    韓国を中心としたオンラインゲームについての。学術書というよりも、ビジネス書に近いと思う。 内容はかなり充実していて、概観を把握するのに、良い。韓国にとくに興味が無い人にも、オンラインゲームについての研究として役に立つと思う。 ただ、私はこの著者ほど、現時点のオンラインゲームに対して肯定的になれないので、いかにして日でオンラインゲームを発展させるか、というこの著者の問題意識を共有できない。むしろ、日ではオンラインゲームはそれほど必要ではなく、それに代わるものがあるのだが、別に無理に日でオンラインゲームをやらなくてもよいのではないかというのが私の立場である。 また、韓国のオンラインゲーム産業も、結局世界市場というか英語圏の市場では、MMORPG分野ではどうせブリザードに(というかWoWに)負けるのではないかとひそかに思っている。ただ、オンラインのカジュアルゲームの分野での韓国の動きは確

    魏晶玄『韓国のオンラインゲーム研究』東洋経済新報社、2006. - Cerebral secreta: 某科学史家の冒言録
    Dryad
    Dryad 2006/06/22
    随時会話の「ネタ」が提供されるという意味で、ゲームである事の意義はあると思いますけれど。
  • ゲームと科学の境界問題 - Cerebral secreta: 某科学史家の冒言録

    科学史においては、何が科学で何が科学でないかについてはこだわらない。それにはいろいろな理由があるのだが、そもそも「科学」という言葉自体、かなりあいまいに使われていて、それに対応する言語によって差異があるからでもあるし、そもそも質主義的な定義を受け入れないほどに、歴史的・地理的な文脈に規定されているからでもある。だが、それ以上に、定義を考えることがそれほど科学史の研究に役立たないからだ。科学の定義を決めたとしても、その定義に当てはまるもののみを科学史の対象とするかといえば、そうではない。科学史の研究にとって貢献するような対象であれば、それは科学史の対象になる。つまり、一方で、明らかに誰もが科学と認めるような中核的な科学があり、それに対する歴史的研究を科学史と呼ぶことについては一応コンセンサスが得られている。そして、科学であるのか、ないのか分らないようなものについても、それについての研究がコ

    Dryad
    Dryad 2006/06/04
    「境界問題は歴史的な問題である」
  • 誰がゲームについて語れるのか? - Cerebral secreta: 某科学史家の冒言録

    昨日のRGNであれだけ人が集まったのは、それほど多くの人がゲームについて語る場所を求めているからだと思う。ゲームはそれほどにプレイヤーに対して(おそらくそれ以上にデヴェロッパーに対しても)強い個人的な紐帯を作るものなのだ。そういったゲームについて語りたいという情熱を解放して昇華させることはとても重要だろう。他方で、そのようなゲームについての「語り」に終始していては、アカデミックなゲームについての学問は成立し得ない。ゲームのファンは、ゲームをプレイすることによって生じる体験というゲーム質的な部分を知っているが故に、ゲームについて語るべき重要な情報を持っている。だが、正にファンであるがために、ゲームに対してバイアスを持たざるを得ない。さらに言えば、ゲームのプレイ体験を語るだけではゲームを論じることにならない。論理的な構造、分析的枠組み、先行研究との関連づけ、参照された事実から主張への論理的

    Dryad
    Dryad 2006/04/11
    「ゲーム研究を学問として成立させるということは、ゲーム研究者を(中略)権威を持つものとして持ち上げることを意味するのではないか。」
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