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ブックマーク / kmiura.hateblo.jp (25)

  • エリート文学と大衆文学 - 2008-11-10 - kom’s log

    水村美苗がその語りの対象としているのは実にマイノリティな人々なのであって、「日人たるものこのを読むべし」というような内容ではないはずである。内輪のサロンでひそやかにささやかれている話。大衆文学というものがありましてね、英語の席捲もあっていまやホンモノの日文学は瀕死の体、ご臨終。まことに悲しいことよ… かくなる実に不健康な話なのである。そしてここでいうマイノリティとはエリート。そしてエリート文学。 エリート文学、そんなものを年中気にしている人間は日語を話す人間全体の中でほんの一部である。そのほんの一部の人たちが「ああ、わたしたちの考える日文学、それがいまやほろびてゆく」。そうため息をついている、そんな内容のを毛語録のごとく高々と掲げ、こめかみに血筋を浮かばせながら「日人は全員読め!」って*1。そりゃ無理。あちらこちらにみかけた水村美苗のこのところの意見を眺めても、やはりこれは水

    エリート文学と大衆文学 - 2008-11-10 - kom’s log
    Dryad
    Dryad 2008/11/13
    なんとなく、東浩紀が「キャラクターズ」でやったことに(逆張りという意味で)近接した話なのかな、と思った。
  • 2008-07-07 - kom’s log - 民主と私刑

    毎日新聞の海外向け記事の件に関して藤代氏は私刑の主体がマスコミから”ミドルメディア”に広がり拡大している、目下の日が私刑化する社会であることの傍証であると7月7日付の記事で述べている。記事にリンクされた『インターネットと「私刑」化する社会』、という目下の日社会に対する藤代氏による年初頭の分析を眺めて、なるほどと思う。 しかしながら、私刑社会はいまさらはじまった話でもないのではないか、と私は考え直す。日の道徳規範は私刑にかしずく世間体であってきた(e.g.村八分)。「私刑化」というまでもなく私刑は日の社会システムの根源的な一部なのである。裁きの主体は裁判官ではなくて”みんな”。いじめ自体は日にかぎった話ではない。米国にもドイツにもある。しかしながら、私刑がシステムとして形を変えながら歴史を通じ今でも幅を利かせる部分に日に特有な部分がある*1。マスコミからネットへ、という藤代氏の指

    2008-07-07 - kom’s log - 民主と私刑
    Dryad
    Dryad 2008/07/08
    北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』>「準拠すべき規範がない状態での誠意」/↓「毎日が(一方的に)間違っているか否か」という話ではないわけだが
  • 反日 - kom’s log

    グーグルで調べると 反日 2,430,000 Japanese pages 親日 789,000 Japanese pages わはは。日ってよっぽど嫌われているのだね。むろん、反日という存在がないと自分のことを日人であると確認できない感受性の、不安に満ちた方々が世の中にたくさんいるのでこんなことになるのだろう。でも敵をわざわざ作るまでもなく日人は日人なのだよな。 ”反日”、という言葉は「反日感情」という用法を除けば、私が日に住んでいた11年前には今のように頻繁には使われていなかった、と思う。どちらかというと、”反日”という単語は”非国民”という言葉と同様、軍ファシズムの時代のタームという認識が私にはある。”反日”のオントロジーってことで、メディアに登場する”反日”という言葉の数を時系列で調べてグラフにしたらおもしろいかもしれない。

    反日 - kom’s log
    Dryad
    Dryad 2007/08/01
    大統領演説のタグクラウドとかあったけど、その手の言葉でタグクラウドを作ったら面白そうだ。
  • 2007-07-17

    三日前から猛暑。昨日は34度まで上がった。 昨日の短い記事(『ラストサムライの虚妄』)のコメント欄について、ブックマークの方で”「知り合い」ソースの応酬”(id:welldefined)てな言葉があったり、"Web怪文書、つうのはこういう形で出回るんだろうなあ"(id:shidho)といったコメントがあったこともあり、ちょっと考えていて先日話題になっていた北田暁大さんを思い出した。どこで接続させればいいのかは今はわからない(というか、下まで書いてから思うが、関係がない)。 だから、「メディアを疑う」というのは、実はそれほど容易な態度選択ではないのだ。「メディアを疑う」ことはつねに権力に対する距離を保証してくれるわけではない。むしろ、知らず知らずのうちに権力の掌のうえで躍らされる危険だって少なくない。「北朝鮮」へのステレオタイプを拡大再生産している一部の2ちゃんねらーが、「メディア・リテラシ

    2007-07-17
  • 2007-06-14

    昨日はバーゼルの友人が実験しにきてうちに宿泊。明日はニューヨーク大学の化学者来訪。週末はボローニャに今は住んでいるイタリア人が遊びにくる。その後はポルトガルで会議。6月末までゴタゴタ。 細胞内のシグナリングネットワークは実に複雑怪奇で、というのも通常人間が考えるような機械の設計とは発想が違っているからである。たとえばたんぱく質のリン酸化カスケード、という環境情報のプロセッシングでよく登場する仕組みがあるのだが、リン酸化のステップが幾重にもかさなっていて、たとえばMAPカイネースカイネースカイネースカイネース(カイネースはリン酸化酵素のこと)などという冗談のような名前の酵素さえある。機械でいえばステップが増えるほどエラーも増幅されるので、悪い設計、ということになるのだが、どうもそうではない。どちらかというと、こうした幾重ものステップが存在し、それにフィードバックが何度もかかることで、限られた

    2007-06-14
    Dryad
    Dryad 2007/06/15
    『幾重ものステップが存在し、それにフィードバックが何度もかかることで、限られた数の安定した出力を行う、という作動そのものが出力の安定性を保障するシステムになっている』
  • kom’s log 極私的選択

    個々の人間がもっともその個人が望ましいように生きることができる社会態勢を整備する、という観点からは少子化は問題にならない。個々の立場からは子供を産むことが難しくなるような環境と人生の選択肢が判断の要素なのであって、少子化だから産む・産まないということではないのである。「私が産むこと」は「隣人が産むこと」や「友人が産むこと」とは置換不可能である。したがって「産む人間」にとって少子化は問題の対象にならない。極端なことをいえば社会がどうであれ、私は産む、のだから*1。 一方、社会という関係性そのものの作動状況という視点において少子化は問題の対象となる。機械、デバイス、といった関係性の要素を意味する用語を使うことでそれを表現しよう、ということになるのも、社会そのものの存続がトピックであるからだ。したがって少子化は「産む機械」の問題なのであり、目下の枠組みで言えば質的に国士的言説となる。 社会全体

    kom’s log 極私的選択
  • kom’s log - ホームレス・老人・子供

    雪ちらほら。 『なぜ子供が減ったか』というhasenkaさんの記事のタイトルを見て、その文章を読む前に反射的に私の心にうかんだ回答は「子供がフリーライダーだから」。社会にタダ乗りをしている人間を正面から認めるような説明が今失われている。失われている、というか無効なのかな。ホームレスしかり、老人しかり。あるいは失業者。病人。引きこもりもそうかもしれない。社会的弱者を救え、といえば「なにタテマエを」という反応が大手をふる昨今である。子供なぞ社会のフリーライダーのさいたるものだ。ただ乗りしやがって、という雰囲気が社会にあるうちは子供が減るのもあたりまえである。それだけ寛容さがうしなわれているということなのだ。 hasenkaさんのエントリーを読んでおおむねそうだな、と感じたけれど思ったのは子供が増えないのは「産まないという宣言」なのかなあ、ということ。積極的な拒否というよりも、フリーライドの雄た

    kom’s log - ホームレス・老人・子供
    Dryad
    Dryad 2007/02/09
    ここ最近の社会的トピックを総括する良いエントリ/寛容は他人(ひと)のためならず。「フリーライダー」をなじる人間は、自分こそがさらに「上」の人間からフリーライダー視されていることに気づかない。
  • 2007-01-30

    先日買った特大のごぼうできんぴらを作ったのだが、思ったよりも少ない出来上がりでちょっと残念。 『ニュース報道の言語論 「実名」と「匿名」』 (Seuさん)の記事は私が先日書いた『匿名について』と重なっている部分がいろいろある。私と少々違うのは次の点。 それに対し、全くもって印象論でしかないのだが、「2ちゃんねる」に集う人びとには、シニカルなマスコミ批判と共存するかたちで、極めてナイーブな素朴実在論のようなものが共有されているように感じる。つまり、マスコミによって歪められてしまった情報の向こうには、誰にとっても自明な「真実」が横たわっているという想定があるのではないだろうか。 でもって、みんなで情報を持ち寄れば、そうした「真実」に到達できるというわけだ。そうした場においては、固有の見方は嫌悪されるために、「コテハン(固定ハンドル)」は嫌われる傾向にある。いわば、「客観報道」の亡霊が「2ちゃん

    2007-01-30
  • kom’s log - 戦争をしない国

    粒子物理で宇宙線のモンテカルロ・シミュレーションをやっているひととディスカッション。実は隣のマックスプランクにいる彼の専門のことはこれまで知らなかったのだが、たまたま最近判明してもりあがった。モンテカルロの並列化についていろいろおしえてみらう。今後お世話になるなあ。フォートランの方がCより速い、とかいっていた。ほんとかよ。 所内報のエディターと打ち合わせ。昨晩ながながと書いた牛涎な文章を「エディットしたらOKね」とのことでありがたがってくれた。ほっとひといき。 来月のミーティングのことで、パリ・エコール・デ・ミンの数理形態学センターのひとたちとメールやりとり。ヴィデオコンファレンスにしようということで、ビデオ参加したいというオックスフォードの支所に連絡。うちの部門のヘッドがゲストのメンツになんか妙にびびっているので、エコール・デ・ミンってなんじゃね、とフランス人ジェローム君に聴いたら、パリ

    kom’s log - 戦争をしない国
  • 匿名について - kom’s log

    ネットにおける匿名の記事発信に関してはあるていどコンセンサスのある見解が流通している。すなわち次のようなことだ。ネット上においては言論がすべてであり、その内容と経歴によって人格が形成される。したがって匿名であっても個別認識が可能であり、戸籍に登録された氏名よりもよっぽど意味のある場合だってある。 この論理に私はうなずく。なるほど、ということでじゃあ実は匿名ではなくてネット実名なわけね、と得心する。しかしながら、だからネット実名で戸籍実名を批判することは正当である、といわれると私は留保をつけたくなる。なにやってもいいわけではない。順番に説明する。 ネット実名の個人が互いにその世界の内側で罵倒や応酬を繰り返すだけならば私はどんどんやればいい、と思う。でも少々事情がかわるのがネット実名とネット匿名のクラッシュだ。ネット匿名に対してネット実名は脆弱である。なぜならば、ネット実名には守りたいそのネッ

    匿名について - kom’s log
    Dryad
    Dryad 2007/01/27
    『自治のコンセンサスを実行をすることができなかったネットの自滅』/確かに「ネット実名とネット匿名」の共犯的関係には留意すべき。加えて、論理的には「リアル媒体とネット匿名」にも同様の事が言える気も。
  • kom’s log - 重層性

    大雪のあと深夜に雪が止んだ。タバコを吸おうと外に出ると意外に風が強い。月夜にやわらかく発光する雪原を眺めながら女の肌を思い出した。 仲俣さんのこのテキストに関して、ロスジェネ(勝手に省略)の定義に関する妥当性の検討*1は、いかにもウェブ的というか情報蓄積の良心というかなんというか、日文化の精密で良質な部分を体現していると思う。 でもそれだけでおわっちゃいかんと私は思ったりする。なぜならば、仲俣さんの記事を長期にわたって読んでいる人間にはその流れの中で感読できるけれど、ブクマ的な断片情報のピックアップで読んでいるだけではわからない内容が含まれているからなのだ。*2 というか、このトピックは重要だ。三年前のことを思い出したのだけれど、今思い出せば東某がそのころにさかんに立てていた世代論の枠組みに対して私は、え?と思っていたのであるが(そう、あのリリカさんも世代なんていわれたら経験のない私はど

    kom’s log - 重層性
    Dryad
    Dryad 2007/01/09
    ロスジェネ。世代論以前に、昔からある労働問題のバリエーションだよ、という話。
  • kom’s log - 突然ですがこれすごいです。

    一年ぶりに今日から日。飛行機の中で隣に座っていた女の子の日語がどことなくたどたどしかったし、パーサーとべらべら某ラテン系のことばで話していたので”日系二世”と思っていたら、某地中海沿岸の国在住まではあっていたが、3年しか住んでいないのだそうだ。大学受験関連かねて一時帰国だという。イギリスの大学も受ける予定で、そちらは生化学だ、というので長い話になった。いろいろと質問するので、ラップトップをひろげて説明した。見た目はパーティーな毎日イケイケ、なのだが、実にしっかりと勉強しているようで感心した。さらにうちの研究所の名前まで知っていたので、うむむ、やるなあ、と思った。日の大学ではどこ受けるの?と聞いたら、日では理系は受けない、だってシステムがちがうから入試試験に合わないし、生化学ないでしょ、というので、いやそんなことないといろいろ説明したのだが、結局あのニッポン理系学部の雰囲気がいやみた

    kom’s log - 突然ですがこれすごいです。
  • kom’s log - 現場の枯渇

    教育法改正案は、憲法草案との整合性をチェック済みであるという文科相の発言はあまり不思議な発言ではない。文科相自身、あたりまえのこととして述べたのだろう。このあたりの背景は、こちらのKouさん(秋扇巵言)による力作「教育法改正と公共精神」を読んでいただければ、それが戦後以来の数十年の歴史の中に位置づけられる話しであることがわかるだろう。日教組撲滅などという虚飾は実になまやさしいその場限りのウソで、あたかもそれが重大なことであるかのように論じる教育再生会議や政治家の詐欺師ぶりにはあっけにとられるしかない。 簡単にいえば、国民が体制に盲従することを規定する憲法と、そのことに疑問を抱かない国民を供給するマシーンである教育の両輪だ。このクラシックなシステムがどれだけ日政治家・官僚・財界などのエスタブリッシュメントにとって都合がいいのかは、別に説明するまでもない。のであるが、抽象的な点だけ

    kom’s log - 現場の枯渇
    Dryad
    Dryad 2006/12/06
    『文句も言わずにニコニコと黙って低賃金で働き続けコンパクトな車や電子機器を作り続ける不思議な日本民族というイメージは、今の世界が北朝鮮のマスゲームを眺めるようなイメージに容易にとってかわるだろう』
  • 2006-11-21

    エンジニアのフランス人、J君と茶飲み話をしていた。「最近宮崎駿にはまっている」とのことで、アニメの話をした。なによりもいちばんいいのはポッコ・ロッソだ、というのが彼の意見である(”紅の豚”のことである)。最近見たのは「耳をすませば」(だったかな)だ、というので、ありゃ東京都下のベッドタウンの風景でねえ、などと多摩ニュータウンのあたりの説明や、郊外化問題などの話をした。パリの郊外出身の彼には、この郊外の様子はよくわかるみたいなのだが、多摩丘陵に少々センチメンタルな思いもある私は、いやわかるはずがない、などとワガママいいながら、事細かに説明した。「海が聞こえる」の高知あたりのマッチョ男の話なども続いて雑談は進んだ。 いやそれでさ、おもしろいのはいいんだけど宮崎駿にかぎらず日のアニメに一貫して不満な点がある、という。なんで恋愛がトピックにならんのだ、というのだ。なにー、と思って説明してもらった

    2006-11-21
    Dryad
    Dryad 2006/11/21
    「たぶん日本的には恋愛そのものっておもしろくないって思われているんだよ、もどかしさを楽しむわけ」
  • kom’s log 学校マクドナルド化批判

    このところ、教育法の改定に賛成する人々の意見をあっちこっち見にいっていたのだが、賛成の理由はどうやら”日教組粉砕”らしい。小学生のころにみかけた”ニッキョーソオ、フンサーイ”と、軍歌をバックに怒号するウヨクの黒いトラックの思い出からはや20年以上たつわけであるが、いまだに”ニッキョーソオ、フンサーイ”なわけで、ついにはそれが政治日程に載っている、ということなのである。いやはや時代はかわったものだ。などと目を細めるほど歳をとっているわけではないので、彼らの考え方に関する私のささやかな分析をかきとめておく。簡単なことだ。彼らの頭の中では、目下の教育は以下のような仕組みなのである。 日教組(及びその黒幕である共産党) −> 教師 −>生徒。 これを教育法の改定により次のように変える。 日政府 −> 教師 −>生徒 実にわかりやすい。正しいかどうかはともかく、明快である。要するに教育の大

    kom’s log 学校マクドナルド化批判
    Dryad
    Dryad 2006/11/13
    「今の日本の官僚がデザインしたいと考えているのは、たぶんフランスみたいな自分勝手だらけの社会ではないし、ドイツみたいなローカルな連携がものすごくしっかりした分散システムでもない。より完全な中央集権」
  • 反日映画批評 - kom’s log

    「パッチギ」という映画を観た。青春映画である。青春映画が弱点である私は、高校生が主役になっているだけで評価が5割増しになってしまうのだが、いやー、青春映画はスバラシイ。テーマは青春映画の王道を踏んでいるので、長々と説明する必要はない。京都の男子高校生と、女子高校生が、その属する集団のいさかいを超えて恋をする、という内容。属性の違いはかたや公立高校、かたや朝鮮高校である。朝鮮高校の女の子の兄は高校の番長であり、日人の女を妊娠させ、集団乱闘の中途に生まれた赤ん坊の顔をみて父親としての自覚に目覚める、などといった話も平行しており、典型のゴリ押しであるのだが典型は語り部によって傑作にも陳腐にもなりうる。この映画ではとても成功している。あらすじはこのあたり。属する集団の異なる男女の間の恋は例を挙げるまでもなくどこの文化でもおいしい物語ネタである。ロミオとジュリエットの場合は家族のいさかいが恋愛の障

    反日映画批評 - kom’s log
  • 2006-10-31

    いじめっこはどこに?(狂童日報) あー、そうだな、とだいたい賛同。で、私が思うことなど少々。いじめの撲滅は不可能である。どの人間のなかにもある邪悪さがそれを駆り立てているのであって、人間が正邪の二面性を免れえぬ以上、いじめの撲滅などという目標は絵に描いた、空念仏、空理空論である。これは人間観に関わるのかもしれない。子供であろうが大人であろうが、その中の邪悪な部分は決して振り払うことができない。このように考えず邪悪さをなにやら、来良心に満ちた人間を惑わせるノイズ、のように考えるから撲滅などという発想がでてくる。人間は正邪の二面性をもつ、という観点からすればいじめは犯罪であるという認識が形成されたほうがよい。たとえば、男による女のレイプは生物学的な質かもしれないが、それが犯罪であることと似ている。犯罪である、とするのが人間なのである。 いじめは犯罪であるという規定があれば、いじめなる社会

    2006-10-31
    Dryad
    Dryad 2006/11/01
    「したがっていじめは犯罪であるという認識が形成されたほうがよい。」基本的に同感。この国で道徳を成立させている基盤自体がいじめの温床である以上、道徳では解決できない。基準設定の難しさはあるけど。
  • 2006-10-17

    批判的であらねばならない、という欧州伝家の宝刀である理性を批判するのに「マッチョから逃走」ってのはやっぱりなんか実にシンプルすぎやしないか。というよりも、ルネッサンスは逃走しなかったではないか、とこのあいだメディチ家のばかげたほどに装飾的な内装をながめながら思ったのだった。 シンジツバクロの欲動を認めるか、あるいは否定するかという形で議論をたてると、ちょっと難しいことになる。窃視、ピーピング・トム(死語か。たとえば風呂場をのぞく行為)から他人の日々の記録を日課のようにブラウズすること、マスメディアの報道の確度を検証すること、あるいは顕微鏡を覗く生物学者、天体の表層を望遠鏡でくまなく調べる天文学者まで、”眺める”ないしは”観る”という欲望には際限がない。悟りを開いた行者ならともかくも、観ることの欲望は際限なく下品でありなおかつ否定しようのないベクトルだ。あるいは情報の海に戯れ耽溺すること。

    2006-10-17
  • kom’s log - コンビニエンス国家

    ”死ぬ死ぬ詐欺”という言葉で、海外での難病治療に必要な費用を補填するための募金活動を批判するネット上の活動があるのを最近になって知った。こうした目的をもつ募金活動自体は時々目にするので珍しいこととも思わないが、その募金活動を微に入り細にわたり検証している状況はこれまで私はあまり見たことがない。そんなわけで、あちらこちらざらざらと見てまわった。「募金活動といいつつ過剰にカネをあつめているのではないか」といった批判がある。これすなわち”詐欺”であると称するわけであるが、この批判の根拠として、病人である子供の両親の勤務先がNHKであり高給取りであろうこととか、具体的に治療と予後にかかる費用の吟味、ならびにこれに関連するが募金活動の母体である「さくらちゃんを救う会事務局」の会計明細が公開されていない、といった点が挙げられている。こうした詳細をめぐってあちらこちらで議論が戦わされ、給与推定の確度を互

    kom’s log - コンビニエンス国家
    Dryad
    Dryad 2006/10/16
  • ”志”は理念ではない - kom’s log

    安倍晋三の政策は、日米軍事同盟の実質化、すなわち日がブレア政権下のイギリスのようになることを中心にすえているとを念頭に眺めると実にわかりやすい。この方針は1960年5月に警官とやくざを国会に招き入れて新安保の強行採決をした祖父・岸信介の遺志を直接継ぐものでもあるので、まったく単純明快というか、わかりやすすぎるほどである。具体的には憲法改正を伴う日の軍事立国化が目標となる。その片翼として教育法の改正が重要な目標として掲げられているのは周知のとうり。06年9月29日付の所信表明演説(デファクト施政方針演説)では次の部分だ。 私が目指す「美しい国、日」を実現するためには、次代を背負って立つ子どもや若者の育成が不可欠です。ところが、近年、子どものモラルや学ぶ意欲が低下しており、子どもを取り巻く家庭や地域の教育力の低下も指摘されています。 教育の目的は、志ある国民を育て、品格ある国家、社会

    ”志”は理念ではない - kom’s log
    Dryad
    Dryad 2006/10/04
    「教育基本法を改正する話ではなく、学校教育法改正等で充当可能な行政的な話である。」実効的にはそういう事だと思う。それでもなお「基本法」の方を変えたがるのは・・・?