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2006年11月27日 「善意」を「偽善」であると否定しても水掛け論 最近の話だと、「しぬしぬ詐欺」(さくらちゃん臓器移植募金の話)や「ぬれ煎餅話」(資金難で電車の修理代の資金調達の為の話)、ネット上の話で「Yahoo!ブログの転載問題」(今回は自殺予告問題)などに伴って「善意」や「偽善」なども一緒になって記事になっていたりする。 興味があれば、いくらでもそのような記事に出会う事が出来るだろうから、関連記事は下のほうで適当に拾っておくだけとする。 最初に俺の募金や転載に関するスタンスを言っておくと、特定の誰か(何か)を救うための街頭募金などについては、募金する側は自己満足の割合が多いと思っているし、転載問題にしても、リンクで済むところを全文コピーして(Yahoo!内では転載元はデフォルトで許可状態になっているのだが)、同じ内容の記事がいくつも増えるのは無駄だし、邪魔なだけだと思っている。
北朝鮮ではSUVが流行 "一方、党幹部は党から支給された「メルセデスベンツ」に乗り、一般住民とは差別化されたカーライフをエンジョイしているようです。 " http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/10/17/20061017000002.html 北朝鮮が崩壊した場合に、我々の税金で、北朝鮮幹部のベンツのガソリン代と、北朝鮮国民の飯代を支払わなければいけないのかと思うと惨憺たる思い。 "メモリ2GB積んでると言って自慢扱いされたかわいそうな絵描きさん" http://d.hatena.ne.jp/kanose/20061015/memoryillustrator 実は、Mac512をみんなが使っていて、ギガバイトなんて嘘だッ!と思われたとか… "個人ニュースサイトがソーシャルブックマークに駆逐されるような日" 個人ニュースサイトが
書かないまま忘れるー、というのが最近非常に多いので、雑だけど思ったことだけ書いておきます。 23mmはてな日記 : 「なぜ人を殺してはいけないのか?」を素朴な論理を使って考えてみる。 誰かが他の誰かを殺すとき、それは僕の(または「人間」の)原始的な恐怖を呼び起こすんだと思うのです。誰かが殺されたということと、自分が殺されるということを重ね合わせてしまうというか。誰かが殺されることを肯定することは、自分が殺されることをも肯定してしまうと感じてしまって、許すことができないと思ってしまう。 だから、「人を殺してはいけない」ということの一番の根本の部分には、「俺を殺さないでくれ」という素朴な感情があるんだと僕は考えます。言い換えると、これはすごく利己的な論理なんですね。倫理とか宗教とか法律などを持ち出したり、社会を維持しなくちゃいけないからとかなんとか言ったり、そういうのは間違いではないけれども、
昨晩「作らせ隊」のひとがお見えになりました(昨日のコメント参照)。「ゲーム開催」記事や、その前の「みんな同じ人」記事も読まれたようです。こりゃ中止かなぁ。自分なら、知らないフリして週末にやって来て、そこでなんか仕掛けるところですが。 あんまりつまらない書き込みが続くようなら、そろそろお引き取り願うかなぁとも思ってます。 という結論に達しました。 うちのブログのコメント欄に来てうにょうにょ言い続けてるひと、と、自分のブログでうにょうにょ言い続けてるぼく、は、まさしく相似形なんだって合点がいった。つまり、なーんか反シャカイ的?っぽいことをぶちぶち言い続けてるようなうちのブログなんかは、世間様に「荒らし認定」されている、と、そういうわけなんだなぁって思った。だから「荒らしヤメロ」って人が現れ続けるのね。 (まぁあの程度のを「荒らし」とは言わないと思うけど、便宜上ここでは)「荒らし」の人は、どうい
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