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南蛮に関するGeheimagentのブックマーク (19)

  • プルシアンブルー

    ここ最近、プルシアンブルーが俄然盛り上がっている。おそらく現在確認される日で最初の使用例がかの若冲だったことが判明したことや、「皇室の名宝―日美の華」展(東京国立博物館、2009年)などの展覧会がきっかけとなったのではなかろうか。ついこの間までグーグルで検索してもほとんどヒットしなかったのが、今や各種報告、新聞記事、ブログなどなど、まさに百花繚乱で、まことに喜ばしい。 プルシアンブルーは、18世紀ヨーロッパで人工合成された青色顔料で、別名ベルリンブルー。同世紀中には江戸時代の日に長崎経由で輸入・紹介され、「紺青」「ベロ」「ヘレンス」(ベルリンの訛)などの名で呼ばれ、はじめ洋風画に用いられたが、文政12年(1829)頃以降は、北斎や広重の浮世絵に多く用いられるなど、幅広く普及した。日文化の象徴的存在として、もはや国際的にも広く知られる北斎・広重の「浮世絵の青」が、実は「西洋の青」であ

    プルシアンブルー
    Geheimagent
    Geheimagent 2014/07/23
    日本の青が西洋の青かもしれない、というお話。平岡さんのブログより。
  • 平岡隆二 『南蛮系宇宙論の原典的研究』を語る! (2013.4.27)

    平岡隆二さん(熊県立大学)に新著『南蛮系宇宙論の原典的研究』(花書院、2013年)について語ってもらいました。の注文は以下のサイトから行うことができます:http://hiraokaryuji.wix.com/nambankei

    平岡隆二 『南蛮系宇宙論の原典的研究』を語る! (2013.4.27)
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    Geheimagent 2013/04/27
    『南蛮系宇宙論の原典的研究』について
  • キリスト教禁制後の日本人知識人と南蛮系宇宙論:平岡隆二「『南蛮運気論』の流布と受容」(2013) - Blog: Hiro Fujimoto

    日、とうとうゲットしました!各所で話題沸騰中の、平岡さんの新刊『南蛮系宇宙論の原典的研究』を!ぱらぱらとみてみたのですが、これはもう素晴らしいの一言につきますね。日側の史料だけでなく、欧州の史料も渉猟し、キリシタン時代の宇宙論を総合的に描き出そうとするこの試みは、江戸時代科学史にとっても、初期近代ヨーロッパの思想史にとっても間違いなく大きなインパクトを与えるものだと思います。 書の前半部は思想史的な手法で南蛮系宇宙論の精読を、後半部は文献学的な手法でそういったテクストの流通を分析しており、いやぁ、なんでこんなにも器用に分析できるのかと。ホント、すごいですね。同じ江戸時代の科学史(僕は医学史ですが)を志すものとして、僕もいつかこのような研究書を書いてみたいものです(笑)。なお、石版さんのブログで既に前半部の論文(こちらの初出となった論文ですが)が紹介されていますので、以下では後半部の章

    キリスト教禁制後の日本人知識人と南蛮系宇宙論:平岡隆二「『南蛮運気論』の流布と受容」(2013) - Blog: Hiro Fujimoto
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    Geheimagent 2013/04/18
    届いたけどまだ読めてません
  • 天草における初期キリスト教布教史7 - kumamoto note

    第2に、天草コレジオは、西洋人による日語研究の成果がはじめて格的に出版された場でもあった。キリシタン時代の日人にとって、はじめて出会う西洋の言語や学術を理解することが困難であったのと同様に、当時来日した西洋人にとっても、日人の話す言葉やものの考え方を理解することは、著しく困難なことであった。元亀2年(1571)に天草氏に洗礼を授けたフランシスコ・カブラルは、宣教師にとって日語習得が大変困難であることを、強く指摘していた。 文法を学び、また学習することによって、それほど容易に[キリスト教を]教えられると思っているのは、日語を知らないからである。なぜなら、才能ある者でも告解を聴けるようになるのは少なくとも6年はかかり、キリスト教徒に説教することができるには15年以上を要する。異教徒に対する来の説教などはまったく考えられないことである*1。(1595年11月23日付、ゴア発信書簡)

    天草における初期キリスト教布教史7 - kumamoto note
  • 天草における初期キリスト教布教史5 - kumamoto note

    天草のコレジオとキリシタン版 コレジオは、イエズス会が次世代の日布教を担う司祭(神父)や修道士を養成するために設置した高等教育機関で、天正9年(1581)に豊後府内(現・大分県大分市)に創設された後、各地の戦乱等を避ける形で、山口、生月(長崎県平戸市)、長崎、千々石(同県雲仙市)、有家(同南島原市)、加津佐(同)と移転を繰り返し、天正19年(1591)に、対岸の天草・河内浦に移転された*1。 コレジオでは日人や外国人の神父予備生に対して、キリスト教信仰の基礎となるラテン語や哲学、科学といった西洋の学問が教えられただけでなく、信徒への説教や僧侶との討論のために必要な日語・日文学の知識、また仏教の素養なども教授された。またコレジオは、各地のレジデンシアをその管轄下に置く、天草教界の布教拠点でもあった。1596年のイエズス会年報では、修道士たちの学習の様子や、またコレジオが管轄する近隣の

    天草における初期キリスト教布教史5 - kumamoto note
  • 天草における初期キリスト教布教史4 - kumamoto note

    1−2.小西行長の入国とコレジオの活動 1589〜1600 天正天草合戦(1589年)と小西行長の入国 天正17年(1589)に起こった天正の天草合戦は、その頃天下統一を推し進めていた豊臣秀吉に対して、天草五人衆が反抗して立ち上がったものである。その鎮圧には、秀吉から天草を含む肥後国南半分の統治を命じられていた小西行長(1558?- 1600)と、北半分の統治を命じられた加藤清正(1562-1611)があたった。その結果、同年11月には行長・清正両軍により一揆は制圧され、天草全島は名実ともに行長のもとに服属するにいたった*1。 以上のような政治的混乱にも関わらず、イエズス会の天草布教はその後も隆盛を維持する。それは行長自身がアゴスチイノの洗礼名を持つキリシタンであり、またその家臣として天草支配に当たった志岐城代の日比屋了荷(兵右衛門。1554-?)も、ヴィセンテの洗礼名を持つキリシタンであ

    天草における初期キリスト教布教史4 - kumamoto note
  • 天草における初期キリスト教布教史3 - kumamoto note

    レジデンシアと信仰の広がり この時期の天草で成立した重要な布教施設にレジデンシア(住院)がある。これはイエズス会が布教地の各所に設けた、宣教師が定住できる施設のことで、周辺に付属の聖堂や教会を持つことで、ミサを挙げたり秘蹟を授けたりする場を提供した。 天草のレジデンシアは、はじめ志岐に設けられたが、伝道の拡大にともなって河内浦や渡にも設置され、キリシタンの信仰生活の拠点となった。とくに1580年代から90年代にかけてレジデンシアが設置された地域には、久玉、佐伊津、大矢野、栖、上津浦の多数を数えることができ、天草諸島のほぼ全域に設置されたことになる。それらが管理する信徒数も年を追って増加したようで、イエズス会の調査では、 天正8年(1580): 9千〜1万1千人(天草氏領8千〜1万、志岐1千) 天正11年(1583): 1万6千人(天草1万5千、志岐1千) 文禄元年(1592): 2万3

    天草における初期キリスト教布教史3 - kumamoto note
  • 天草における初期キリスト教布教史2 - kumamoto note

    羊角湾への伝来 ほどなくして、天草五人衆のうち羊角湾奥の河内浦を居城とする天草氏も交易を望み、その結果、永禄12年(1569)、イエズス会のルイス・デ・アルメイダ(Luis de Almeida, 1525?-1583)による布教が開始された。 アルメイダは、当時九州各地を巡回布教して大きな成果を挙げた宣教師だった。フロイス『日史』によると、彼は河内浦開教にあたって、当主・天草鎮尚(しげひさ)(生没年不明)に以下のような条件を示した。すなわち、当主自らが説教を聞き、教えが立派であると思ったら子息の1人に洗礼を受けさせ、キリシタンたちがその人物を頭目に頂くこと、また適当な土地を提供して教会を建てること、など。そしてそれが受け入れられて初めて説教を開始したという*1。さらにフロイスによると、天草氏は将来の南蛮貿易を見越して、河内浦にほど近い崎津港にアルメイダを案内していた。その内容は、崎津に

    天草における初期キリスト教布教史2 - kumamoto note
  • 天草における初期キリスト教布教史1 - kumamoto note

    ご縁があって、天草四郎を輩出した天草のキリシタン史について書かせて頂くことになったので、随時公開してゆく。 より大きな地図で 天草キリシタン地図 を表示 はじめに天草下島の羊角湾口に位置する崎津・今富地区と、湾奧の河内浦(現・河浦地区)は、キリシタン布教の一大中心地であっただけでなく、日欧の交流史上においても特筆すべき異文化の接触と受容が行われた。以下では、初期布教時代の天草キリシタンについて、その主たる情報源である西洋側の史料(ポルトガル語、スペイン語、イタリア語、ラテン語)に基づいて紹介する。第1節では、羊角湾域を中心に天草教界の成立と展開について概観し、また河内浦に設置されたコレジオが日欧文化交流史上に果たした役割について取り上げる。また第2節では、天草に現存するキリシタン遺物とその関連文献を紹介し、後の潜伏期への信仰の継承を理解する上での一助としたい。 1.天草キリシタンの成立と展

    天草における初期キリスト教布教史1 - kumamoto note
    Geheimagent
    Geheimagent 2013/03/15
    つづきがたのしみ
  • 平岡隆二 「イエズス会の日本布教戦略と宇宙論 好奇と理性、デウスの存在証明、パライソの場所」

    平岡隆二さんの名前を初めて知ったのは『ミクロコスモス』に収録されている「画家コペルニクスと「宇宙のシンメトリア」の概念 ルネサンスの芸術理論と宇宙論のはざまで」という論文を読んでからでした。現在、平岡さんは長崎歴史文化博物館の主任研究員をされており、研究領域は「欧・日・中を中心とする東西交流の観点から見た科学と思想の歴史」とあります。最近になって南蛮芸術に興味を持ちはじめたのはこの研究業績に触れたからでもあります。日は平岡さんの論文「イエズス会の日布教戦略と宇宙論 好奇と理性、デウスの存在証明、パライソの場所」(書誌情報やダウンロードはこちら)を読んだのでそのご紹介(なお、さん付けで呼んでいますが面識はありません)。もうタイトルからして面白そうな雰囲気が漂っていてすごいですね。 十六世紀後半にイエズス会宣教師が来日し、熱心に布教をおこなったこと、その中心人物としてフランシスコ・ザビエル

    平岡隆二 「イエズス会の日本布教戦略と宇宙論 好奇と理性、デウスの存在証明、パライソの場所」
    Geheimagent
    Geheimagent 2013/02/01
    平岡さんの論文。平岡さんは今年著書を出される予定ありだそう。この記事はとても上手く書けてる気がするな。
  • 平岡隆二 「ゴメス『天球論』の成立と構成: イエズス会日本コレジオの宇宙論教科書とその欧文原典」

    が西洋と接触を持ち始め、格的に西洋の文化が流入しだした頃のインテレクチュアル・ヒストリーを研究しておられる平岡隆二さんの論文を読みました。平岡さんのお仕事については以前にもご紹介させていただいています。平岡さんは、今年度から熊県立大学のほうに移られており、ブログもそれにともない(?)移転されています(さっき知った。そして、神戸市立博物館での南蛮美術展について書かれているのが目に入って、読み逃してた! とショックを受けていた)。南蛮モノの文化に興味がある方には、目が離せないブログでしょう。 この論文の内容は、西洋の自然科学をまとまった形で日に伝えた最初の書物であるペドロ・ゴメスの『天球論』がどのように書かれたのか、そしてその特徴とは、を明らかにするものです。このはイエズス会の宣教師たちが日で教科書として使っていたものでした。16世紀の後半にやってきたイエズス会宣教師がなぜ、日

    Geheimagent
    Geheimagent 2013/02/01
    平岡さんの論文。
  • ぎやどぺかどる | 教文館出版部

    長崎のコレジヨで訳出され、迫害時代にも読み継がれた16世紀カトリックを代表する信仰修養書。『節用集』に匹敵する詳細難語解字表を付し、豊富で流麗な漢字表現を織り交ぜたキリシタン文学の白眉とされる書を精密な校訂で再現。 *当店では過去に入荷したすべての商品のデータを掲載しています。現在店頭に在庫があるとは限りません。在庫の有無については、オンラインショップ「イーショップ教文館」に比較的正確に掲載しています。「購入サイトへ」ボタンからご確認いただくか、「問い合わせる」ボタンからフォームで実店舗に直接在庫をお問い合わせ下さい。 *「発売年月」については出版社の案内に基づいて表記しています。発売日は予告なく変更、遅延することがございます。予めご了承下さい。

    ぎやどぺかどる | 教文館出版部
  • Amazon.co.jp: 支倉六右衛門常長―慶長遣欧使節を巡る学際的研究: 大泉光一: 本

  • 岡本 良知: books, biography, latest update

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    岡本 良知: books, biography, latest update
    Geheimagent
    Geheimagent 2012/05/21
    気になる…が高価な本が多い
  • 池 長 孟

    神戸、兵庫区生まれ。池長通の養子。 私立育英商業の校長をつとめ、その間南蛮美術の収集に家財を傾けた。 昭和15年池長美術館を設立。戦後、建物と収蔵品を神戸市に寄贈。市立南蛮美術館の祖。 「おはら庄助さんは、朝寝朝酒朝風呂が大好きで、身上潰したらしいが、わたしは南蛮紅毛絵に惚れ込んで、エキゾッチクに浮き身をついやし、それで身代限りをした」 (自著) この大金持ちの若旦那は “コウベの宝” を残した。 神戸市葺合区熊野町の神戸南蛮美術館。現在四千五百点を納めてある。重要文化財 『織田信長像』 『泰西王侯騎馬図屏風』 重要美術品 『ザビエル像』 平賀源内の西洋婦人像、司馬江漢、丸山応挙らの作品など。 「南蛮美術といえば、南洋の土人の絵だと思いやがる」 生前、池長はこういって、歯ぎしりしていたが、南蛮美術は西洋人の作品でもない。日人が欧米文化の影響のもとで描いた作品なのである。すなわち 「欧米の

  • 開館50周年記念「美を結ぶ。美をひらく。」Ⅳ 南蛮美術の光と影 泰西王侯騎馬図屏風の謎 展覧会 サントリー美術館 サントリー

    16世紀半ばから17世紀初頭にかけて、ポルトガルやスペインからいわゆる南蛮船が来航し、西欧の地や、中継の港で荷積みされた貴重な文物を日にもたらします。また南蛮船に乗船した宣教師がキリスト教を日に伝え、いわゆる南蛮美術や文化が花開きました。 南蛮美術の中でも重要文化財「泰西王侯騎馬図屏風」は、桃山時代から江戸時代初期の初期洋風画の傑作として世に知られています。神戸市立博物館とサントリー美術館が分蔵するこの屏風は、もとは福島・会津城の障壁画であったと伝えられてきました。描いたのは、イエズス会の神学校であるセミナリオにおいてキリスト教とともに西洋画法を学んだ日人の絵師と推定されています。その画面描写には、当時の西欧の画家たちが身につけていた遠近法や陰影法を、積極的に学んだ跡が見受けられます。しかし、この屏風の制作の経緯については、今もなお、大いなる謎が残されているといってよいでしょう。

  • 長崎の歴史 南蛮/キリシタン 蘭学:平岡隆二のホームページ

    Geheimagent
    Geheimagent 2011/06/21
    南蛮を調べるなら、やはり平岡氏の仕事に触れなければ、
  • 個人:南蛮屏風(世界図・日本図)

    Geheimagent
    Geheimagent 2011/06/19
    日本図・世界図(福井)
  • 神戸市立博物館:名品撰

    むかって左からリスボン、セビリア、ローマ、イスタンブール(コンスタンティノープル)の四つの都市、上部に高貴な階層の男女、王侯騎馬図を配する屏風と、装飾性をもりこんだ世界地図の屏風とが一対となる。両図は、来日した西洋人の指導のもと、キリスト教の布教活動に必要な聖画を制作した工房か、その画系を引く絵師によって描かれた可能性が強いが、1937~1938年のスペイン内戦時に市場に出、日へ里帰りしたと伝えられることから、作品の伝歴が明らかでない。都市や上部の風俗図、世界地図中の北アメリカの部分に、褐色、緑、青と色相を変えて奥行をあらわす図式的な色彩遠近法が用いられ、西洋画法の受容を示す。モチーフとなった原図は「泰西王侯騎馬図」の場合と同じく、江戸時代初期に輸入されたブラウの1606年版を1609年に改訂した大型世界地図と考えられている。世界地図中、金泥による諸都市の表現のうちローマがひときわ大きい

    Geheimagent
    Geheimagent 2011/06/19
    四都図・世界図(神戸)
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