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あとで考えるに関するHi-Fiのブックマーク (6)

  • 「生徒どうしで」「歴史総合」「公共」 高校の学習が変わる | NHKニュース

    おおむね10年に一度改訂される高校の学習指導要領の案が公表されました。思考力などを高めるため生徒どうしで話し合う「アクティブ・ラーニング」と呼ばれる学習方法が、すべての教科で導入されるほか、社会では日と世界の近現代史を学ぶ「歴史総合」という新たな必修科目が設けられるなど学ぶ内容が大きく見直されます。 地理歴史では、これまで必修科目だった「世界史」が廃止され、日と世界の近現代史を中心に学ぶ「歴史総合」が、新たに必修科目となります。 また公民では、社会の構成員として自立することを目指す「公共」という新たな必修科目が設けられます。 今回の改訂では、教師が一方的に教えず、生徒どうしが議論や調べ学習などを通じて思考力や判断力を養う「アクティブ・ラーニング」と呼ばれる学習方法がすべての教科で導入されます。文部科学省は、知識の暗記に偏りがちだった高校教育を転換し、生徒の「考える力」を高めることが狙い

    「生徒どうしで」「歴史総合」「公共」 高校の学習が変わる | NHKニュース
    Hi-Fi
    Hi-Fi 2018/02/15
    読んでないけどこれ絶対ダメな気がします。
  • 朝日新聞天声人語のコラムがニッポン複雑紀行の記事とよく似ていることについて - 望月優大のブログ

    こんにちは。日の移民文化・移民事情を伝えるウェブマガジン「ニッポン複雑紀行」編集長の望月優大です。 やや物騒なタイトルの記事をアップしてしまい恐縮です。一つの問題提起をするためにこの記事を書いています。このあと概要を説明しますので読んでいただけたらと思います。 ・ ・ ニッポン複雑紀行は昨年12月に難民支援協会と共に立ち上げたウェブマガジンで、その第一弾記事として、12月6日に前新大久保駅長の阿部さんへのインタビュー記事を掲載しました。取材を行ったのは2017年の9月です。 外国人が多いことで知られる新大久保の駅長として、阿部さんが日語学校の学生さんたちと協力して20ヶ国以上の多言語アナウンスを導入したというストーリー。阿部さん自身が青森県の出身で、青森弁を聞きに上野駅に行った経験があるということがこうした取り組みのベースになっており、SNSを中心に共感が大きく広がった結果とても多くの

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  • 元セクキャバ嬢の体験から考える「繋がり」への支援

    @miimusik8 セクキャバの話をするか。私は一店で体験入店だけして、もう一店はしばらく働いた。セクキャバは話術や客を引っ張る技術が普通のキャバほど必要ないので、全体的に意識低い子が多かった。私はそこが気に入ってた。意識高いキャバ嬢は出来なかったと思う。話だけで間を持たせる自信はなかった。 2011-03-06 21:21:30 @miimusik8 働いてる子はいろいろ。自傷の痕が腕に残る子は私だけじゃなかった。メンヘラトークできる子も多かったし。あとはシングルマザーとか、旦那のDVから逃れて自立するため働かないと!って子も数人。バンギャで費用稼ぐって子もいた。セックスワークに誇りを持ってると言い切れるような子は居なかった。 2011-03-06 21:25:17 @miimusik8 たまたまだったのか分からないけど、私のいた店には暴力に曝されるのが日常になってる子も多かった。彼氏

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  • ど〜でもい〜日記 : 南相馬市の実情

    2011年03月21日23:45 カテゴリ 南相馬市の実情 いろいろなご批判やご意見もあるかと思いますが... 3/21、南相馬市にある避難所(原町第一小学校)に、わずかではありますが品や飲料の支援物資を自主的に届けてきました。 福島第一原発から半径30km内の自主避難区域(屋内退避)のエリアにある南相馬市の病院や避難所には、放射能汚染を恐れて物資が搬入されてこないという情報を聞き、前日深夜に神奈川の実家のプリウスで出発しました。 (燃費がいいので向こうで給油しなくても帰って来れる) 原発の30kmラインギリギリを走りながら、昼12時頃南相馬市に着きました。 すでに70〜80%の住民が避難している町に人の気配は無いのですが、電気、水道、ガスのライフラインは復旧しているので、信号機だけが律儀に点灯しています。 小学校の校庭に満杯の自家用車が停まっていましたが、体育館には20〜3

  • 継続的に対話する主観 - アンカテ

    「エジプトで起きたことはfacebook革命だ」「いやあれは単なる軍のクーデターだ」「いや両方の要素が混じっている」という三人がえんえんと果てしない議論をするとしたら、その三人は「どこかに客観的な真実というものがある」という点において合意している。 「客観的」ということには二つの意味があって、ひとつは「誰が見ても同じ結果になる」ということで、もう一つは「それについて言及する際に私は自分について何かを語りたくない」ということだ。 実際には、「誰が見ても」と言う時、その中の「誰でも」には「特定の世界観に合意し、一定の訓練を受けた者なら誰でも」という暗黙の前提がある。そこをはしょって「誰が見ても」と言うなら、「それは自明のことで、誰でも受け入れるべきことである」と、自分の価値観や世界観を主張しているということだ。当は自分について語ることを拒否して何かに言及することはできない。 客観性というもの

    Hi-Fi
    Hi-Fi 2011/02/24
    オレの世界の大きさはどれほどか
  • 押井守の「映画的とは何か」: シンジの“ほにゃらら”賛歌

    映画っていうのは引用でしか成立しないし、映画独自が生み出したピースっていうか、要素はいまだにないと思ってる。ある種の写真的なレイアウトの価値とか、演劇的な役者の力とか、言葉の力とか、音楽とか、自分のジャンルじゃない「映画の外側」から全部輸入し続けているんだからさ。映画が独自の価値を生み出したなんてこと、ただのいっぺんもないよ。 もしあるとすれば、それは「映画的である」という漠然としたものだよね。だから僕は「映画的なるものの質というのは何なんだ」ということ、それだけを追求してる。それが極められれば、たぶん映画は変わるだろうし。 それをやった男が僕の知る限り一人だけいるんだよ。それがジャン=リュック・ゴダールなの。彼もまた引用魔だからね。彼はベートーベンを引用し、モーツァルトを引用し、ときにはバッハも引用し、膨大な言葉を引用し、もちろん役者も引用し、政治的言語まで全部引用した。もちろん意図的

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