エントリーの編集
![loading...](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/common/loading@2x.gif)
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
押井守の「映画的とは何か」: シンジの“ほにゃらら”賛歌
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
![アプリのスクリーンショット](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/entry/app-screenshot.png)
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
押井守の「映画的とは何か」: シンジの“ほにゃらら”賛歌
映画っていうのは引用でしか成立しないし、映画独自が生み出したピースっていうか、要素はいまだにない... 映画っていうのは引用でしか成立しないし、映画独自が生み出したピースっていうか、要素はいまだにないと思ってる。ある種の写真的なレイアウトの価値とか、演劇的な役者の力とか、言葉の力とか、音楽とか、自分のジャンルじゃない「映画の外側」から全部輸入し続けているんだからさ。映画が独自の価値を生み出したなんてこと、ただのいっぺんもないよ。 もしあるとすれば、それは「映画的である」という漠然としたものだよね。だから僕は「映画的なるものの本質というのは何なんだ」ということ、それだけを追求してる。それが極められれば、たぶん映画は変わるだろうし。 それをやった男が僕の知る限り一人だけいるんだよ。それがジャン=リュック・ゴダールなの。彼もまた引用魔だからね。彼はベートーベンを引用し、モーツァルトを引用し、ときにはバッハも引用し、膨大な言葉を引用し、もちろん役者も引用し、政治的言語まで全部引用した。もちろん意図的