この頃「大阪で一番喧嘩が強い」と呼ばれたのが、浪華商業高校の野球部で名を馳せていた張本勲(現・野球解説者)だった。梅田の駅前で浪商の生徒を見かけると「おい、張本はおれへんのか」と片っ端から声をかけた。
WBCの歓喜から1カ月余りが経過した。 この間もロサンゼルス・エンゼルスの大谷翔平投手らの活躍が、連日、テレビの情報番組を賑わせ、まだまだあの熱狂の余韻をファンは楽しむ日々が続いている。 その一方で、大会後になかなか状態が上がらなかったり、故障で戦線離脱して苦しんでいる選手がいるのも事実だ。 ヤクルト・村上宗隆内野手は開幕後もスランプが続き、4月終了時点で1割5分7厘という低打率に喘ぎ、本塁打もまだ2本という現状にある。またDeNAの牧秀悟内野手も打率2割3分5厘の3本塁打と本来の力からするとかなり低い成績に低迷し、投手でも日本ハムの伊藤大海投手は5月2日に開幕5試合目で初白星をマークしたが、防御率4.71と振るわない。 さらに心配なのは今回のWBCに出場したメンバーで、すでに5人が故障やコンディション不良で戦線を離脱しているという事実である。大会中に右手小指を骨折した西武・源田壮亮内野手
スライダー。これまで主体としていたのは侍ジャパンの壮行試合(対中日)で自己最速を1km更新した最速165kmの直球と、最速150kmのフォーク。現時点でもスライダーは第3の球種に変わりはないが、その質は大きく変わった。 投球の幅を広げる――。WBCだけでなく、1年間先発ローテーションを守ってチームの優勝に貢献するために、精度を高めることが必要だと感じた球種がスライダーだった。これまでは、吉井理人監督が米大リーグ時代に得た知見をもとにした助言も参考に、昨秋以降、春季キャンプを通じて取り組んできた。さらに侍ジャパン合流後はダルビッシュ有投手(パドレス)から投げる感覚や握り方などを学んだ「ダル直伝スライダー」も試投。2月17日に始まった宮崎強化合宿から、優勝の喜びを味わった米国まで続いた約1カ月間の“ダル塾”が実りとなった。
「日本に勝つ確率? 0.1パーセントだよ」 今から19年前、アテネ五輪前に取材したFIBS(イタリア野球ソフトボール連盟)のマッシモ・フォーキ副会長は、戦う前から半ば諦め顔だった。五輪初戦での対戦が決まっていた日本は「逆立ちしても勝てない大国だ」。 同時に取材した代表投手2人も、日本野球への畏敬の言葉を率直に並べた。 「打者のスイングが素晴らしい。印象的なのはヒッティングした後の走塁動作だ。一歩目へのスピードがものすごく速い」 「投手陣も含めてだけど、日本のチームは試合の“流れ”をコントロールできるところが恐ろしい。のんびりやっていたかと思うと、局面でいきなり攻撃と守備の強度を上げてくる。試合のリズムの変化に自分たちは対応できない」 当時の代表はそのほとんどが、サッカーや他の競技同様「セリエA」と呼ばれる国内1部リーグの選手たちで編成されていた。ロースター中、北米組は数えるほどしかいなかっ
今季をもってついに引退した白濱裕太は、キャリア平均が8年にも満たないプロ野球の世界で19年生き続けた。同一球団で20年近く在籍すれば引退試合や引退会見が開かれるものだが、戦力外通告を受けての囲み取材のみ。歩んできたプロ野球人生のように、静かな幕引きだった。 2003年、地元広陵高で3年春に西村健太朗(元巨人)とのバッテリーで全国優勝を成し遂げ、ドラフト1位で広島に入団した。大きな期待を背負いながらも、度重なるケガで大きく出遅れた。一軍初昇格は2011年、8年目のシーズンだった。 当時の広島捕手には、石原慶幸、倉義和の二枚看板がいた。双璧を崩すことは容易ではない。一軍初出場も、石原の負傷離脱によって得たものだった。 2012年には35試合、2014年には30試合に出場した。着実に力を付けていた守備力は当時から認められていた。 ただ、大きな課題であり続けた打力を上げられず、ポジションを奪えなか
2023年に開業する「エスコンフィールド北海道」のファウルゾーンの一部が規定を満たさず狭くなっている問題で、日本ハムは11月14日の12球団代表者会議で非を認めて謝罪し、2023年オフから基準を満たすため2年がかりで改修工事を行う計画案を提示した。代表者会議ではこれを了承、来季はファウルゾーンが狭いままで公式戦を実施することを承認した。 これでようやく日本ハムは規格外の新球場で来年の開業を迎え、公式戦を行うことができるようになったわけである。 いわゆる大人の解決というヤツだった。 改めてこの問題を整理したい。 根本にあるのは日本ハムの明確な公認野球規則への違反だった。スポーツはルールで成り立っている。そのルールで決められた規定に反する球場を作り、公式戦で使おうとしたのだから問題は大きい。ここをすっ飛ばして、いきなり球場の規定への疑義や、ファンサービスに問題を転嫁するのはあまり論理的ではない
スワローズの村上宗隆が9月9日に53号本塁打を放ち、1963年の野村克也、1985年の落合博満を超えた。発売中のNumber1058・1059号「落合博満と野村克也」特集では、落合の3度の三冠王のなかでも出色のシーズン、1985年を関係者の証言で振り返る「落合博満は1985年が最も美しい」を掲載。打率.367、52本塁打、146打点と文句なしの成績を挙げた大打者の秘話を、誌面の一部を抜粋して紹介する(全2回の1回目/#2へ)。 ◆◆◆ <落合自身2度目の三冠王は、シーズン前に宣言した上で成し遂げ、歴代延べ11人の達成者の中でも際立った数字を残した。当時の仲間、敵チームの司令塔の言葉から無双のシーズンを振り返る。> ■落合博満、3度の三冠王シーズン 1982年 三冠王 打率.325/本塁打32/打点99 1985年 三冠王 打率.367/本塁打52/打点146 1986年 三冠王 打率.36
お店の扉を開けると、香ばしくてしあわせな香りがフワっと鼻の奥に飛び込んでくる。そして優しい笑顔で出迎えてくれるのが、懐かしの近鉄バファローズ、最後のV戦士だった川口憲史さん(45)だ。 球界再編後は分配ドラフトにて楽天イーグルスへ。そして2010年シーズン限りで引退。その後は生まれ故郷の福岡に戻って、現在はパン屋を営んでいる。 福岡市の西端。西九州道の真下を通る今宿バイパスから一本脇道に入ったところに「パンandベーグル hands hands(ハンズハンズ)」はある。店舗を構えたのが12年4月だから、まもなく丸10年を迎える。いつの頃からか福岡市内で評判の名店の一つに数えられるようになった。 「ちょうど近鉄でプレーした期間と同じになりましたね」 現役時代の一番の思い出と語るのはやはり、今も野球ファンの脳裏にこびりつく01年のパ・リーグ優勝決定試合だ。 “いてまえ打線”の7番。「モットーは
その瞬間、スタジオ内は爆笑に包まれ、赤星以外の6選手の顔写真が、一瞬にしてカラーからモノクロへと変わっていく――。2020(令和2)年4月23日オンエアのテレビ朝日系『アメトーーク!』の一場面だ。この日は、「ありがとうノムさん芸人」と題して、野村克也追悼企画が放送されていた。この放送から1年以上が経過した今、番組内でも紹介された高波が苦笑いを浮かべる。 「僕と赤星だけが5秒台で、あとは6秒フラット前後だった」 「今でもF1セブンを取り上げていただけるのはありがたいし、嬉しいですよ。野村さんが亡くなられて、『アメトーーク!』でも紹介されました。陣内さんにはディスられたけど、僕らも速かったんですよ。確かに赤星は頭抜けていたし、誰も彼には勝てなかったけど、赤星だけカラーで、僕らを白黒写真にすることはないのにね(苦笑)」 01年春のキャンプで突然誕生した「F1セブン」は、その年のオフ、野村の退陣と
物語の説明は省かせていただくとして、劇中、主演の長瀬智也(以下、出演者の敬称略)演じる観山寿一こと、プロレスラーのブリザード寿(途中から覆面レスラーの「スーパー世阿弥マシン」へと変身)のアクションシーンがすこぶる評判が良い。 あまりに違和感がないため、プロレスシーンは本職の吹き替えを使っていると思われていたが、これが「吹き替えなし」というから驚いた。人気タレントにケガでもあったら、あまりに痛手。リスクも大きいはずだが、長瀬本人の希望もあり、すべてのプロレスシーンを本人が演じているのだそうだ。 プロレスを指導する勝村周一朗って? 第1話の劇中、寿一の回想シーンにて、幼少期の寿一をヒザに乗せつつプロレス中継(アントニオ猪木vs.ブルーザー・ブロディ)を眺める父・寿三郎(西田敏行)が口にする「プロレスっていいなぁ、寿一。反則しても、血が流れても、なんか節度があって、品があっていい」というセリフは
昨年のペナントレース、「横浜・佐野恵太、首位打者獲得」ほど驚いたことはない。 2019年は89試合ながら打率.295。クリーンアップに座ることも多く、大ブレークの兆候はあったものの、まさか一気に打率.328、20ホーマー、セ・リーグの首位打者に輝くとは……。 昨年の「佐野恵太」を見ていると、いつも打っていた――そんな印象が強い。特にシーズン後半は、佐野選手がスイングするバット目がけて投手がボールを投げているような、投球が彼のスイングに吸い込まれていくような、そんな錯覚さえおぼえたほどだ。 「確かに、筒香(嘉智)がメジャーに行って抜けたり、佐野にとっては追い風が吹いたりしたけど、そういうチャンスをぬかりなく掴める選手って、プロでも意外と少ないんですよ。立派なもんです」 ある球団関係者が、「昨年の佐野恵太」をこう語ってくれた。 「シーズンの最初の頃は、内角を差し込まれたりして、まだドアスイング
1925(大正14)年1月6日、6回目となる箱根駅伝の往路で、ある事件が起きた。 このとき、日本大学の第2区の走者だった前田喜太平は、区間賞の快走で、日大を8位から6位に引き上げて戸塚の中継所に飛び込んだ。しかしそこで待っていた3区の走者は、予定された吉田正雄ではなかった。前田は狐につままれたような気持ちを抱きながらも、とにかくその走者に襷を渡す。 この走者が予想外の活躍を見せる。先を走っていた明治大学、慶應義塾大学、日本歯科医専、東京高等師範学校をごぼう抜きし、日大は一気に6位から2位へとのし上がった。戸塚では先頭の中央大学に7分半近く差があったのが、平塚の中継所で4区の走者・会川源三に襷を渡すまでに2分ほどに縮めていた。しかし、会川は、「選手が来たぞ! 日大だ」と観衆が叫ぶのを聞いても信じなかったという。その上、走って来たのは顔も見たこともない男だった。会川は驚きながらも、仕方がないの
日本シリーズについて「全てにおいて、われわれは劣っていた」と語った原辰徳監督。巨人はDH制の導入に前向きだが…… セ・リーグの来季の指名打者制度導入がなくなった。 セ・リーグは12月14日に理事会を開催。席上、巨人・山口寿一オーナー(読売新聞グループ本社代表取締役社長)が文書を提出し、来季の指名打者制度の暫定導入を提案した。しかし、この提案に他球団はこぞって反対し、来季導入は事実上の見送りとなった。 「今の段階では来季、(指名打者制度を)入れるのは止めましょうという感じです。セ・リーグを強くすることについては、永続的に考えていかないといけないというまとめ方です」 理事会後にこう語ったのは阪神の谷本修球団本部長だった。 巨人の提案は全く相手にされなかった 新型コロナウイルスの蔓延に収束の気配が見えないばかりか、むしろ拡大の様相を見せる中での理事会。すでに発表された2021年の日程では3月26
コロナ禍に揺れた2020年プロ野球の頂点を決める日本シリーズは、福岡ソフトバンクホークスが圧倒的な力で制してその幕をおろした。しかし、その「ホークス」の源流といえる、あるプロジェクトがオフシーズンに熱い盛り上がりを見せている。 今年2月に84歳でこの世を去った野村克也氏の南海時代の功績を残すためのプロジェクト「おかえり!ノムさん 大阪球場(なんばパークス)に。」が大反響だ。野村氏の写真や記念品を、かつての本拠地だった大阪球場跡地にある「南海ホークスメモリアルギャラリー」に“里帰り”させるという企画で、リニューアル費用を募るためのクラウドファンディングは、開始した11月11日から10日余りで1000万円を突破した。 球団とのトラブルで、写真すら飾られなかった 「今の野球ファンが知っているのは、ヤクルトや楽天などで監督を務めた“名将ノムラ”。それだけでなく、偉大な野球選手としての功績をもう一度
「日本人のお名前」のブームが続いている。 NPBで1試合でも試合に出た選手は7000人を超えているが、もちろん同姓の選手はたくさんいる。そして日本人の姓で最も多いのは佐藤、鈴木、田中だと言われる。そこで今回は「鈴木姓」でベストナインを組んでみた。 これが、なかなか壮観である。 鈴木姓でNPBの一軍公式戦に出た選手は60人近くいる。このうち投手成績があるのは22人である。 イチロー、大地、尚典、誠也! <打線 ※通算成績はNPBだけ。()はポジションと実働年> 1番 イチロー(中堅手1992-2000) 951試合3619打数1278安打 118本塁打529打点199盗塁 打率.353 1番はこの人しかいない。7年連続首位打者で、史上初のシーズン200安打。走塁のレベルもトップクラス。ずば抜けた守備範囲と強肩も魅力である。言わずもがなMLBでも大活躍したし、平成以降での最強打者と言っても良い
記事を書いたデイリーの小林記者はイチローがメジャー1年目の2001年に初めて野球を担当したという。そんなルーキーに当時27歳のイチローは容赦なかったと振り返る。 《「次どうぞ」、「それ、答えなきゃいけないかな」。記者の質問をことごとくはねつける。無言でスルーされる。そこまで厳しくされる理由が分からなかった。》(デイリー・3月22日) それから3年後に初めて単独インタビュー。イチローが求めていたのは「プロフェッショナル」だったことを知る小林記者。 後年、「(あの頃は)地獄でした」とイチローに語ったという。引退を伝える記事の最後は「イチローには感謝の言葉しかない」。 「僕に鍛えられたんだから……」 同じ紙面には「'94年~'97年までオリックス担当」の記者が、 《記者泣かせの選手だった。》 《想定通りにやりとりが進んだことなんてなかった。》 《「学級新聞じゃないんだから」。時に叱られ、呆れられ
DeNAファン以外の人にとっては特別な選手ではなかったかもしれない……。昨秋、ひとりのピッチャーが横浜スタジアムから去った。“大魔神”でもなく、“番長”でもなかったが、チームとして大事な時期に活躍し、DeNAファンの記憶には必ず残っている投手でもあった。 須田幸太、32歳――この記事は、忘れがたき“普通の人”の去り際の物語である。 その人の顔がたびたび思い返されたのは、彼がさよならを言わずに去ってしまったせいだろうか。 2018年10月3日、横浜DeNAベイスターズは、9人の選手に戦力外通告を行ったと発表した。プレスリリースに並んだ名前の先頭に、その人――須田幸太の名前はあった。 11月13日に開催された12球団合同トライアウトに参加した須田を、獲得しようという球団は現れなかった。去就が明らかになるのはさらに1カ月後。須田自身が催したファンとの交流イベントで、プロ入り前に所属していた社会人
中日の与田剛新監督の右腕がつかみ取った今ドラフト・ナンバーワン選手の交渉権。来季は中日復活の年になるか? 史上初、11球団が高校生野手を1位で入札した。 これまでのドラフトでは一人前になるまで時間がかかる高校生、特に野手は3位以下で指名されることが多かった。しかし、昨年は清宮幸太郎(早稲田実→日本ハム)、安田尚憲(履正社→ロッテ)、村上宗隆(九州学院→ヤクルト)、中村奨成(広陵→広島)が1位で指名され、今年も根尾昂(大阪桐蔭→中日)、藤原恭大(大阪桐蔭→ロッテ)、小園海斗(報徳学園→広島)、太田椋(天理→オリックス)の4人が1位指名され、入札は西武の松本航(日本体育大)以外は根尾、藤原、小園の3人で占められた。 高校生野手の1位指名がここまで多くなった遠因は、'05~'07年の3年間だけ行われた、分離ドラフトにあったと思う。 高校生だけを対象としたドラフトでは即戦力候補の大学生、社会人に向
読者各位は「平成最後のゴールデンウィーク」をどのようにお過ごしだっただろうか? 「えっ?」とか言ってるそこのあなた、来年の今頃はもう、違う時代に入ってるんだよ。 私が自分で「おっさんだな」と思うのは、平成になって30年もたつのに、まだ頭の中で「今年は昭和でいえば何年」と計算していることだ。ご存じか? 今年は昭和93年だ。昭和生まれの人の年齢を計算するときには便利だが、若い人に言ったら馬鹿にされるだろうなと思う。 ついこないだまで、同世代で飲みに行けば「このごろは平成生まれが一丁前に口を利くようになってよ!」とか愚痴を言い合ったものだが、今や平成生まれも29歳。口を利くどころか、できないことは「老衰で死ぬこと」くらいになった。 このあたりで、NPBの「平成時代」を総決算してみよう。チーム成績、投打成績のランキングである。参考までに、昭和の成績も出す。 昭和も平成も1位は巨人!? まずは各チー
「本当に僕でいいのかなと思いますが、選んでもらった以上はしっかり期待に応えたいです!」 3月3、4日に行われる侍ジャパンのオーストラリア代表との強化試合。広島・西川龍馬内野手がその代表メンバーに選ばれたときのコメントである。 ご存知のように西川は所属する広島でも、まだ完全にレギュラーに定着している選手ではない。昨年の数字をみれば三塁手での先発出場試合数は安部友裕内野手の85試合がトップで、西川は約半分の38試合にしか過ぎない。所属球団でもレギュラーをつかみきったと言えない選手が日本代表、しかもフル代表に選出されたわけだ。 異例といえば異例の出来事である。本人が「僕でいいのか」と思わず言ってしまったのも、ある意味、率直な反応だったのかもしれない。 ただ、実はこの西川の存在というのは、これからの日本代表の構成を考えていく上で、1つのカギを握るものとなる。 テーマは「東京五輪を見据えた侍ジャパン
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