現在、脳死臓器移植について勉強をしている。 森岡正博先生の生命学に照らして考えてみれば、「自分、または自分の親類知人が臓器移植をしなければならなくなったときに、自分の判断としてどのように考え、またそれに対する論理的説明が出来得るか」が焦点である。 なぜ、臓器移植は必要か。 病気腎を使ってまで人は生きたいと思うのか。 自分の体でありながら当然自分の臓器というものは見えない。 この「見えない」というのが非常に大きいのではないか、とも思えてくる。 つまり、例えば自分の顔や顔の一部、他にも腕や足などの体の表面に現れているものを移植、つまり他人のものを付けたのならそれはとても違和感があるのではないか。 また、逆にドナーになって表面部位を提供することも抵抗があるのではないか。 死後でいえば、遺族が死者の体の部位を提供することに対して抵抗を持つだろう。 宗教が臓器移植で語りえるものは、やはり「死の絶対性