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2007年5月1日のブックマーク (3件)

  • なぜ、臓器移植はここまで問題になるのか - チメイ的なblog

    現在、脳死臓器移植について勉強をしている。 森岡正博先生の生命学に照らして考えてみれば、「自分、または自分の親類知人が臓器移植をしなければならなくなったときに、自分の判断としてどのように考え、またそれに対する論理的説明が出来得るか」が焦点である。 なぜ、臓器移植は必要か。 病気腎を使ってまで人は生きたいと思うのか。 自分の体でありながら当然自分の臓器というものは見えない。 この「見えない」というのが非常に大きいのではないか、とも思えてくる。 つまり、例えば自分の顔や顔の一部、他にも腕や足などの体の表面に現れているものを移植、つまり他人のものを付けたのならそれはとても違和感があるのではないか。 また、逆にドナーになって表面部位を提供することも抵抗があるのではないか。 死後でいえば、遺族が死者の体の部位を提供することに対して抵抗を持つだろう。 宗教が臓器移植で語りえるものは、やはり「死の絶対性

    なぜ、臓器移植はここまで問題になるのか - チメイ的なblog
  • 「脳死は一律に人の死」なのか? - G★RDIAS

    衆議院で、臓器移植法改正案の審議が始まるようです。そして早ければ、短期で採決に移るとの報道がありました。提案されている改正案は、中山案(旧町野案→旧河野案→修正)、斉藤案(森岡杉案→小児科学会案→修正)の2案です。 このうち、現在優勢である中山案は、実に、「脳死を一律に人の死とする」案としても読めるし、「脳死を一律に人の死としない」案としても読めるという、きわめて問題点の多い案です。その点を詳細に分析した論文を、倉持武さんが「現代文明学研究」から刊行されました。 > 倉持武「「脳死は一律に人の死」なのか?:臓器移植法改正「中山案」を解剖する」 衆議院での議論と並行しての論文刊行となりましたが、この問題にご関心のある方や、衆議院の議論と関係している方がおられましたら、ぜひご一読ください。また、関係する方々にぜひこの論文のことをお知らせください。 おそらく今回の衆議院での議論で、臓器移植法の

    「脳死は一律に人の死」なのか? - G★RDIAS
  • http://www.kinokopress.com/civil/0803.htm