明治から昭和初期にかけて、当時貧しかった日本から、新天地を求めて多数の日本人が海を越え、米国や南米、旧満州(中国東北部)を含むアジア各地や南洋諸島に移民しました。フィリピンへの移民の中には、現地の女性と結婚した人も多く、たくさんの子どもたち(2世)が生まれました。アバカ麻栽培の好景気に湧くミンダナオ島ダバオをはじめ、フィリピン全土に平和で豊かな移民社会が築かれました。日本人移民とフィリピン人女性との間に生まれた2世たちは、いわば日本人移民と現地との懸け橋のような存在でした。 2世たちの運命は日米開戦によって大きく変わりました。米国領のフィリピンに日本軍が侵攻、在留日本人は日本軍への協力を余儀なくされます。日本人移民社会は国家総動員体制に組み込まれ、隣人や同僚のフィリピン人と、敵同士として争うことになりました。2世たちも父の国と母の国の間で引き裂かれていきました。そして日本の敗戦。多くの在留
我々が上陸したのは電気も道路もないフィリピンの小さな島。出迎えてくれたのは「私たちは日本人なんです」という高齢の女性でした。その後もフィリピン各地で「自分は日本人」という人たちに次々遭遇。こんな秘境になぜ? 彼らは国籍を持たない残留日本人2世でした。フィリピンには戦前、多くの日本人が移り住み、麻の栽培などに携わっていました。現地のフィリピン人女性と結婚し、家族を作る人も多く、最盛期の日系人コミュニティーは3万人に上ったといいます。 しかし、日米の開戦とともに、現地で暮らしていた邦人は日本軍への戦争協力を強いられます。寺岡カルロスさんは母と弟、妹を米軍の攻撃で亡くし、長兄は日本軍にスパイ容疑をかけられ銃殺、次兄はフィリピンゲリラに殺されました。 戦後、残留日本人2世にはさらなる苦難が続きます。激しい反日感情が続くなか、身を潜めて暮らすばかりか、当時のフィリピンは父親の国籍に属すると定められて
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