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ブックマーク / jun-jun1965.hatenablog.com (5)

  • わが心の強くて自殺せぬに非ず - jun-jun1965の日記

    「わが心のよくて殺さぬには非ず」と親鸞が言ったのは、私見では別に深遠なことを言ったのではなくて、素質のない人間には殺人はできないということに過ぎない。もちろん戦争とか異常な状況は別として、日常的なあれこれから人を殺す人というのは、元来そういう素質を持っていたか、生育過程でそういう素質が身についたかである。たとえば私が、にっくきあいつを殺してやろうと思っても、できないだろう。それは私が善人だからではなくて、そういう素質がないからである。 自殺もまた然りで、そういう素質のない人には、よほどのことがない限り自殺はできない。よって、自殺する人は心が弱いとかそういうことはなくて、自殺しない人はそういう素質がなかっただけなのである。 ところで千葉俊二先生は茂木健一郎の「偶有性」という概念が、とか書いていたけれど、いったいその概念はどこが新しいのかまるで分からぬ。クオリアだってそうだが、サンタクロースを

    わが心の強くて自殺せぬに非ず - jun-jun1965の日記
    MASASCIANTE
    MASASCIANTE 2008/05/30
    「自殺しない人はそういう素質がなかっただけ」
  • 猫を償うに猫をもってせよ - ハレルヤ!

    山崎行太郎がいかに罵詈雑言を発していても、私はそれを許せる。なぜなら実名で行っており、その罵詈雑言がもたらすリスクを、山崎が引き受けているからだ。匿名での批判や罵詈雑言が卑怯なのは、そのリスクを回避しているからにほかならない。 さて、私は、今さらながらに、muffdivingの実名を、はてなを提訴して公開させようと思った。プロバイダは、決して自発的に公開しないし、削除もしないからだ。 書類も準備して、明日は東京簡裁へ行くつもりでいたところ、ふと、muffdivingがミクシィにいると書いているのを見つけ、ダメもとで検索してみたら、見つけた。「マサシ」という名だった。そこには、「NC-15」として暴れまわっているのとは違う顔があった。私はためらい、マサシに、もう一度考え直して、あの罵詈雑言を削除しないかとメールを送った。 その後、気になった私は、私を罵倒していた頃の日記を読んでみた。そこには

    猫を償うに猫をもってせよ - ハレルヤ!
    MASASCIANTE
    MASASCIANTE 2007/09/19
    ニャンとワンダフル。
  • なぜ片仮名書きする? - jun-jun1965の日記

    前から気になっていたのだが、なぜ「モテない」と片仮名書きするのだろう。私は片仮名書きしたことはない。なっていたとしたら、文責・取材者である。どうも片仮名書きだと、嘲弄しているような、頭が悪いような印象を受ける。 さて、渡部伸の『中年童貞』を買った。私のが八冊も参考文献にあがっていて、ありがたいことである。ヨコタ村上のもあるが。 著者の言っていることの根幹、つまり恋愛は誰にでもできるものではない、というのは私と同じだ。もっとも、それを「資主義」に結びつけるのは、どうか。もう少しロマンティック・ラブ・イデオロギーの構成要素は複雑だと思う。民主主義とか平等思想とか、「愛のないセックスはいけない」思想とか。 ところでこのには、著者の学歴が書いていない。大卒であることは文中の記述から分かるのだが、大学名がない。もしかすると「渡部伸」というのは筆名で、半分匿名の方なのだろうか。もう一つ、奥付には

    なぜ片仮名書きする? - jun-jun1965の日記
    MASASCIANTE
    MASASCIANTE 2007/07/04
    「結婚を前提につきあいたいと思っているなら、初めてのデートでセックスしようと思わないでほしい」「きっと低学歴社会では、初めてのデートでセックスに持ち込むというのは、普通のことなのだろう」
  • 香山リカの粗製濫造について - jun-jun1965の日記

    香山リカほど、新聞やマスコミでの売れっ子ぶりと、ネット上、あるいは蔭での悪口との乖離が激しい人も珍しい。後藤和智はこんなふうに書いている。 http://kgotoworks.cocolog-nifty.com/youthjournalism/2007/04/post_6cb6.html (嫉妬で書いたものであるため削除)

    香山リカの粗製濫造について - jun-jun1965の日記
  • 大衆文藝評判記2007 - jun-jun1965の日記

    平岡敏夫先生が昨年から怒っておられる。日近代文学研究の泰斗といっても、過言ではない方だ。怒っているのは小林信彦の「うらなり」である。平岡先生はかねてから、「坊っちゃん」は佐幕派の物語だと主張している。これは、異論のないところだろう。江戸っ子の坊っちゃん、会津の山嵐、松山藩のうらなりと、佐幕派が敗れる物語だというのだ。 昨年「文学界」に載ってその後単行になった小林信彦の「うらなり」は、昭和九年、銀座でうらなりこと古賀と山嵐こと堀田が再会する場面から始まって、うらなりの一人称で回想式に語られる小説だ。そして、うらなりにとって坊っちゃんは、よく分からない男だったとされ、「五分刈り」と呼ばれている。平岡先生は、昨年出された詩集『明治』の中で、こういう「坊っちゃん」の見方に怒りを示しておられたが、『群馬県立女子大学 国文学研究』の今年度号に書かれた「うらなりの声」というご論文の抜き刷りを送ってく

    大衆文藝評判記2007 - jun-jun1965の日記
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