本を読むと、知識が増える、アタマが良くなる、カネが儲かる、廊下を走らなくなる、などと言う人があまりに多い。 読書家とは本を読むことを恥ずかしいと思っていない者、と書いたことがあるが、もちろん事実とは違う。 本を読むのが好きな人は、自分が「良いこと」をしてるとは思っていない。 むしろ「うしろぐらいこと」をしていると思っている。 本を読むのが好きでない人は、読書が「良いこと」だと思っている。 これでは永久に本を読む楽しさを知ることはないだろう。 そればかりか、読書を「良いこと」だとすすめて、周囲の人間まで本嫌いにしてしまうだろう。 寺山修司は、暗いところで何か読んでいると「目が悪くなるからやめなさい」と叱られる、「本当の理由」を看破している。 問題は、視力低下でも、照明の暗さでもない。 ヨーロッパ中世では、黙読していると「あいつは今、悪魔と喋ってやがる」と後ろ指を指されることがあった。 それと
大学に来てメールボックスをチェックするとき、いちばん頭が痛いのが、「献本」である。 自分もずいぶんたくさんの人に本を送りつけているので、人のことは言えないのだが、それは友人知人宛てであって、見知らぬ人に送るということはしない。 もちろん、編集者が独自の判断で送るということはある。各紙の書評担当者に送るとか、あるいは一読して激怒、私に筆誅を加えそうな書き手にも送ることがある(そうすれば書名が繰り返しメディア上で言及され、高いパブリシティ効果が期待できるからである。「これほど悪口を言われる本なら読んでみたい」というふうに考える読者は決して少なくないのである)。 私だって友人知人から送られてくる本はうれしく頂戴する。 困るのは知らない人から送られる自費出版本である。 私も自費出版で何冊も本を出したことがあるから、市場のニーズとは違うレベルで、それぞれに深い思いと個人的必然性があって本を出された事
南関東の「いろんなところから富士山が見える」状況に驚きつづけている 大阪から東京に引っ越して30年以上経つが、じわじわと蓄積されてきた驚きがついに閾値を超えたので筆を執った次第である。正確には「ポメラ DM250を起動してmenuキーを押して新規作成を選んだ」のだが、ポメラを持っていなかったら、さらに驚きが蓄積されていないと…
「ITに、もはや戦略的価値はない」「ウェブ2.0の無道徳性」などの論文で有名な米国のテクノロジー思想家、ニコラス・カー氏がふたたび過激な書を世に問うている。今回の主題は、『THE SHALLOWS(浅瀬)』(邦題『ネット・バカ』青土社刊)。インターネットへの過度な依存が、わたしたちの脳に与える影響についてさまざまな学問を総動員して真正面から検証を試みた。ネット以前の世界を懐かしむ単純な議論ではけっしてない。電子書籍の普及などオンライン化へのシフトを不可逆的な流れとして捉え、それでもわれわれの思考が浅瀬に陥らないためには何をなすべきか、という考察に溢れている。グーグル、アップルをはぐくんだ現代米国において異彩を放つ著述家に、「ネット・バカ」論の真意を聞いた。 (聞き手/ジャーナリスト、大野和基) ニコラス・カー(Nicholas Carr) 米国を代表するテクノロジー思想家の一人。「ハーバー
本当に溺れている人は、溺れているというよりも、むしろ静かに沈んでいく ものなんだという。 それを体験したことのない人が「こうだろう」と想像したことと、実際それに遭遇したときに起きることは しばしば異なっていて、見張る側は、もちろんそれに気をつけたり、実際に起きることに即した対策を 行わないといけないのだけれど、「溺れる側」の人は、泳ぎを習うその前に、「正しい溺れかた」の 講習を受けてもいいんじゃないのかなとも思った。 泳ぎかたと溺れかた 高校の体育の授業では、柔道とラグビー、スキーについては、それぞれ受け身のやりかたや、タックルをもらったときの転びかた、 スキーを履いた状態での転びかたを、まず真っ先に習った記憶がある。小学校の頃、近所にスイミングスクールがあって、 泳げなかったから、一時期通ったのだけれど、「溺れかた」というものは、習わなかったんじゃないかと思う。 運転免許を取ったばかりの
研究テーマの話です。正直、いまのテーマは好きじゃないです。どうでも、いや仕事上はどうでもよくないですが、嫌いどころか、そもそも、興味なかったです。まだ「嫌い」っていうのは、好きの反対で、ネガティブな関心があって、ネガティブなエネルギーが、相手に沸いて、難癖付けたくなるぶん、「興味が無い」よりマシです。好きでもない、嫌いですらない、興味がそもそも無い。そういう相手は、ちゃっちゃと成果を出して仕事を終わらせようとします(私の場合)。なので、かえって要点だけをおさえつつ、感情移入もなく、ばっさばっさと論理を積んで仕事をするので、案外高速に成果が出ます。会社的には短期間に、ある程度の成果がでちゃうので、こんなにありがたいことはないのですが(本人は単に仕事だと思っている)。最近気づいたのは、生半可に研究テーマに愛情があると命題のリストラができない、妙に限界はこんなもんだ、もしくはもっとできるはず、と
1 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/03/19(木) 15:59:51.24 ID:Gt/EalamO・深海について ・変な生物について ・人間の体の不思議 ・昔の話 ・科学的に証明されてないのに、現実に起こってること。 ・人間の五感、第六感についての話 ・宇宙の話 こんな感じ! ■科学が進化する5つの条件 8 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/03/19(木) 16:04:15.14 ID:kod9+RYNPヤバイ。宇宙ヤバイ。まじでヤバイよ、マジヤバイ。 宇宙ヤバイ。 まず広い。もう広いなんてもんじゃない。超広い。 広いとかっても 「東京ドーム20個ぶんくらい?」 とか、もう、そういうレベルじゃない。 何しろ無限。スゲェ!なんか単位とか無いの。何坪とか何?fとかを超越してる。無限だし超広い。 しかも膨
Jason Zimdars / 青木靖 訳 2010年8月31日 「Webデザインを始めたい場合、どうすればいいんでしょう?」とか、「Webアプリを作り始めるには、どんなスキルが必要ですか?」といった質問をする人がたくさんいる。おすすめの本を山ほど挙げたり、「となりのやつより115%上をいく55の技」みたいな記事を何十本かリストアップするのは簡単だが、本当のところを言うと、始めるために何かを学ぶ必要はない。一番重要なことが何かというと、ただ始めることなのだ。 何かを作り始めること。Webデザインを学びたいならWebサイトを作ればいい。起業家になってWebベースの製品を売るビジネスを始めたいなら何かアプリを作ればいい。まだスキルがないかもしれないけど、どうしてそんなこと気にするの? どんなスキルが必要になるかもわからないというのに。 すでに知っていることを使って始める Webで何か作りたいん
今日「話題の記事」に上がっていた 「システムが無くなった日」 というエントリを読んで、思うところがあったので書きます。 このエントリの結論は、 「一人の工場長の愚かな判断が、多くの人を過労死させ、自殺に追い込み、システムそのものをも失わせた。たった一人の判断が、このような悲劇を生むこともあるのだ」 というものでした。 この結論には同意します。 しかし、私は「愚かな側」に立ち、状況を何ら改善することができなかった過去があるため、複雑な心境になりました。 少し迂回して、書かせていただきます。 人はどんな時に残虐になれるか 「アイヒマン実験」という、人はどういうときに屈従するのかについて行われた実験があります。 服従の心理 作者:スタンレー ミルグラム河出書房新社Amazon ミルグラム実験 - Wikipedia 人は、 「自分は役割に従っているだけ」 「自分は大義の道具に過ぎない」 と思うと
でも、ぼくまだなんにもやってないんですよね。 撮影もしてないんです。 (座談会収録時、ハマケンさんは まだ撮影に入っていませんでした)
乱暴な言葉遣いの人間は差別する。 私は「何当たり前のこと書いてんだ?」って思ったけど、ブコメを見る限りでは結構否定的に思う人がいるようだ。まぁ、ネットの世界は「正しけりゃ誰が何と言おうと正しい」的な空気があるので、それはそれで当然かも知れないが。 私は件のエントリは肯定的だ。「正しいこと」は多くの人の支持を得ているはずだからだ。 と書くとすぐ「ガリレオはどうだった」的なことを言う奴がいるけれど、そーゆーのはむしろ特異な例で、「みんなの意見」は案外正しいものだ。また、世の中理屈で白黒つくものはあまりなくて、支持者の数が正さということは結構ある。白黒はっきりつくものであっても、「正しいこと」であれば多くの人が支持していることが多い。 だからこそ、「乱暴な言葉遣いの人」は無視しても平気なのだ。「正しい」ことであれば、「乱暴な言葉使いの人」の言葉なんて聞かなくても、早晩自分のところに届いて来る。い
先日、Twitterにこのようなことを書いた。 特にネットでは、ぼくは意見の正否「だけ」で相手を判断するつもりはもはや全くない。下品な人間の相手をすることはいやだし、ひとの悪口を安全なところから吐く人間にかかわるのもいやだ。しらないひとと不毛な議論をする意欲もない。それで当然だと思っている。そうすべきでない理由はあるだろうか? 「意見と人格は切り離して考えるべき」「嫌なやつのいうことでも正論は正論」という考え方があることはわかるけれど、逆にいうと「いくら正論をいっていても嫌なやつは嫌なやつ」であるわけで、そういう人間は遠ざけたい。遠ざけることが逃げだとは思わないし、閉塞だとも感じない。精神衛生上の問題。 まあ、「意見だけはとりあえず受け入れて、その人物は遠ざける」というのがいちばん適切な対応かな……。「批判は受け容れるべき」という言葉には条件付きで賛成できるけれど、「批判は無条件で受け容れ
1 名前:以下、VIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/24(火) 22:43:39.65 ID:pZVBjSxz0 いわゆるチャラ男系のリア充ではないんだが、マダオだった俺がある法則 に気づいてから彼女もできたし勉強関連もやたらとうまく行ってる。その法則とはリスクとリターンを天秤にかけること これだけ 5 名前:以下、VIPがお送りします[] 投稿日:2010/08/24(火) 22:45:04.32 ID:vehVjSYyIしょうがない 聞いてやるよ コメント:小さなリスクであってもそれがすごく怖いと思ってしまうなあ。 以下、VIPがお送りします[sage] 投稿日:2010/08/24(火) 22:46:09.29 ID:JlO3Kgmb0 待ってくれ この方法リア充ってか喪男を抜け出すための恋愛テクニックじゃね? 8 名前:以下、VIPがお送りします[sage] 投稿日
■ 原文 能をつかんとする人、「よくせざらんほどは、なまじひに人に知られじ。うちうちよく習ひ得て、さし出でたらんこそ、いと心にくからめ」と常に言ふめれど、かく言ふ人、一芸も習ひ得ることなし。 未だ堅固かたほなるより、上手の中に交りて、毀り笑はるゝにも恥ぢず、つれなく過ぎて嗜む人、天性、その骨なけれども、道になづまず、濫りにせずして、年を送れば、堪能の嗜まざるよりは、終に上手の位に至り、徳たけ、人に許されて、双なき名を得る事なり。 天下のものの上手といへども、始めは、不堪の聞えもあり、無下の瑕瑾もありき。されども、その人、道の掟正しく、これを重くして、放埒せざれば、世の博士にて、万人の師となる事、諸道変るべからず。 ■ 注釈 1 不堪の聞え ・下手くそだという悪い噂。 2 無下の瑕瑾 ・非道すぎる屈辱。 ■ 現代語訳 これから芸を身につけようとする人が、「下手くそなうちは、人に見られたら恥だ
それが資金であってもマンパワーであっても、何かが「足りない」状況に対峙したときには、足りない何かを工夫で補わないといけない。 そういう工夫はたぶん、 資金が潤沢にあったらできたこと、「リッチ」とか、「効く」みたいな、肯定的なパラメーターを、 まずはあきらめてみるところから始まる。 何かをあきらめることで、その周辺にはたぶん、「あきらめることで手に入るもの」が生まれている。 今度はそこから、「足りない中でいいものを作る」のではなく、まずは「あきらめないと手に入らないもの」の 付加価値を高めたり、そこからお金を集める仕組みを考えることで、「足りない中で頑張った何か」は、 全く新しいものへと変貌するのだと思う。 お弁当と俳句 フランスのお弁当ブームとか、英語圏で俳句が面白がられたりだとか、ああいうのはたぶん、 「制約って面白いんだ」という気づきが生み出したのだろうと思う。 スプラッター映画でしか
ペナンガル @Penangal togetterは公開されているデータをかき集めてまとめを作る。ところが、公開しているtweetでありながら、まとめられると不快になることがある。それに対して「やめてくれ」というと「何言ってんだ最初から公開されてる情報じゃねーか」と言う話になる。
「やれるだけのことはやった」状態とは、あらゆる可能性を探索し、試み たという意味であって、一つの方法を機械的に繰り返し、拡大し、結果とし て全ての資源を損耗しつくした、という状態とはちがう[18]。 これは明らか に判断の誤りなのに、しばしば満足げに総括される。 経験を積んだ術者は、「何もしないこと」もまた決断であることを知って いる[15]。その一方で、意志の不在が決断を放棄させた場合また決断であっ て、同じ「待ち」の決断であっても、意味あいは全く異なってくる[10]。 意志の不在は状況を確実に悪化させる。たとえそれがどのような決断で あっても、決断されることは、行動の根拠としてより望ましいと言える[10]。 何もしないで経過をみるときには、だから「何もしないことを決断する」 必要があって、状況を動かさないことを決断したのなら、その時にやってお くべきことがある。 視点を変える 「あのと
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