議論は次の論点、すなわち「無縁」の評価に映る。ここでの直接的な対象はまず本郷氏ではなく、2巻の筆者・東島氏ということになろう。同書の表題にもある通り「自由にしてケシカラン人々」の存在を高く評価する東島氏は、彼らの存在を支える都市の自由が、当の都市民たちの自治によって失われていく過程を告発する。 すなわち、「「かけ落ち」する者にとって、あるいは飢饉の「流民」にとって、都市とは〈生きやすい〉場所のはずであった。だがそれも、戦国時代が進み、京都のように都市民たちが「町」を単位に自治を獲得し始めると、俄然〈生きにくい〉場所へと変貌していく」[2,117]。本来「都市とは、こうした身分的隷属関係を一時的ながらも解除し、関係を組み替え、言い換えれば〈人生をやり直しうるかもしれない〉空間となりえていた」[2,115]ものが、「「町」や「町々」が権力の末端機構化して」[2,117]ことによって失われていく