2013年4月3日のブックマーク (16件)

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    Neji800 2013/04/03
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  • 第60回 ヴェルサイユ体制とワシントン体制

    第60回 ヴェルサイユ体制とワシントン体制 ○新たな国家が多数誕生・・・だけど さて、激戦だった第1次世界大戦が終結し、今度は戦後処理をしないといけません。 そこで1919年、パリ講和会議が開かれました。この会議では、戦争末期にアメリカのウィルソン大統領が発表した十四ヶ条がベースとなって議事が進行します。すなわち、 1.秘密外交の禁止 2.海洋の自由 3.軍備縮小 4.関税障壁の撤廃 5.”ヨーロッパ諸国民の”民族自決(→アジアやアフリカの人々はこれには失望しました) 6.植民地問題の公正な解決 7.国際平和機構の設立 (→国際連盟の成立へ) などで、アメリカ(ウィルソン大統領)、イギリス(ロイド=ジョージ首相)、フランス(クレマンソー)、イタリア(オルランド)、日(西園寺公望)らを中心として会議は進行。敗戦国であるドイツはもちろん、ロシアの後を継いだソビエトの参加は、ありませんでした。

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    Neji800 2013/04/03
  • 第59回 第一次世界大戦

    59回 第一次世界大戦 ○起こるべくして起こった? こうして、バルカン半島を巡ってヨーロッパ中が緊張。 主に、ドイツ、オーストリア側のパン=ゲルマン主義と、ロシア側のパン=スラブ主義という、民族同士の対立がヒートアップしていたんですね。 しかも、ドイツとフランスがモロッコを巡って争うなど、植民地争いも最高潮に達していました。特にこのモロッコ、2度にわたってドイツはフランスと争うのですが、イギリスがフランスを支援するものですから、さすがに野望を諦めざるを得なかったのです・・・が、悔しい、という状態でした。 そして、1914年6月28日・・・。 オーストリアの帝位後継者だったフランツ=フェルディナント大公夫は、陸軍大演習を視察するために、ボスニア州都サラエヴォに来ていました。もちろん、陸軍の大演習ということは、この地域にオーストリアの力を示そうと狙っていたもの。その頂点に君臨する予定のフラン

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    Neji800 2013/04/03
  • 第55回 近現代ヴェトナムとフランス

    第58回 第一次世界大戦前夜 ○三国同盟VS三国協商 この頃のヨーロッパは、まさに昨日の友は明日の敵、昨日の敵は明日の友状態。 1890年、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は「これからはロシアとなんか、手を組まぬ!」としてロシアとの再保障条約の更新を拒否しました。何故手を組まないことにしたかというと、今までのお話で見てきたように、ロシアが虎視眈々と狙っていたバルカン半島や中東にヴィルヘルム2世も目をつけ始めたからです。 すなわち、ベルリン、イスタンブル(かつてのビサンティウム)、バクダードという3つの都市を結ぶ、バクダード鉄道を進めるのです。この3都市、共にBからはじまるので、この政策を3B政策といいます。ちなみにイギリスは、南アフリカのケープタウン、エジプトのカイロ、インドのカルカッタを拠点として結ぶ3C政策を採っていました。当然、両者にらみ合いの格好。対立が始まります。 こうしてまず、ロシア

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  • 第56回 プロイセンからドイツ帝国へ

    56回 プロイセンからドイツ帝国へ ○ウィーン会議後のドイツ イタリアと並んで、紆余曲折を経て成立したドイツ。 それでもイタリアと違って、ドイツ人という区分は古来より漠然とした形であったようですが、だからといって長い間、正式に「ドイツ」という国家が誕生することはありませんでした。強いてあげれば、神聖ローマ帝国でしょうか。そんなドイツが誕生するキッカケの1つになったのがナポレオンによる神聖ローマ帝国崩壊と、プロイセン王国の大幅弱体化。 このうち、プロイセンではシュタインとハイデンベルクが徹底した国政改革を行い国力を回復・増強、さらにフォヒテという人物が「ドイツ国民に告ぐ」という講演を行い、さらにナポレオンを打倒したことから、ドイツとしてのナショナリズムが高まります。そして、ナポレオン戦争後のウィーン会議でドイツ地域にある35の君主国と、4自由市からなるドイツ連邦が成立するのです。 このドイツ

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  • 第55回 近現代ヴェトナムとフランス

    第55回 近現代ヴェトナムとフランス ○阮氏による西山朝 今回は1858~67年のインドシナ出兵を中心に、ヴェトナム戦争前夜まで一気に見てしまうという、実に無謀なページです。どうも、途中で切りづらくて・・・。 というわけで、まずは近代ヴェトナムの歴史を見ておきましょう。 まず18世紀後半、当時ヴェトナムを支配していたのは黎朝と呼ばれる政権でした。この黎朝、その成立時は中国の明の支配からの脱却に成功した輝かしい政権だったのですが、この時代にはハノイを中心とする北部を鄭(チン)氏が、フエを中心とする中部と南部を「中部」阮(クアンナム・グエン)氏が事実上支配し、黎朝は名目的な存在。ヴェトナムは分裂状態にありました。 これに対し、1771年。 ヴェトナム中部クイニョンにある西山(タイソン)村で阮文岳(グエン・バン・ニャク)、阮文呂(グエン・バン・ルー)、阮文恵(グエン・バン・フエ)の3兄弟を中心と

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  • 第54回 ナポレオン3世の第二帝政

    ○「ナポレオン」ブランドは強かった 今回は久しぶりにフランスを見ていきましょう。 同じ時代をあっちこっちの視点から見ていますので、そこが良いというか、紛らわしいというか・・・。ちょっと復習になりますが、ナポレオンが失脚したあと、ルイ18世、シャルル7世と復古主義的なブルボン家の国王が続き、これに対し立ち上がった人々は自由主義的な考えを持っていたルイ・フィリップを国王にしましたね。 ところが、この国王は資家を保護しすぎたために反発を買い、1848年2月にパリの民衆によって追い出されます。 こうしてフランスは第二共和政がスタートしますが、働かなくても賃金が出るという国立作業場の設置のように労働者を保護しすぎたため、今度は労働者以外の人達から猛反発を喰らいます。そのため、4月に行われた選挙で社会主義勢力は大敗を喫し、これに怒った労働者達が蜂起するも(六月暴動)、死者30000人以上、逮捕250

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  • 第53回 イタリア統一と建国への道

    53回 イタリア統一と建国への道 ○イタリアなんて国はなかったのですが ドイツという国家が調べれば調べるほど、一体いつから成立したのか、何だかよく解らなくなって来ることってありませんか。東フランク? ドイツ騎士団領? ザクセン? プロイセン王国? 神聖ローマ帝国??? まあ、このあたりの話は今度扱いますが、ある意味でもっと解らなくて、ある意味で解りやすいのがイタリアでございます。 さて、イタリアなんて国家はいつから登場したんでしょうかね。 まあ、そもそも明確な形で国民と国家なんて概念が誕生し、さらに国境線が原則として確定したのは最近のことと言っても過言ではないのですけれど、ドイツ側にはプロイセン王国や神聖ローマ帝国など、ある程度まとまった大きな国家が登場しているのに対し、イタリアの場合は中世以降、都市国家がメインだったので小国乱立の分裂状態でございました(まあ、ドイツも内情は似たようなもの

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  • 兵士を死ぬほど大事にするアメリカ 人命軽視の日本 戦争で日本のために戦うなんて絶対嫌だよね : てきとう

    2013年04月03日17:00 カテゴリ軍事 兵士を死ぬほど大事にするアメリカ 人命軽視の日 戦争で日のために戦うなんて絶対嫌だよね 1 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2013/03/29(金) 21:36:37.15 ID:Cz7xSFUT0 ?2BP(1347) さて、これまでの記述では、アメリカの強さと枢軸国の弱さを強調する傾向がありました。まあ、これは当の事だからしょうがないのですが。 それでは、アメリカには弱点が無いのか?あるにはあるのです。それは、彼らが人命の損失を極端に嫌がるという点です。 アメリカ人の大多数は、アメリカという国の存在意義を「生活の保障」にあると考えています。つまり、国家というものを、自分たちの安全を守るための道具として、機能的に考えているのです。 だったら戦争なんかしなければ良いのですが、それはそれで、「正義の戦争」なら、必要悪と

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  • 【画像あり】アメリカ海軍のやばさ教える : 暇人\(^o^)/速報

    【画像あり】アメリカ海軍のやばさ教える Tweet 1:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/04/01(月) 20:13:20.41 ID:ZgCB8Si00 まず現在の海軍力として要となるものは原潜と空母、そのほかの駆逐艦や巡洋艦は言うまでもなく必要 ちなみに巡洋艦を所有してるのはロシアアメリカのみ 欧州では駆逐艦よりもフリゲートが多いかな ただ船の大きさで強さが決まらないのが現代の戦闘 巡洋艦だろうが対艦ミサイル被弾すればおそらく戦闘不能だし まぁ簡単に書いてこうと思う 9:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/04/01(月) 20:15:27.44 ID:bAtOPfP4P 期待してるぞ 10:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/04/01(月) 20:15:30.36 ID:oDMpZJ5o0 ロシアすげええ 14

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  • 第52回 クリミア戦争とセポイの反乱

    ロシアの南下を阻止せよ! 今回はこの時代に各地でヨーロッパ列強が覇権をかけた戦いを見ていきます。 まずは、クリミア戦争から見ていきましょう。 そもそも東ヨーロッパでは地中海への進出を目指すロシア帝国と、かつてはウィーンまで包囲したこともあるほどの勢いのあった、逆にいえばこの当時、弱体化の進んでいるオスマン帝国が争っていました。特に1828~29年にロシア・トルコ戦争が勃発すると、ロシアはこれに勝利。勢いを駆って1833年には、ロシアがオスマン=トルコ帝国を保護国化しようとしますが、当然、ロシアが強大になるのはイギリスやフランスも黙ってみているわけにはいきません。さらに、オーストリアも「まった」をかけました。 そこで1841年、ヨーロッパ列強各国とオスマン=トルコ帝国はロンドン海峡協定をむすび、オスマン=トルコ帝国はヨーロッパ全体の保護国となったのです。これでオスマン=トルコ帝国はヨーロッ

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  • 第51回 ヴィクトリア女王時代(2)グラッドストンとディズレーリ

    第51回 ヴィクトリア女王時代(2)グラッドストンとディズレーリ ○(現在の)国会議事堂の完成 さて、ビッグベンでおなじみ、ロンドンの国会議事堂。この姿を見れば「ロンドン」だと誰もが解るぐらい、有名な建物ですね。この時代に現在見られる建物が完成しました。 現在の建物は、ここにあったウエストミンスター宮殿が焼失した後に建てられたもので、1852年に完成しました。 部屋数は1000、廊下の総延長3.2km、総面積3万3000平方kmという壮大なもの。 ちなみに時計台であるビッグベンは1859年の完成。高さ95mで、名称の由来は建設責任者のベンジャミン・ホール郷に由来する説と、19世紀後半の名ボクサーのベン・カウントに由来する説の2つがあるそうです。 ご覧のように起伏に富んだ形状となっており、撮影する方向によって様々な表情を見せてくれます。それにしても、何とまあ芸術的な建物なのでしょうか。では、

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  • 第50回 ヴィクトリア女王時代(1)発明品とアヘン戦争

    ○時代を変えた発明品たち 年表が凄まじいことになっていますが、それほど19世紀は20世紀と並んで世界各地が、それぞれ関連しながらダイナミックに歴史が動いていったということが表れていると思います。 特に、今回と次回でお話しする内容の間に、世界各地の政治的な出来事では 1.フランスのナポレオン3世が活躍し、没落していったことと、 2.イタリア王国とドイツ帝国が成立(前者は1861年、後者は1871年) 3.アメリカから日にペリーが来航して日が開国、ほどなく江戸幕府が崩壊し明治新政府が誕生していったこと 4.そのアメリカでは、リンカーン大統領時代に南北戦争が勃発する(1861~65年) が発生していますので、これは念頭に置いて頂ければ、と思います。 さて、今回と次回ではイギリスに焦点を当てつつ、まずは、この時代にヨーロッパとアメリカで誕生した、様々な発明品を紹介していきたいと思います。例えば

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  • 第49回 社会主義思想の登場

    第49回 社会主義思想の登場 ○実は私も良く解らなかったりしますが どうしても避けては通れない話題なので、今回は社会主義の登場についてみていきたいと思います。 産業革命の進行に伴い、次第に社会は資主義化、すなわち商品を生産するための手段を私的所有し、そして私的管理、自由な商品交換するようなシステムになっていきます。中世までは領主が「俺の物は俺の物、お前の物も俺の物」なんてこともあったのですから、それに比べれば随分と安定した社会に移行したといえます。 ・・・当にそうでしょうか? 現実には、持てる物と持たざる物の格差が広がっていっていき、資家はどんどん太る、労働者はどんどんやせ細るという現象が見られるようになり次第に社会不安が増大していったのです。現実に1811年、機械を打ち壊すラダイド運動というのが発生します。これは、イングランド中部のノッティンガムで下編工やレース編工が始めた運動で

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  • 第48回 今度はフランス「7月」革命だ!

    ○今更体制戻してどうするのよ さて、話をフランスに戻しましょう。 ルイ18世については、第46回で紹介した通り。彼のあとを継いだのが、弟のシャルル10世(位1824~30年)です。兄弟揃って、かつての栄光を夢見て、一部の特権階級による政治を行います。もちろん、これまでの革命で失われた亡命貴族達の土地や財産の多くを回復し、保障。一方で選挙権は制限され、出版の検閲を強化します。 そうしますと、当然国民の不満が高まっていきます。これをどうやって解消しようか。 そうだ、奴らの不満は海外に向けてしまえと、シャルル10世は、北アフリカのアルジェリアに出兵させます。戦争で景気よく勝って、領土を獲得し、喜ばせてやろう、というのが狙いですね。 こうして、既にイギリスやアメリカの攻撃を受けていたオスマン=トルコ帝国領のアルジェリアは、国家としてこれに対抗する力はなく、1830年にフランスに占領され、1834年

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  • 第47回 ウィーン体制とギリシャの独立

    話がちょっと前に、そして繰り返しになりますが、1814年にナポレオンが退位に同意し、エルバ島に流されると勝利国の面々はオーストリアのウィーンで会議を開きます。 議長は、オーストリア外相(のち首相)メッテルニヒ。 各国代表は、イギリスからはカースルレー外相と、ウェリントン公、プロイセンからはハルデンベルク首相、ロシアからは皇帝アレクサンドル1世、フランスからはタレーラン外相が派遣されました。 さて、ウィーン会議と呼ばれるこの会議。出席者の皆様、ナポレオンが去ったあとのフランスをどうしようか、腹のさぐり合い。それもそのはず、ナポレオンによって中央ヨーロッパから西ヨーロッパまでの地域が占領されちゃったのですから、解放されたこれら地域をどうやって戦勝国で分配するのか。 ・・・。・・・。・・・。まぁ、いいや、取り敢えず踊りましょうよ! と、オーストリアのシェーンブルン宮殿で連日、お偉いさん達は舞踏会

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    Neji800 2013/04/03