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西アジア史(第24回 イル・ハン国によるアラブ統治) - 歴史研究所
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西アジア史(第24回 イル・ハン国によるアラブ統治) - 歴史研究所
○イル・ハン国の成立とアッバース朝滅亡 モンゴル帝国皇帝モンケ・ハンの命令で、その弟のフラグ(12... ○イル・ハン国の成立とアッバース朝滅亡 モンゴル帝国皇帝モンケ・ハンの命令で、その弟のフラグ(1218~65年)は西へ遠征をしました。そして、途中でニザール派を壊滅させ、細々と命脈を保っていたアッバース朝の首都バグダートに到達。ついに第37代カリフ・ムスタースィムは降伏し、モンゴルの処刑の儀礼により絨毯に包まれ騎馬に踏み殺されました。 そしてカリフの一族は、エジプトに逃げ、アッバース朝を倒して建国されていたマムルーク朝(1250~1517年 マムルーク朝については次のページで解説)の保護を受けることになります。 もちろん、落ちぶれたとはいえカリフを殺すなど今までに考えられないような事態で、これはスンナ派イスラム界に大きな衝撃を与えました。そしてフラグは、 中東全域を支配下に治めると、シリア・エジプトのマルムーク朝と交戦をはじめます。ところが、その直後にモンゴル皇帝モンケ・ハンが死去。モンゴ