作風もそうだしマニアックな作りも。何よりノリが。ファンの雰囲気とか、アンチを受け付けないアンタッチャブルな感じ。
あのね、ちょっとだけ言わせてもらってもいいですか。 この映画は、何一つ救いがない映画ですよ。 実際には、現実には、絶対にありえないことを、思いっきり細部までこだわった現実的な日常の世界として描くなんて、反則以外の何物でもない。 ファンタジーの世界、怪獣映画の世界なら、そこにはフィクションとしての前提があり、それに則った作品としているから、見る側にも、救いがある。 それは、受け手が、初めから「嘘の世界」を前提として見ているからだ。 例えば、ゴジラ対メガロやファイナルウォーズなど。初めからネタの世界でしょう。 ゴジラの世界でいえば、「ジェットジャガー」の登場により、読者は救いを得られる。 ドラマや映画なら、監督がいて役者が演技している裏舞台の世界が前提としてある。 この作品には、それらが一切無い。 見ている者は、最初の導入から始まり、この映画は日常の世界として知らず知らずにこの世界に入ってしま
(ネタバレですので未見の方は読まないで) 悪かったところ ・外人の顔が映らないのが意味不明 石原さとみが飛行機の中で話している相手の男と、スパコンの研究室のおばちゃんが話してる相手とか。 なんで発声している人の顔を隠して、写さないのか演出の意図がわからん。 製作陣が他の日本人役者と同じレベルで演出ができなかったか、まともに演技できる外人を連れてこれなかったから顔を写さずにごまかしてるとしか思えない。 ようするに写しちゃうとしょぼくなるから写さないようにしたというような風にしか見えない。 姿を写さないことで、影で暗躍する人々的な演出にしたかったのかもしれないけど、そんなことする必要性全く感じられなかった。 ・ゴジラの口の中に薬品を注ぎ込む映像がなかった 一番のラストの盛り上がりなのに。ポンプ車が寄ってたかってあのトゲトゲの歯の隙間から、薬品をドボドボと流し込む映像のアップがなんでないんだろう
昔、淀川長治が、マルクス兄弟について、「映画のコメディではなく、舞台のコメディ」っていったけど、「シンゴジラ」も映画である前に、シミュレーションの映像化。この監督が撮ろうとしているのは、「ゴジラ」という生物が出現したとき、対抗措置として作動するメカニズム。人間ドラマとか、入る余地はないよ。 戦車やミサイルだけではなく、大型未確認生物の日本上陸という非常事態に対処する官邸を中心とした官僚組織もメカ(機構)として扱われる。テロップではいる「内閣官房副長官秘書官」という肩書と「こんごう型護衛艦「きりしま」」という艦名は、その機能を現すうえで等価であるということ。劇中、ヒロイックな面もあるけど「内閣官房副長官」がたまたま「矢口」という人物だったのであって、「矢口」という人物の固有性は、ここでは意味を持たない。そこで俳優が演じるのは、固有の人物ではなくて、出世欲も含めて、その役職についている人物の類
庵野ゴジラは最高だったよ。 最初に出てきた深海魚のような不気味なゴジラは完全体と同一個体とは到底思えないが 今までに見たことが無い怪獣を見れて眼福だったし、ゴジラが放射能を吐くシーンは かっこよすぎて震えたし、背びれビームも美しかった。庵野はゴジラを神話にしたよ。 一方で、ゴジラが街を破壊し自衛隊や米軍の兵器と戦うための口実とはいえ、 人間たちが活躍するシーンは全く退屈だった。 日本の役者、どいつもこいつも下手糞だしかっこ悪いしで全然絵にならない。 官邸ドラマの部分は踊る大捜査線のような劇場テレビを思い出させる安っぽさで、 ゴジラの恐ろしくも神々しい佇まいと全然釣り合ってない。 竹野内豊や石原さとみにエリートの役をやらせちゃいけないと思ったし、 市川実日子もいかにもな助演女優で良いと思えなかった。 なんで庵野ゴジラがこんなくだらない奴らに負けなきゃいけないんだよ。 夜中にゴジラが初めてビー
かなり昔だけど、森博嗣が ゴジラは生物としては目が大きすぎて電波を受けすぎて絶対目が悪い。余裕で逃げれる。 って言ってたのを、今は夏、増田はふと思い出す(すべF風)
がネット上(増田・2ch)に散見されるんだけどあれは何なんだ? 最近だとシン・ゴジラ。テーマを論じようとすると「庵野は今回エンターテイメントとしてゴジラを作ったんだからテーマなんか論じるな」「庵野に描くべきテーマなどない」などという謎の反応が返ってくる。 こんなもんいちいち論駁してられないほどバカバカしい意見だと思うんだが、本当にこういう手合いが多い。 これと区別しないといけないのは自分と異なる解釈を持つ人たちだ。 俺の「この作品のテーマはこうである!」という書き込みに対し、「いやそれは違うんじゃないか。こう考えるべきではないか」という書き込みをする人たちのことだ。 これはとても良いことで、こちらも勉強になるし、多様な解釈ができることそれ自体が作品の評価の指標となる。 ここで問題にしているのはこれとは違い、解釈という作業それ自体を否定する人たちのことだ。 作品をエンタメとしてのみ消化したい
トシモンの出てこない「ザ・ワールド・イズ・マイン」という感想が一部にはあるけど、 言及されてる�記事が少ない気がするのでちらっと書いておきます。 パクリがどうとかではなくて、シンの「得体の知れない脅威に向き合う日本」「政治劇」など、 かなり構成要素と配列が似ているのでシンが好きな人は気に入るかもしないので読んで欲しいなと思ったしだい。 「ヒグマドン(怪獣)」「トシモン(殺人鬼)」「日本(人類)」という対立軸で描かれているんだけど、 そこから「トシモン」を抜くとほぼシン・ゴジラのスジになる。超おすすめ。 ただし「ザ・ワールド・イズ・マイン」は絵柄がポップじゃないし、グロいので、万人受けはしないかも。 庵野監督も絶賛していた、という話もありますので、引用元の一つではあるのかもしれません。
ちょっと前まではAKBオタクやラノベオタクくらいが言ってる程度で、あぁ知能が低い人がこういう発言をするのは仕方ないよな~くらいの寛容さで見つめてきたわけだけど、 今じゃどっち向いてもこういう発言ばっかで日本人の劣化ぱねぇなと思う。 コミュニケーションによって違う意見を聞いておけば多様性を認められるようになるし社会の寛容度が上がる、みたいなことを哲学者や社会学者やネットユーザーは希望を持って語ってきたけど、 「自分の意見の正当性を確固たるものにしないと死ぬ」派が多数になってしまえば、自分の意見と違うやつを攻撃しまくるTEINOU社会になるんだよなぁ。 しかも自分の意権が多数派とおなじだったら安心して反対派の意見が負けとみなして相手にしない、というタイプも増えてるように思う。 これが政治の方向に加わったら怖いよね。 日本赤軍だとか戦時中の日本とおなじ。 小学生や中学生に議論を教えるくらいなら、
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