「シックス・センス」みたいな。
ユーフォの総集編映画に客が来るのは音響とかはもちろんだけど安心して良い作品が見れるという保証もひとつの要素としてあるだろうな。 冒険せずして一定の感動を得られる。
地獄とは神の不在なりまーた欧米のカミサマ論かと思ったけど、具体的に記述されてて事前知識とかなくてもするする読めた 登場人物も少なくてわかりやすくてよかった 解説見たらテッド・チャンは宗教的背景もってないらしい だからこういう噛み砕いた書き方ができたんだな これしかり他の話しかり、作中のトンデモを当然のものとして説明するのがうまいなあ 最後どうオチをつけてくるかと思ってたけど、なるほど、と思った 面白さはそこそこだけどちょっとひっぱりすぎた感もあって、長すぎる気もした。 顔の美醜について --- ドキュメンタリー一応一番気になってた話 何度もホッテントリで見かけてたから 相貌失認っていう人の顔が覚えられない障害あるけど、美醜失認っていう美醜がわからなくなる・気にしなくなるように脳をいじる技術が当たり前に存在する世界での、いろんな立場の人や社会の動きを、ドキュメンタリー風にパッチワークしたもの
映画を観に行ったけど、ていうか原作の頃から思っているのだけど、 これって、京都大学の学生か、学生だった人以外に楽しめるものなのか? 楽しめるのかも知れないけれど、なんだか京大生や京大生だった人と、それ以外の人とでは感じ方がまるで違う(違うモノを見ている)気がしてしまう。
ネタバレ パンツに青春を賭けた男とパンツを度々盗まれる男とパンツの見えない女の子が繰り広げるドタバタスラップスティックコメディ。 男の娘もいるよ。ミュージカル要素もあるよ。 星野源はそんなに演技が上手いわけではないけど、ハマリ役だと思う。 評価 嵐のシーンで0.5秒ほどパンツ(男物のブリーフ)が見えました。 パンツが見えたので星三つです。
SAOって異様にハードルの高い作品だと思うんだけどよくあそこまで受けたな。 (新/旧の)MMORPGの知識、作品内の創作ゲームのシステムも直感的に理解するならテレビゲーム全般の知識が必要だし。 SFの知識、(初歩的な部分とはいえ)IT系の知識も必要 序盤でキリトが 「モブのリソースが限られてるから別の場所に移動してそっちでレベル上げしたほうがいい」 的な発言も理解するには相当MMORPGの前提知識が必要なはずなんだけど、ポンポン出てくるし。 実際アニメの時理解できない人が山ほど沸いてた。 昔懐かしい鯖に一つ二つしかない限定武器とかも今のMO世代だと理解できなくて混乱を招いてたし。 そもそもVRとARという用語自体が専門用語なんだよな。 本質的に廃人なキリトの倫理感も理解するの難しかったりするし。 GGOでは暴露療法を理解できなくて皆わめいてたし。
序文: 私は所謂【俺TUEEEE】が嫌いだ。 主人公が画面の中で無双しているのを自己に投影することで、リアルでは弱い自分を忘れて気持ちよくなるだけの虚無な行動。 あんなのはただのオナニー、自己満足であり【俺つえー】アニメを見て喜ぶのは猿の知能レベルとなんか変わらない。 最近の話題に無理やり絡めると、けものフレンズを見てIQが溶けて喜んでいる人たちもいるようだが、脳細胞が破壊されて喜ぶ人たちの気持ちがわからない。 SAOは職場のアニメクラスタと話を合わせるために1期2期共にほぼリアルタイムで視聴した。 内容はそこそこには面白かったが、主人公キリトの【俺TUEEE】要素はあまり好きになれなかった。 今思えば魔法科高校の劣等生も司波達也が蘇生したあたりで萎えてしまったし、テニスの王子様も越前リョーマが無我の境地で相手の技をコピーし始めたあたりでギャグ漫画として捉えるようになってしまった。 長い前
ずいぶん前から「森見登美彦原作の『夜は短し歩けよ乙女』がアニメ『四畳半神話大系』と同じスタッフでアニメ化される」という妄想をしてきたのだが、期待しすぎてなんでもこじつけるようになってしまったのか、今年に入ってから「これはフラグじゃないか」と思うようなことがたくさん起きている。 そして、つい最近になって、これはもう決まりでしょ、と勝手に確信を持った出来事があった。 とはいえただの妄想なのでここに記す。 まず前提として、2つの確定した事実がある。 1.湯浅政明監督は現在、小説を原作とした劇場アニメを制作している。2.イラストレーターの中村佑介氏が関わっている劇場用アニメーションの企画が存在する。 まず1について。 湯浅政明監督が劇場アニメを制作するというのは2015年3月に開催された東京アニメアワードフェスティバル2015授賞式で発表されていたが、この時はフジテレビと共同で、伊東伸高氏と組んで
がネット上(増田・2ch)に散見されるんだけどあれは何なんだ? 最近だとシン・ゴジラ。テーマを論じようとすると「庵野は今回エンターテイメントとしてゴジラを作ったんだからテーマなんか論じるな」「庵野に描くべきテーマなどない」などという謎の反応が返ってくる。 こんなもんいちいち論駁してられないほどバカバカしい意見だと思うんだが、本当にこういう手合いが多い。 これと区別しないといけないのは自分と異なる解釈を持つ人たちだ。 俺の「この作品のテーマはこうである!」という書き込みに対し、「いやそれは違うんじゃないか。こう考えるべきではないか」という書き込みをする人たちのことだ。 これはとても良いことで、こちらも勉強になるし、多様な解釈ができることそれ自体が作品の評価の指標となる。 ここで問題にしているのはこれとは違い、解釈という作業それ自体を否定する人たちのことだ。 作品をエンタメとしてのみ消化したい
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く