ブックマーク / yuhka-uno-no-nikki.hatenadiary.jp (8)

  • 学校という殺人隠蔽組織と、カルト集団との共通点 - yuhka-unoの日記

    【学校が人を怪物にさせる】大津いじめ自殺事件についての内藤朝雄さんのコメント - Togetter いじめ自殺を隠蔽しようとする学校組織や教育委員会は、外部から見ると、ものすごく非常識で、なぜわざわざ不名誉なことを重ねるんだと思うわけだが、腐敗した組織というのは、外部からの視線より内輪からの視線のほうが恐怖になっている。隠蔽が行われる組織は、日の中に、小さな独裁国家があるようなものだ。外部から何を言われようが、その国の国民として生き残っていくためには、内輪の不利益になるようなことはせず、その国の国民らしく振舞わなければならない。その集団に逆らって、自らの良心に基づいた行動を取るということは、集団からの私刑や、外部への亡命を覚悟でしなければならないことになる。内部の人間は、そもそも自分たちがおかしいのだという自覚が無いし、もし自覚があって良心を痛めている人がいたとしても、簡単に言える状況で

    学校という殺人隠蔽組織と、カルト集団との共通点 - yuhka-unoの日記
    PAGZIN
    PAGZIN 2012/07/09
  • いじめと差別と橋下府知事 - yuhka-unoの日記

    いじめにおいて、いじめっ子の当の目的は、特定少数をいじめることに留まらない。いじめっ子の当の目的は集団全体の支配だ。特定少数を「見せしめ」としていじめることで、それを見ている周囲の人間に「まさかお前ら、俺に逆らったりしないよなぁ?」という無言の圧力をかける。「見せしめ」を作ることで集団を支配するのは、有史以来非常にポピュラーな手法だ。 やっかいなことに、その様子を見ている周囲の人間の中で、いじめっ子にいじめをやめさせるよう立ち向かっていく人間は少ないし、実は「何もできなくてごめんね…」という気持ちでいじめられっ子を見ている人間も少ない。大抵の人間は残念なことに、いじめられっ子を見下すという優越感の誘惑に負ける。積極的にいじめに参加する者はもちろん、大多数の何もしない人間ですらそうだ。内心「あの子は劣っているからいじめられるんだ。私はあの子とは違うからいじめられないんだ」という優越感を持

  • 頭が良い人になるには、「頭が良い人だと思われたい」という願望を捨てること - yuhka-unoの日記

    「頭が良い人だと思われたい」という願望を強固に持った人ほど、頭の良さから遠ざかってしまうのではないかと思う。「良い親だと思われたい」という願望を強固に持った親ほど、良い親から遠ざかってしまうように。 なぜなら、こういう人は「論理的=格好良い・感情的=格好悪い」という価値観に取り付かれやすく、自分の感情的な面を認められなくなるからだ。「良い親だと思われたい」人ほど、自分の悪い面を認められなくなるように。 「頭が良い人だと思われたい」という願望は、れっきとした感情なのだ。しかし、「論理的=格好良い・感情的=格好悪い」という価値観に取り付かれた人は、この感情を自覚できなくなる。自分の感情的な面はなかったことになり、理屈の下にある自分の感情を掘り起こすより、辻褄を合わせるために正当化の屁理屈ばかりが上手くなってしまう。 「論理的=格好良い・感情的=格好悪い」という価値観に取り付かれた人は、自分の感

    頭が良い人になるには、「頭が良い人だと思われたい」という願望を捨てること - yuhka-unoの日記
    PAGZIN
    PAGZIN 2011/07/21
    「無知の知」の実践を妨げる願望について。/分かっていてもやっちゃいそうなことであるので自戒する。/「頭を良くしたい」と「頭が良い人だと思われたい」は全然違うんだよなあ。内発性大事。
  • 愛国心と赤ちゃん願望 - yuhka-unoの日記

    誰からも愛されたい。誰からも受け入れられたい。誰からも特別扱いされたい。誰からも否定されたくない。誰もが自分の望み通りに動いて欲しい。 こういう「赤ちゃん願望(心理学的な言葉で言うなら、幼児的万能感)」は、大人になるにつれて薄まり、理性が育ってきてある程度コントロールできるようになるが、なくなるものではない。多かれ少なかれ、この願望は一生持ち続けることになる。 大人になっても赤ちゃん願望に囚われてしまう人は、様々な方法で満たそうとする。ある人は、自分の恋人や子供を束縛してコントロールしようとする。ある人は、ブランド物の権威を身に纏う。ある人は、地位や名誉を手に入れようとする。ある人は、「かわいそうな自分」を見せ付け、他人の同情心を引こうとする。 そして、ある人は、「素晴らしい集団」に属することで、自分も素晴らしい人間になったかのような気分を味わい、その集団の中で母子密着的な一体感を得ようと

    PAGZIN
    PAGZIN 2011/06/15
    「国旗国歌がこのように扱われるとき、国旗国歌は国民のものではなく、単に彼らの「赤ちゃん願望」を満たすための道具でしかなくなる。」同感。
  • 「辛い経験は糧になる」という言葉に感じる違和感 - yuhka-unoの日記

    『他人からの励ましやアドバイス』にも少し書いたが、私は「辛い経験は糧になる」という言葉に違和感を感じる。 結局、トラウマにしかならない経験だってあるんじゃないのかと思うし、乗り越えられるかどうかは、人の努力ももちろんあるが、運の要素もある。周りの人の助けが得られる環境かそうでないかは大きい。 「辛い経験は糧になる」という言葉が広く世間で言われているのは、基的に、乗り越えられた人しか世間に出て来れないからなんだろう。私の中にも、乗り越えられた部分と乗り越えられていない部分があるが、乗り越えられた部分については、世間に向かって語れるけれど、乗り越えられていない部分については、なかなか世間に向かって語ることはできない。 世間から見えるのは、乗り越えた人だけ。結局トラウマにしかならなかった人は、世間からは見えないということだ。 それから、「辛い経験は糧になる」という言葉は、『元いじめられっ子の

    「辛い経験は糧になる」という言葉に感じる違和感 - yuhka-unoの日記
    PAGZIN
    PAGZIN 2011/06/15
  • 本音では、自分で判断することを許していない教育者たち - yuhka-unoの日記

    尚、ここで言う「教育者」とは、親、教師、上司など、教育する立場にある人全般という意味である。 さて、前回の記事「他人に親切にして失敗するのが怖い日人」の続きである。今回は、元サッカー日本代表監督・イビチャ・オシム氏のこの言葉について、具体的に考えてみようと思う。 日では、長年にわたって失敗に対し罰を与えるような教育システムになっているように思える。そういう社会性が、ある意味、サッカーでは悪い方向に作用する。 「失敗して罰を受けるならば何もトライしたくない」という深層心理が消極的な姿勢につながるのである。「日人には責任感がない」とは決して言えない。日人のメンタリティの問題は「責任感がない」のではなく、その責任感に自分で限界を作ってしまうことではないか。自分で勝手に仕事の範疇を決めてしまい、それを達成すると、「後は自分の責任ではない」と考える。(p.93-94) http://t104

    本音では、自分で判断することを許していない教育者たち - yuhka-unoの日記
    PAGZIN
    PAGZIN 2010/09/27
  • 他人に親切にして失敗するのが怖い日本人 - yuhka-unoの日記

    Togetter - 「蜷川実花さんのツイートからわかった日をまとめてみました」 http://togetter.com/li/52331 寝てる息子とバギーで出かけてたんだけど駅で階段しかなくて。15キロの息子だっこしてバギー持って階段。つーかそこのヒマそうな男子!手伝ってよ。なんでこんなに助けてくんないかなーーー??ちょっとびっくり。 上の記事のブコメ http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/52331 一般に、多くの日人は、相手や世間から完璧な正解を求められていると考え、失敗することは許されないと思い込む傾向があると言われている。こうした日人の心理は、一旦社会のレールから外れると復帰しにくいという、福祉問題の話として語られることが多いが、何も社会のレールに限った話ではなく、上の記事で挙げたような、赤ちゃんを抱いてベビーカーを持って

    他人に親切にして失敗するのが怖い日本人 - yuhka-unoの日記
    PAGZIN
    PAGZIN 2010/09/27
    蜷川&フレンズの比較男女論よりこっちの方がしっくりくる。
  • パターンではなく個人を見るということが、人格を尊重するということかもね - yuhka-unoの日記

    まさに「受け取り方は人それぞれ」で、「女性だから」と言ってひとくくりには出来ない。 「これが正しい女性への接し方です」などと言うものは存在しないのである。 もういっその事、男性は女性を相手にしない方が良いのかもしれない。そんな事すら思うがそうは行かない。 http://d.hatena.ne.jp/Paris713/20100526/p1 これを読んだ時の私の感想は、正直なところ「は?当たり前じゃね?」だった。 これは「女性」の部分が「男性」でも「日人」でも「若者」でも何でも当てはまることで、こんなことで「もういっその事、男性は女性を相手にしない方が良いのかもしれない。」とか言ってたら、女性どころか人間全員相手にしない方が良いということになってしまうのではなかろうか。 そもそも、人間関係の基は個人を見ることにある。何が嬉しくて何が嫌なのか、同じことでもどの程度傷付くのかということは、そ

    パターンではなく個人を見るということが、人格を尊重するということかもね - yuhka-unoの日記
    PAGZIN
    PAGZIN 2010/05/29
    個人を十分に見るand知ることは難しいので、相手が先んじて何らかの意思表明をしている場合を除き、一定のパターンを守っていたら単なる事故として処理されるような決まりが必要。セクハラ被疑者等の人権尊重の為に。
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