ものの名前に敏感な人たちが、もはや引き合いに出されるべきではない、直接の話題ではない「トリアージ」を個人的闘争のための論争タイトルにするわけないじゃないか。
実に正論でわたくし感服いたしました。 全く身に覚えのないことを言いふらされ、非難されたら、どれほど嫌な気分だろう。 インターネット上で他人を中傷する行為は、「表現の自由」をはき違えた卑劣な犯罪だ。 http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20090207-OYT1T01193.htm あれ?いきなりタイトルと合致していない内容が…いや、間違ってはいないんだけど、なんで範囲が「インターネット上」に狭まっているんだろうか。 てっきり、今まで新聞本誌が冤罪被害者を犯罪者かのように扱い中傷したり、関連会社の週刊誌等があることないことを、書きたてていたことに対して、今回の「炎上逮捕」事件をきっかけに反省し、自省の念を述べているのかと思ったんだけど…。 憲法で保障された「表現の自由」は、健全な社会を守るためにある。匿名に身を隠したネット上での言葉の暴力とは、無関
は、違うらしい。どう違うのかな。 罵倒は言葉の選択において文脈を持たない、という感じかなあ。たとえば、まったくロジカルでないことに対して「頭が悪い」というのと、自分の意見に与さないことを「頭が悪い」というのは大違いだし。 もっとも、後者の場合、自分の意見が理解されないことをもって相手が非ロジカルであることと認定している可能性はある。そういう場合も、議論の外側から見て、言うほどロジックにかけているわけではない場合は「無駄に罵倒しているなあ」と思うことはある。 意見の対立でののしりあうことはリアルでもよくあること。「こんなこともわからないなんてお前はバカか」とか。でもまあそういうことがあったからと言って、飲み会のたびに「あいつはバカだ」と違う人に言いまくっていたらうざい人だろうなあ。「あいつ」が「社長」で他の会社の人に聞かれてて後で問題になったりして。 まあ、なんというか。観客というのは無責任
いたたまれない気分になる。 聞いてみると某健康食品を勧めた人物に「糖尿病は薬を飲んでも意味がない」と説得されて信じていたようです。以前から続けていた食事療法,運動療法も止めていました。 善意による医学の否定 - Dr.Poohの日記 直すつもりがなくて治療を拒否していたんなら仕方がない。でも、この場合、直す気は満々だったということだよね。それなのに。 善意が結果を伴わないまま発揮されまくる。善意そのものが不幸を呼ぶことはそれほどないけれども、善意による誤った知識の押し付けは致命的な結果を招く。往々にして、そのカウンターパートには人生への過干渉を伴うほどの善意はない。 しかも、善意の真実性はさっぱりわからんのだよね。商売のためのニセの善意であることも。科学によりそのニセの善意が暴かれることは場合によってはあるけれども、当事者にとって、それは向けられた善意に対する悪意の露出であり、悪魔の所業で
プラセボ効果があることが有意に検出されたということは、実証しようとしていたメカニズムが実証されなかったということを意味するのでは。つまり、プラセボ効果でしかなかったことがわかった、ということ。 効果がある、というのはもともと実証しようとしていたメカニズムではない、他のもっともらしいプラセボでも同様の効果が出るということだ。 ホメオパシーがプラセボ効果があると判明した、ということは、ホメオパシーのメカニズムの仮説は実証されなかった=ホメオパシーそのものの原理は効果がなかった、ということなのではないかな。まあでもそもそもプラセボ効果ですら限定的にしか検出されなかったということなんだろうけど。 ホメオパシーは「効果が確かめられていない」方法ですらない - Skepticism is beautiful はてなブックマーク - ホメオパシーは「効果が確かめられていない」方法ですらない - Skep
神はいない、世の中の出来事は全て科学で証明可能だ、というのは一つの見識ではありますが、それが真実になるのは万物理論が見つかってからだから今言ってもしょうがないよね、と思う今日この頃です。 宗教に否定的な態度をとる科学者もそれなりに多くおられるのでなんともかんともですが、 おそらく多くのニセ科学批判者も、次のような行為をしていることと思う。 初詣に行く。 葬式に行く。 科学の実験に際し「うまくいきますように」と祈る。 ダイエット中なのにお菓子を食べてしまう。 2009-01-24 まあ、ネタですよねこれ。僕はどっちかというとニセ科学批判側の人ですが、ダイエットをしているときはおかし食べなかったYO!でも初詣には行くし葬式にも行くし、バグがありませんように、と祈ります。 まことに失礼な話ではありますが、多くの日本人にとって、神に祈るのはきわめてカジュアルな行為でありますね。心から神を信じて頼る
議論をするときにもっとも危険な状態になるのは無能な味方がやってきたときだろう。無能な味方はなぜかこちらの意見のもっとも脆弱な部分を誉めそやし、敵に付け入る隙を与えて去っていく。本当の敵はお前か? 有能な敵はこちらの議論の要諦を踏まえて建設的な議論を行ったうえで自分の主張を通そうとする。結果、決着がつかないまでもお互いの中に何か有益なものを残しつつ、終結することが多い。 一番やっちゃいけないことは、味方だと思って賛同者に自動的にコミットしてしまうことかな。 あと、視点をころころ変える人。視点を変えること自体は問題ないんだけど、全方位で自分が正しいなんてことはまずありえない。だから、視点を変えたときに自分が不利な見方ができるのであれば、それはその視点では自分が正しくないことを認めたほうがあとあと都合がいい。そこで突っ張ろうとすると、またしても無能な味方が現れて、全方位援護射撃をするつもりで味方
白燐弾がどうのってのは人道的であれ非人道的であれ、戦争を肯定する話にはなりえないんだし。 白燐弾≠(場所により)使用が認められていない兵器 であるということと、イスラエルが非道であることは結び付けて考えれば考えるほど、おかしくなっていくように思える。いずれにせよ何かで攻撃しなければならない、という状況であれば、他の「人道的」な兵器がだめなら、あきらめて非人道的な兵器を使うことになる。そこまでいくともはや他国も口だけじゃない介入が必要な泥沼だろうけど。 もちろん、人道的な兵器が使われているから戦争オッケーというわけではないよね。 どうせやるならせめて被害が少ない兵器を、というので不満足な場合、今すぐ戦争やめろ、がするべき主張で、白燐弾の人道的度合いを議論している場合じゃないのである。 いや、兵器そのものの人道的さ加減ではなく、非人道的使い方を責めてイスラエルはルール違反だ、そんな戦争やめさせ
どうも反応を見ると「部長は正しい」とかいう人も多くてびっくり。もちろん、この記事からだけじゃニュアンスはわからないので、実際にどうだかはわからないけど、この記事だけ見たら部長はどうかと思う。 元悪塩のシステム開発部長が進捗会議で発した名言 「君たちさ〜、ログイン画面でユーザ認証って言うけど、IDとパスワード知ってたら誰でもログインできるって事だよね?それってどうなの?危険なんじゃないの?」 http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51409411.html 突っ込みどころ満載に見える。 ログイン画面でユーザー認証って言うけど⇒ユーザー認証の存在意義に疑いを持っているニュアンス 誰でもログインできるって事だよね⇒当たり前というか前提レベルのことをわざわざ確認しているということはそもそもの必要性を理解していない可能性が低い それってどうなの?⇒どうもこうもない
たとえば。 一級建築士は国土交通大臣の免許を受け、一級建築士の名称を用いて設計工事監理等の業務を行うものである。(建築士法2条2項) 一級建築士は次のような複雑・高度な技術を要する建築物を含むすべての施設の設計および工事監理を行うことができる。(建築士法3条)。 〜中略〜 二級建築士は都道府県知事の免許を受けて二級建築士の名称を用いて設計工事監理等の業務を行うものである(建築士法2条3項)。具体的には、一定規模以下の木造の建築物、および鉄筋コンクリート造などの建築物の設計、工事監理に従事する。 二級建築士が設計・工事監理のできる限度範囲は以下のとおりである(当然ながら一級建築士も行うことができる)。 〜中略〜 つまり、木造の住宅や、小規模な鉄筋コンクリート造などの建物(延べ面積300m²以内のもの)など(主に日常生活に最低限必要な建築物)の設計及び工事監理が可能である。 建築士 - Wik
新年早々初罵倒を食らってしまいましたよwおかげでかえってアクセスが伸びたのは孔明の罠かなんかでしょうか。 さて、界隈でのいろんな意見を見ていて気になった点。 悪い行為だ 規約違反だ 不快だ 不適切だ 迷惑行為だ 悪神なんて言葉はない! 最後のなんてなんか失笑してしまうんだけどね。さて、これらの評価って本当に当てはまるんだろうか。どうも根拠が見当たらなくて困っているのです。いや、まあ不快なのは仕方がない。ネガコメや罵倒を巻き散らかして人を不快にしているユーザーなんてはてなにはごまんといるわけで、それがダメならはてなユーザー激減!クリーンなはてブが到来!なのですよね。というわけで、不快は排除、と。同様に、「悪い」という点についてもわりと主観が入っているような気がしますが、もし悪いとしたら規約違反や迷惑行為である、という根拠くらいはありそうなので、そちらに入れましょう。 とすると、これは迷惑行為
DISりはしませんが。こういうのって誰ともなく書いて連鎖するから重なることが多いよねw はてダしなもんの件 はてなは障害情報の文言をいつになったら変えるの? - novtan別館 はてなは適切な言葉を使え。そして近藤淳也は犬に謝れ - YAMDAS現更新履歴 はてなの犬が正直に「混雑中」と言ってくれた - xenoma日記 なんか直りました。モバイルのはどうなのかな? モバイルはてなの件 何を考えてモバイルはてなを作っているのかわからん。 - novtan別館 今のところ全力スルー。301の件については前から3回くらい書いてる。 今のところの問題。環境はDocomo F905i かんたんログインでログインしたら必ず301経由(カウンタからMyはてなも同様) ログイン画面で普通のログインをするのにID入力エリアまで下ボタン一回増えた(かんたんログインの解説リンクが挟まったため。使わない人には
まだこんなことやっていたんだピュアオーディオ界。 同社の原盤制作技術をベースに、音質に影響を与えるゆがみなどを抑えられる「最高の素材を組み合わせた」(開発者)ことで、演奏の原音を忠実に再現できるという。 http://sankei.jp.msn.com/economy/business/081210/biz0812102020020-n1.htm CDってデジタルデータだから、音質が落ちる原因ってのはそれほど多くない。 エラー訂正が追いつかないくらい読み取り品質が悪い(ノイズ入るよねこれだと) D/A変換後のアナログ回路に影響があるくらいのノイズがパーツから発信される このくらいじゃない? 前者はそれこそエラー訂正できない時点でダメだし、出来たらソースと同じデータに絶対なるはず。もし補完でなんとかしている、という話であれば補完部分が若干変なデータになるのはわかるけど、そんな方式だっけ? 傷
何がしかが事実であるかどうかを語るためにはそれなりの背景知識とそれなりの見識をもった上で証拠を積み上げていく必要があり、その場に居合わせたとかではない限り、その事実は論理的な帰結でしかない、居合わせたとしてもあくまで観測者としての一視点で捉えた事実に過ぎず、タイムマシンと思考読取装置のあわせ技でもない限り真実は絶対に捉えられない、という歴史観(というと違う気もするけど)を持っている人がいたら、その人は「絶対的真実はない」というかもしれない。 見識を持たないことに対する誠実な態度としてとりうるのは。口を噤むしかないのだろう。自分の見識をもって語れない以上、他人が主張する何がしかを留保なしに事実とは認めがたい、という立場としては。 それでも言及せざるを得ない状況に立たされた場合、「絶対的真実はない」としか言えないのではないかと思う。「自分は知らない。だから権威(あるいは主流派)が正しい」なんて
別に運営費用を広告収入でまかなっている団体が多かろうが、直接料金で回収してはいけない理由は何一つない。ビジネスモデル的に間違っていたらうまくいかないだけでしょ。 月額三万?無償もあるけど企画を審査? 何様?気象庁が出す天気予報って税金で作られてるんだよね? http://neta.ywcafe.net/000948.html すでに気象予報協会と気象庁がぜんぜん違うということは大勢に指摘されているけれども、まあ、国土交通省気象庁所管の公益法人だから役所の一種と考えても大外れではないかもしれない。でも、そもそも「税金で作った」としても利用料を払っているものはいっぱいあるでしょ。高速道路とか高速道路とか高速道路とか。あと新幹線とか新幹線とか新幹線とか。 公益法人がばんばん広告収入を得るってのもおかしな話だし、月額3万は確かに高い印象があるけど、個人は企画審査に通ればよいんだよね?むやみにサーバ
そんなわけで、メインPCの更改のためのパーツ集めに行って来ました。 まず池袋のビックパソコン館で値段チェック。ここより高い店とかあったらやだからね。で、アキバに到着。数ヶ月ぶりなんだけどなんだか風景が違う。日曜なのにホコ天もない。事件の爪あとを感じつつ。駅前にできた新しい?石丸のパーツ売り場に行く。正直ビックと大差ない。これはいかん。 無常にもシャッターが閉まったTSUKUMO Exの脇を通りながらパーツショップへ。筋肉痛をおして来ているので安直にクレバリーとTwoTopとT-Zoneをはしご。値段チェックしながらサブPCの構想を練る。 サンボが休養中だ。何があったのかなあ。 クレバリーは相変わらずDSP版のOSが安い。HDDも安い。TwoTopに行くとあからさまにT-Zone対抗で色々やっているのに笑った。CPUが安め。T-Zoneはなんだか磐石の構え。しかし、ビックとの価格差は多少でし
某所のエントリとは違う話になりそうなので言及はせず。 仕事なんかは特にそうだけど、運が悪い、というのは物事の起きた原因の一つ(あくまで一つ)を説明することに過ぎなくて、実際に取らされる責任は、起きたことによる結果に対する責任なんだよね。まあ、責任を取る、という言葉を「0:10」の全面的責任と捉えてしまうとそれは理不尽。でも交通事故なんてこっち側に責任がなくても「0:10」で責任無しにはほとんどなり得ないことを考えると世の中バランスを取る方向に動こうとはしている、ということは感じます。 起きてしまったことに対して「運が悪かったね」で済ませることができるならこれほど簡単なことはありませんけど、結果として会社が予定していた収入もなく、ボーナスが減った、というのはしかたのないこと。 景気のいいときに実力のあるエンジニアがほとんど専属みたいな形でフリーになったらサブプライムで財政が破綻して切られた、
愛の鞭と暴力と区別をつけるのが容易でないから。 あと、条件付けみたいな発想を嫌う人が多いからかな。 いろんな意味で人間をプラスの方向には信じすぎているしマイナスの方向には信用してないから、体罰がなくても人間は更正するし、体罰を許せば教師による暴力が蔓延ると思っているんだ。それは事実ではあるし、事実ではない。ケースバイケースを否定しているんだよね、こういうのは。もっというと、体罰によって更正し、救われるかもしれない人を切り捨てている。一方で、体罰を容認するというのはその体罰によって人生を狂わさせるかも知れない人を切り捨てている。であれば、人間のプラスの可能性を信じたほうが上手くいかなかったことをその人個人の自己責任にできるから楽だよね。 社会として他人に関わるっていうのはそういうことなんだよな。社会の負うべきリスクが個人に転換されてきているだけかもしれん。 体罰なんて必要ないと思うし、基礎的
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