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ブックマーク / brighthelmer.hatenablog.com (11)

  • 結局は「制度」が大切なのだ、という話 - 擬似環境の向こう側

    いまから20年以上前、英国のホームレス報道ついて分析した論文で、以下のような指摘がなされている。 よりリベラルであったり、ホームレスに対して同情的なアプローチに立脚する一部のメディアは、その他のメディアに劣らずステレオタイプに依拠している。公衆の一般的な態度を反映して、それらのメディアは以下の事実を認めることに困難を覚えてしまう。その事実とは、ホームレスである人物が好ましくない人物であると同時に、支援を必要としている人物でありうるという事実、多くのお金を飲酒、またはドラッグに費やしすぎると当時に十分にべられるだけの支援にも値しうるという事実、部分的には自分自身の行為のせいで最後の家を失ったものの、いままさに頭上に屋根を必要としているという事実である。 (出典)Platt, S. (1999) ‘Home truths: media representations of homelessn

    結局は「制度」が大切なのだ、という話 - 擬似環境の向こう側
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    REV 2021/04/13
    増税を厭い、我先へとEVへ突入し、優先席を占拠する「大衆」を掣肘し、そしてバリアフリーへの予算を直ちに(24時間以内に)支出する「制度」が屏風から出てくるところが見たい
  • ネット上で社会学者の評判はなぜ悪いのか - 擬似環境の向こう側

    こんなタイトルのエントリを書くというのは、正直、悩ましい。 というのも、ぼくは社会学の正規教育は受けておらず、自分が社会学者だとはちょっと名乗れないからだ(制度的な理由で学位は「法学」だ)。 とはいえ、社会学部に勤務しているのは確かだし、社会学的なものに親しみもある。以下の文章は、あくまでそういう中途半端な立ち位置から書かれた「個人の感想」だということをまずは述べておきたい。 ネット上での社会学の評判はよくない。大変によくない。 実のところ、ネット上で積極的に発言をしている社会学者の数はさほど多くないと思うのだが、通常は社会学者だとはカテゴライズされない人も、「政治社会に関する発言をしており、かつ多くの人びとから反発を買っている人文社会系の学者」は「社会学者」とみなされてしまうことが結構ある。 それではなぜ、ネット上で社会学者はこんなにも嫌われるのだろうか。 社会学者が嫌いな人からは当然、

    ネット上で社会学者の評判はなぜ悪いのか - 擬似環境の向こう側
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    REV 2020/02/25
    特に社会学者や社会学そのものを誹謗中傷した覚えはないのだが、科学技術社会論って御用Wikiの作成が仕事って偏見を持ってからもうすぐ9年。
  • 「愛国教育」の行き着くところ - 擬似環境の向こう側

    愛国的な教育を標榜する小学校が大きな話題になっている。 森友学園による元国有地の取得価格が安すぎるのではないかという疑惑に端を発して、さまざまな問題が語られている。言うまでもなく、国有地の取得過程や同学園の教育内容に関して、語りうる資格をぼくは持たない。あえて言うとすれば、子どもたちが健やかな環境のもとで学んでいけるよう決着させることが大人としての責任だろう。 このエントリで取り上げたいのは、森友学園の籠池理事長がTBSラジオの番組である『荻上チキ・Session-22』に出演したさいに語った内容についてだ。籠池氏が語った内容については、その音声および抄録の書き起こしが公開されているので、興味のある方はそちらを参照されたい。 籠池氏は冒頭、自分たちは子どもたちに「性善説」を教えていると語っている(先の書き起こしには未収録)。同氏の言う「性善説」の定義は定かではないが、文脈から言って「人は善

    「愛国教育」の行き着くところ - 擬似環境の向こう側
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    REV 2017/03/03
    「客観的事実を軽視して、主観的印象を重視すべきではない」と思っていたが、「客観的事実は人をスポイルする。主観を主張する人に寄り添うべき」っていう大合唱が始まってからもうすぐ6年。
  • 二つの自己責任論(追記あり) - 擬似環境の向こう側

    では自動車に乗るさい、シートベルトの着用を義務づけられている。近年では後部座席に座るさいにも義務づけられるようになった。 考え方によっては、これは非常にお節介な話である。シートベルトをするかしないかというのは基的に個人の選択の問題であって、もし事故にあって自分の体が車から飛び出すようなことになっても、それは人が死ぬだけの話だ。だから、国があーだこーだ口を出すような問題ではない。これは「自己責任」の問題なのだから。 ケント・グリーンフィールドは著書『<選択>の神話』のなかで、このような自己責任の考え方とともに、もう一つの考え方を紹介している。 シートベルトの例を再び用いると、それをしないことによって害を被るのは決して人だけではない。車を飛び出した自分の体が誰か別の人にぶつかるかもしれない。あるいは車から体が飛び出す瞬間を目撃させることでたまたま周辺にいた人にトラウマを与えてしまうか

    二つの自己責任論(追記あり) - 擬似環境の向こう側
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    REV 2015/01/24
     分別的自己責任論は公的抑圧を引き起こすからクソ。選択的自己責任論は社会救済を切り捨てるからクソ。掛け金ゼロで支払い充実の保険が望まれる。
  • 「話せばわかる」という欺瞞 - 擬似環境の向こう側

    ぼくが電話回線を使ってネットに初めて接続したのは、いまからもう20年近く前の話だ。日でインターネットの商業利用が開始されてからまだ数年しか経っておらず、当時のぼくにとってネットはそれほど面白いものではなかった。 むしろ、ネットに接続するついでに加入したパソコン通信のほうがずっと楽しかった。若い人だと知らない人も多いかもしれない。ぼくが参加していたのはASAHIネットだったが、そこでは様々なフォーラムが用意されていて、関心のあるフォーラムに入れば見知らぬ人と特定のテーマで意見を交換することができた。画像のやり取りはできないので、完全に文字だけのコミュニケーションだ。 実にこっ恥ずかしいことをぼくもいろいろと書き込んだりしていたのだが、そこではどうしても参加者間の衝突が起きた。ASAHIネットでは実名でのやり取りが前提だったが、それでもかなり激しいやり取りが行われることがあった。最大規模を誇

    「話せばわかる」という欺瞞 - 擬似環境の向こう側
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    REV 2014/05/31
    ネットの議論とは、各人が公園に屋台を出し、ラーメンや蕎麦やパスタを作って観客に評価を問うものだと思ってる。どんなに口上が素晴らしくても、不味そうなのは勘弁。あと、隣の屋台の鍋に唐辛子放り込む奴も
  • 「ドロドロしたもの」の政治学 - 擬似環境の向こう側

    かつて田中角栄は「政治は欲望の分配」と述べたのだという。 政治家には様々な人びとが利権を求めて群がる。それをどう調整し、多くの人びとを満足させるかに政治家の手腕はかかっているというわけだ。利益の調整を得意とした田中らしい言葉だと言える。 もちろん、それが政治の全てだと言うわけではない。だが、政治システム論で有名な政治学者デヴィッド・イーストンもまた、政治を「社会に対する希少価値の権威的配分」と定義している。カネ、資源、名誉、糧。いずれにせよ万人が欲しいだけ手に入れられるものではない。だからこそ、政治が権威をもって人びとに納得させるかたちでそれを分配しなくてはならない。 裸一貫で叩き上げた政治家ときわめて抽象的な理論で鳴らした学究の徒とが奇しくも類似した結論に到達しているのを見ると、やはり政治と欲望は密接に結びつかざるをえないのだろうと思う。 ここでは、政治にまとわりつくこのような欲望を「

    「ドロドロしたもの」の政治学 - 擬似環境の向こう側
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    REV 2014/02/28
    C1に直結せず、外環を通じて5号池袋線に接続されるのみの関越自動車道に乗る度に、「家から選挙区まで直行」と言われた田中角栄を思い出す。
  • リベラルなナショナリストに勝ち目はあるか - 擬似環境の向こう側

    前回のエントリが意外なことに結構多くのブックマークを集めた。ブックマークのなかには「リベラル・ナショナリズム」について言及しているものもある。そこで、このエントリではリベラルなナショナリズムを取り上げてみたい。 …のだが、まずはぼくの個人的な体験談から。 あれはぼくがまだ大学院生だったころの話。友人と飲み会のあり方について議論をしていたときのことだ。ぼくは以前のエントリでも書いたように、アルコールに弱いこともあり、一気飲みなどで盛り上がるのが好きではない。たとえそれほど盛り上がらなくても、個々人が好きなように飲めば良いではないかという立場だ。それに対して友人は、飲み会で重要なのは場のノリなのであって、そういう空気を乱す行為は良くないと主張していた。 そこでぼくが思ったのは、思想の左右と集団主義的な思考というのはあまり関係ないのではないかということだ。というのも、思想的に見ればその友人はぼく

    リベラルなナショナリストに勝ち目はあるか - 擬似環境の向こう側
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    REV 2013/12/27
    ナショナリズムを「国のために死ね、という思想」だとしても、「党のために死ね」よりは良さそうな。
  • リベラルのことばが届かない - 擬似環境の向こう側

    ネット上では「サヨク」や「リベラル」を嘲笑し、罵倒する言葉に溢れている。 そもそも、誰が「サヨク」で誰が「リベラル」なのか、いまいちはっきりしないのだが、たとえば『朝日新聞』でよく見るような意見の持ち主を指すと考えていいんじゃないかと思う。護憲、歴史修正主義に反対、国際的融和の重視、反ナショナリズムといった主張がそれにあたる。他方で、格差や貧困の是正や社会保障の拡充などは典型的な左翼的主張だとも言えるが、この点についてはそれほど批判されない。 いずれにせよ、ここではそうしたリベラルの「ことば」が届かないという事態について考えてみたい。まず、12月25日の『朝日新聞』に掲載された星野智幸さんの論説を一部紹介しておこう。 それにしても、不思議に思う。あれほど政治や社会を熱く語ることを毛嫌いし、冷淡だった人たちが、今にしてなぜ、こうもナショナリズムに入れ込んでしまうのか。(中略) ナショナリズム

    リベラルのことばが届かない - 擬似環境の向こう側
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    REV 2013/12/27
    ♪何故 嫌いですか 何故 好きですか 左ですか 右ですか ああ聴こえない ああ届かない(リベラルの言葉が)
  • 民主主義の黄昏 - 擬似環境の向こう側

    ネットでは麻生さんの「失言」が話題だ。たとえ発言を文字起こししたものを読んだところで、麻生さんが何を言いたかったのかは結局よく分からないのではないかという印象がある。 それはさておき、麻生さんの発言をきっかけとしてワイマール憲法やナチス、全権委任法などに関する関心も高まっているようだ。もしかすると、現在の日もそういった事柄に関心を寄せざるをえない事態に至っているのかもしれない。(このエントリとか) 残念なことに、ぼくはドイツに関してはそれほど勉強しないので、当時の状況がどうだったのかということについてははっきりと言えない。ただ、当時において民主主義に対する懐疑が高まっていたのは、ドイツに限った話ではない。議会主義の母国と言われるイギリスにおいても、民主主義への批判は強まっていた。 実際、イギリスにおいてもファシズム団体はいくつか生まれていた。そのなかでも、もっとも多くの支持者を集めたのが

    民主主義の黄昏 - 擬似環境の向こう側
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    REV 2013/08/01
    没落した中流が、排外・(名誉ある時代への)復古・経済成長を謳うファシズムへの支持を叫んだとき、他の国民が取るべき手段が、ほんのちょっと気になる。
  • 「批判」と「私刑」のあいだ - 擬似環境の向こう側

    ブログを炎上させた岩手県議が自殺した。この件で、ネット上では大きな騒ぎになっている。 実際には、果たしてブログの炎上が直接的な動機だったのかはもう誰にも分からない。ただ、少なくとも間接的な原因になった可能性は高いだろう。 この件に関して、すでにネットではいろいろな議論が展開されている。たとえば、ネット炎上は私刑にすぎないというこうした意見がある。それに対しては、私刑と批判は違うという反論も提起されている。 そこで、ここでは批判と私刑の違いについて少し述べてみたい。ぼくが考えるに、この両者を隔てるものは以下の2点だ。 (1)    数に頼んだ批判になっていないか たぶん内田樹さんの『街場のメディア論』だったと思うのだが(いまは手元にないので確認できない)、マスメディアの報道に関して「それは報道に値するか」という問いかけがあったと記憶している。ここで言う「報道に値するか」といのは、通常の意味で

    「批判」と「私刑」のあいだ - 擬似環境の向こう側
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    REV 2013/06/25
    「粗暴な言動、電凸など個人生活への侵害はアウト」あたりは共通認識だと仮定しても、集団への「暴言」が集団としての反響を呼び、それをネットスクラムと称してアフターバーナー掛ける行動は遥か以前から
  • ツイッター・トリクルダウン - 擬似環境の向こう側

    (ツイートからのサルベージ+α) フォロワーの少ないぼくみたいなアカウントのツイートでも、ごく稀にRTの連鎖が起きることがある(たいした数じゃないけど)。その流れは、だいたい以下のようになる。 ぼくがツイート→ぼくをフォローしているフォロワー多めの人がそれをRT→ぼくをフォローしていないフォロワー数絶大の人がRT→拡散 つまり、情報の流れから言うと、ツイッターのアカウントはピラミッド構造になっている。フォロワーの少ない下層アカウントからフォロワーの多い上層アカウントがツイートを吸い上げて拡散する、という構造だ。 言い換えると、ピラミッド上層のアカウントが下層アカウントのツイートをRTによって吸い上げれば吸い上げるほど、下層アカウントでも自分のメッセージを広く伝える伝えることができる。これをツイッターのトリクルダウン理論と呼ぼう*1。 以上の流れを図式化すると以下のようになる。 直感的に言え

    ツイッター・トリクルダウン - 擬似環境の向こう側
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    REV 2013/06/19
    個人サイトの頃を思い出す。
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