こういうと驚かれるだろうか。私は、数十年にもおよぶ痛みの記憶を、言葉によって連帯することは不可能だと思っている。 たしかに個人的な記憶や体験を言葉にすることで、聞き手を惹きつけ、共感をもたらすことはある。しかし、私のことを嫌いな相手には、そもそも聞く耳を持ってもらえない。 しかし、みんなに理解してもらえるように耳馴染みのいい言葉ばかりを並べれば、どうしたって「ふつう」の話になってしまう。そうやって多くの人に語りかけ、大きなことを成さんとする「政治」に、私はかかわりたくない。 私が成すべきことは、私のことが大嫌いだという地元のお爺ちゃんと共に作業をするなかでいかに信用し認めてもらうかということで、それは「まろやかな言葉」を使って、自分とは違うものを、さも同じようなもののように勘違いさせることではない。「ありのまま」で同じ土俵に立つのなら、前提やプロセスをすっ飛ばして、結果で判断してもらうしか
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