今日(こんにち)をもち、天皇としての務めを終えることになりました。 ただ今、国民を代表して、安倍内閣総理大臣の述べられた言葉に、深く謝意を表します。 即位から三十年、これまでの天皇としての務めを、国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした。象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します。 明日(あす)から始まる新しい令和の時代が、平和で実り多くあることを、皇后と共に心から願い、ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。
![天皇陛下 最後のおことば 全文 | NHKニュース](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/461f2f5918492b1430236eb60be5755a9d908dd8/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fwww3.nhk.or.jp%2Fnews%2Fhtml%2F20190430%2FK10011901961_1904301717_1904301720_01_03.jpg)
2019年4月28日(日)。平成最後の年。横浜スタジアム。あと3日で新元号の令和になるというタイミングで、平成という時代を代表する一人のアイドルが卒業公演を迎えた。アイドルシーンはAKB48登場以前以後で大きく変わったと言えると思う。その中でも代表格といえるのが、AKB48が輩出し、平成のラスト10年間のアイドルシーンでトップを走り続けてきたと言っても過言ではない指原莉乃ちゃんだろう。 もちろん指原莉乃のデビューの2008年からそうだったわけではない。指原莉乃が頭角を現したのは選抜総選挙で4位だった2012年あたりからか。HKT48への移籍、太田プロへの所属などがあったにせよ、次の年(2013年)にシングルのセンター(選挙1位)に選ばれると、そこからはAKB48グループ、アイドル界、のみならず若手女性タレントのトップランナーとして走り続けてきたと言っていい。それは平成の終わりの2019年現
バンクシーのネズミはなぜ傘をさしているのか? ストリートの現実主義とファンタジー 2019年1月に東京・日の出で発見され、都が撤去した「バンクシー作品らしきネズミの絵」。本作の議論のひとつが、バンクシーのものかという作品の真贋。また、バンクシー本人によるものだと判明した場合にも、作品を一般公開することは公共物に描かれた「落書き」を都が認めることになり、ダブルスタンダードではないかという批判も出ている。また、バンクシーの手法を真似た作品も日本各地に出現するなか、「この騒動すべてがバンクシーの作品と呼べるのではないか」という指摘もある。バンクシーに直接インタビューをした経験を持ち、バンクシーに関する本の翻訳を多く手がけてきた鈴木沓子は、一連の騒動をどう見ているのか。作品の意味を解説する。 文=鈴木沓子 東京・日の出駅近くの防潮扉で発見されたラット(ネズミ)のステンシル画 画像提供=東京都 バン
ロボットアニメの金字塔『機動戦士ガンダム』のキャラクターデザインと作画監督をつとめた安彦良和氏。後にこれをコミカライズ(マンガ化)したことでも、世界的に広く知られている。 2019年は『機動戦士ガンダム』のテレビ放映開始から40年の節目にあたる記念の年である。『ガンダム』生誕40周年に合わせ、安彦氏によるマンガ『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』のアニメ化作品が、『機動戦士ガンダム THE ORIGIN 前夜 赤い彗星』(テレビシリーズに再編集)として、4月29日からNHK総合テレビで放送される。喜びと興奮を抑えられないガンダムファンは多いのではないだろうか。 この記事の写真を見る 『機動戦士ガンダム』から始まって、その後のマンガ諸作品に至る一連の作品群に通底する安彦氏の思いと作品に込められたメッセージは、複雑化した現代を生きる者の胸に重く迫ってくる。 評論家の杉田俊介氏が、安彦作品
寝ているあいだに移動できてホテル代も浮くのが利点だった夜行列車。しかし交通や宿泊事情の変化に伴い、姿を消したり、クルーズトレインへ「進化」したりしました。平成時代の夜行列車の変遷を振り返ります。 豪華な寝台列車は「乗ること」が目的に 1988(昭和63)年9月7日、フランスのパリ・リヨン駅の案内板にフランス語で「オリエント急行・東京行き」の文字がありました。映画の撮影ではありません。フジテレビが開局30周年企画として、本物のオリエント急行を日本まで走らせたのです。日本の鉄道史において最も「バブリー」なエピソードは、これをおいてほかにはないでしょう。 1988年3月、青函トンネル開業とともに運行を開始した寝台特急「北斗星」(2014年10月、恵 知仁撮影)。 フランスを出発した列車は、ヨーロッパ諸国、ソビエト連邦(当時)、中国を経由してユーラシア大陸を横断すると、香港から船で日本に渡り、広島
2018年10月に吉野家の1号店は築地から豊洲市場に移転した。他店とは違うユニークな運営がされている。創業精神を受け継ぐお店に行ってみた。 「あ、吉野家の1号店だ」 ここは豊洲市場(東京都江東区)内にある吉野家の豊洲市場店。店の前を通り過ぎた観光客らしき男性はこのようにつぶやいた。 2018年10月11日の豊洲市場開場にあわせ、築地市場内で営業していた吉野家の1号店が移転してきた。移転から半年以上が経過しているが、客層やオペレーションでどんな違いがあるのだろうか。実は、同店は他の吉野家ではあまりみられないユニークな運営をしているのだ。 吉野家1号店の歴史 まず、吉野家の歴史と1号店の概要について解説しよう。 吉野家が創業したのは1899年。当時、東京・日本橋では多くの職人たちが魚市場で働いていた。職人たちは多忙だったため、まともに食事をする時間をとることができなかった。また、大変な重労働だ
4月中旬、カタカタとパソコンを打つ乾いた音だけが響き渡るオフィスフロア。ちょうど午後7時を過ぎた頃、ある会社で新入社員の声が元気に響き渡った。 「お疲れ様です、お先に失礼しまーす!」 先輩たちが作業を続ける中、他の新人も彼にならい、恐る恐るコートを羽織り、申し訳なさそうに「お先に失礼します……」とオフィスを後にした。このような光景を見て、皆様はどのように感じるだろうか。「けしからん!」と思った人も少なくないはずだが……。 「いやあ、残った先輩社員たちは何も言えずにお互いを見合うだけで……。以前なら『もう帰るのか!』とか『他の先輩は残っているぞ!』と怒号が飛んだものです。時代は変わったなあと」 都内の大手物流会社勤務・橋田隆介さん(仮名・30代)は、部下8名を抱える部署の課長である。橋田さんが新人の頃は、19時の定時チャイムが鳴り、自分の仕事が終わっていようとも、先輩たちに「自分にも何かでき
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