電子会議室での議論は、良い議論の条件を満たしにくい インターネットを代表とするネットワークの普及によって、議論の場として電子会議室を用いる機会が増えてきた。自宅にいても参加できるとか、好きな時間に発言できるなど、顔合わせ会議にはないメリットがある。 しかし、電子会議室を用いた議論は、顔合わせ会議に比べると、建設的な議論が難しいという欠点を持つ。理由は簡単で、質の高い議論に必要な要素を満たすのが非常に難しいからだ。どのような欠点があるのか、代表的なものをいくつか挙げてみよう。 最大の欠点は、検討対象の全体像が見えない点だ。通常の顔合わせ会議なら、重要な発言をホワイトボードに書きながら、検討対象の全体像を明らかにしようとする。しかし、電子会議室では、個々の発言だけが飛び交い、全発言から得られた内容を整理しないことが多い。もし整理したとしても、整理した結果も1つの発言と同じ形で投稿され、全員が常
自分と対立する立場の資料を積極的に収集する。 (自分の仮説を反証するために資料を集める気持ちが必要) できるだけオリジナルに近い情報を優先する。 まことしやかな「数字」はまず疑い出典を確認する。 自己の文章中では出典を明記する。 利害関係のない(or 少ない)立場からの情報を優先する。 リフェリーによる査読を通った論文は、この原則に合致すると(とりあえず)推定できる。 裁判は、判決(=判断)よりも、証拠資料(=情報)の方が重要である(判決と史実は別概念)。 内部矛盾のある資料は信頼性が低い。 インターネット検索ではキーワード選択によるヒット結果の偏りに注意する。 ([例]特定の学派のみ使う用語で検索すれば、ヒット結果はその学派に偏る →その学派が主流であると判断すれば誤る) 【べからず集】・【資料の収集と評価】を実践していない資料は信頼性が低い。 真っ当な意見と見せかけ、実は詭
議論と運動 「死ぬ死ぬ詐欺」問題をはじめとする匿名言論卑怯論は2ちゃんねるという環境の中で醸成されてきたいくつかの空気に対する反応ではないかと思っています。つまり、単に匿名というだけではなく、それに「数の暴力」が掛け算されたことによって起こる現象がどうにもなあ、という話なんじゃないかと。 これはどういうことかというと、以下のような話なんじゃないかと思います。 感想レベルの稚拙な意見であってもそれが共感を呼べば正義と化すことで、まっとうな意見を言っても工作員呼ばわりされたり本人乙と言われてしまったり。もちろん、本質を突いていることもありますが、どちらも仮説でしかないのに、個対多の戦いになってしまうことで客観的ではなく主観的に、すなわち数が多い方が合理的かどうかは問わず優勢になってしまうことがままあります。ある仮説が優勢になると、その裏を取ろうとする動きが始まります。公と私の微妙なラインまで踏
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