考察するもんヒロン師匠(id:hrykm169)にdeeply inspiredなのだけど書いてみるよ*1。20代半ばくらいの人が悟ったように書いた文章を50代までいかなくても、40代以上の人はどう思うんすかね。id:hrykm169 - hrykm169 - はてなハイク振り返ってみると、オレほんと10年くらいのネット歴のなかで、ブログ書いてたこともあるし2chに書いたりmixiに書いたり増田に書いたり*2してきたけれど、ネット上で派手に叩かれた*3記憶がないんですよ。いやこれでも叩き上等なんだけど*4。むしろもっと叩かれたくてケツの穴がウズウズしてるくらいなのだが、叩かれない。中学・高校の頃から非コミュ路線まっしぐらだったけど、いじめられても不思議じゃなかったのに、なぜか一度もいじめられたことがない。なんか妙に叩かれにくい体質であるらしい。不思議なことに。叩く価値を認められてないのかも
個人的な覚書として書こうと思う。 このメモの対象として考えているのは、いきなりはてブのホットエントリにあがって、 そこで地味にやってきたときは考えもしなかったような反応を受けて戸惑ってるような人。 「はてな」なりその他のネットでいろんな「いざこざ」を体験してきてる人は、 自分なりの方法論があると思うけど、そんな方法論はもちあわせてないよ、という人。 「あんたのせいで傷ついた」とかショックをうけたとか、謝れとか、 やめろとか、謝罪しろとか、死ねばいいのにとか、まあその他もろもろの理不尽な反応があって、 「このブログのせいでそんな気持ちになるんだったら申し訳なかった」 とか 「このブログを削除したって別にかまわないしなぁ」とかそんなことを考えてしまう人。 最終的な結論を出すのはブログの持ち主なのだけど、私としては「削除」はしないことを勧める。 基本的には、削除するくらいなら最低一ヶ月は放置する
モバゲーというか、若年層対象といわれる類のネット全般にいえるのかもしれないが、なんかそこいらへんのコミュニケーション雑感。 しばらく前にぱどタウンブームがあった。あのとき興味深いなと思った用語に「はしご禁止」があった。 はしごというのは、自分の仲介なしに、自分の公開されているフレンドリストを辿ってコミュニケーションを深める行為、だったっけか。ようは「ぼくに断りなく、ぼくのともだちとともだちになるのを禁止します」ってことだ。普通の感性でいえば無茶苦茶な主張にも思えるが、おそらくこれはごく身近な対象(友達の友達程度の範囲まで)へ向けられたもので、彼らの交友関係における、彼らなりの仁義なのだろうと思う。オフラインで考えれば、教室で「○○ちゃんはあたしの友達!ほかのひとは勝手になかよくしちゃダメ!」とかそのての台詞を吐く小学生もそんな珍しくはないだろうし。幼稚だけど。 誰でもアクセスできる範囲の
▼永遠に喪われ続けるポストエヴァ。 エヴァで『おめでとう』そしてAIRで『ゴール』した先の時代ってのは YouTubeだったりニコニコだったりブログだったりとかツールの時代なんだよね。 つーか、とうとう着ちゃったんだよね「圧倒的な楽園」に。 批評のインタラクティブ性と社会接続性が奪われちゃって。 「読みの理論」だけが残った、ともいえるかもしれない。 と、とにかく。ソーシャルブックマークの事を『KA☆RA☆SA☆WA @ マッシュアップ』とか呼べばみんなの溜飲が下ると思います! KA☆RA☆SA☆WA氏のブログを引用してた俺涙目。 ▼もう、世代共通の名作はやってこない?(ポストエヴァは高確率で生まれない、その代替としてのwebサービス) SF1000冊読め、名作だけは押さえておけ、昔言われたのは、それが必要なソフトウェアでSF1000冊がインストールされてないと、特定
昔、みんながいたところ。 この感覚、自分の中にもあるのが感じられる。自分もケータイ以前文化の人間だし、中学・高校・大学とそれぞれにそういった場所を実際の生活の中で持っていた。 そして、社会人になった後は NIFTY-Serve のフォーラムがその「場」の役割を果たしていた。当時のネットワークサービスは、まず場が用意されていて、そこに人が集まってわいわいと話をする、という形のものであった。NIFTYに限らず、PC-VANやASCII-NETその他のサービスや、無数の草の根BBS。その中で人同士が繋がりを得て、フォーラムそのものとは別の形のコミュニティができることはあったけれど、基本は「○○フォーラムの誰それ」だった。 今、ネットワーク上にあるのは「場」ではなく、個人ひとりひとり。その個人の間に橋を渡すようにして、コミュニティができている。面積をもつ「場」ではなく、無数の点のような「島」とそれ
mixiは大分前にアカウントを消して、今は友人の日記閲覧用のほとんど空のアカウントを残しているだけなのですが、最近になって数少ないマイミクが続けざまに二人mixiを脱退しました。 前に「mixi疲れ」を心理学から考えるという記事を読んだのですが、mixiの「人間関係」に辟易して去っていく人というのが少なくないように思います。 もちろんイヤならやらなければ良いだけですし、自分に都合の良い利用の仕方をすれば済む話なのですが、実際上の是非やら功罪やらはまったく別にして、「この鬱陶しい感じはなんなんだろうなぁ」というのが気になります。 リアルな人間関係だって鬱陶しいことはあるのですが、mixi付き合いにはmixi付き合い独特のウェットさがあるように感じてなりません。 足跡機能や招待制というシステム(有名無実化していますが)、マイミクによる紹介文やマイミクから人間関係を辿れること等、具体的要素を挙げ
何千年も前の遺跡から「最近の若者は……」と書かれた出土品が出てきた、という話をご存じの方は多いと思います。でも、これって本当の話なんでしょうか? 今日は、「最近の若者」のルーツを追っかけながら、ネット社会と統一されない自己について考えます。 人の話す言葉のどれが正しいとするかは、なかなかむずかしいことです。それはどこに基準点をおくか、いつの時代、どこの言葉を基準とするかによります。どれが正しいかというところに踏みこむと、保守的な態度の人、新しいことを好む人、いろいろあって、その人の人生や世界に対する考え方が言葉の選択の上に出てきます。今から何千年も昔の楔(くさび)形文字を解読したところ、「このごろの若者の言葉づかいが悪くて困る」とあったそうです。言葉は人間の行為だから、保守的、革新的という相違があるのは当然です。 大野晋『日本語練習帳』より 日本語ブームの種火となった『日本語練習帳』です。
「他のソーシャルネットと何が違うの?」 寡黙でニヒルで可視化可能です。試しに僕のページや僕の地図を見て下さい。細かいお話はヘルプにあります。 「はじめてみたいんだけど、誰か招待してくれない?」 招待制ではありません。今すぐ参加出来ます。
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