文/鈴木拓也 喜連川藩は、今の栃木県さくら市喜連川にあった日本最小の藩で、たった五千石の「貧乏」藩でもあった。それでいながら、清和源氏の流れを汲む足利氏の直系ということで、徳川家から破格の扱いを受け、家格は十万石相当、参勤交代など諸役は免除され、御所の称号を許されていた。喜連川藩主だけが、なみいる譜代大名クラスをおさえ「御所様」と呼ばれていたのである。 しかし、家格は高くても、いかんせん五千石の規模なので、藩の台所事情は常に火の車であった。それを代々の御所様は、知力の限りを尽くして乗り切ってきたのである。 こうした、喜連川の代々藩主の金策をつづったノンフィクションが、今回紹介する『貧乏大名“やりくり”物語』(山下昌也著、講談社)である。 例えば、基幹産業であった宿場を徹底的に盛り立てるべく、参勤交代で通過する大名行列(大事なお得意様である)を藩の家中が全員で歓迎した。ある年などは、仙台候が
喜連川家が治める「喜連川藩」は、下野国塩谷郡喜連川にありました(現在の栃木県さくら市)。室町幕府を創設した足利尊氏の息子である基氏の流れを汲んでいます。 室町幕府から関東を治める鎌倉公方に任じられましたが、やがて将軍家とは対立、内紛もあって衰退してしまいました。その上、近隣の北条氏の圧迫もあったのです。 しかし、豊臣秀吉による北条征伐の後、秀吉は名門の血統を惜しみ存続させることにします。 当時鎌倉公方は分裂し、古河公方と小弓公方に分かれていました。そこで、古河公方の跡取り・足利氏姫と小弓公方・足利国朝を縁組させ、下野喜連川に3,500石を与えて喜連川氏を名乗らせたのです。国朝がすぐに亡くなったため、氏姫はその弟・頼氏と再婚しました。 関ヶ原の戦いには参戦しませんでしたが、頼氏は徳川家康に戦勝祝いの使者を送り、1,000石の加増を受けて旗本となります(後5,000石に)。
賛否両論の中でも「こんまりの片づけ」が世界中で大ブレイクする理由【連載】幻想と創造の大国、アメリカ(10) 渡辺由佳里 Yukari Watanabe Scott エッセイスト、洋書レビュアー、翻訳家、マーケティング・ストラテジー会社共同経営者 兵庫県生まれ。多くの職を体験し、東京で外資系医療用装具会社勤務後、香港を経て1995年よりアメリカに移住。2001年に小説『ノーティアーズ』で小説新潮長篇新人賞受賞。翌年『神たちの誤算』(共に新潮社刊)を発表。他の著書に『ゆるく、自由に、そして有意義に』(朝日出版社)、 『ジャンル別 洋書ベスト500』(コスモピア)、『どうせなら、楽しく生きよう』(飛鳥新社)など。最新刊『トランプがはじめた21世紀の南北戦争』(晶文社)。ニューズウィーク日本版とケイクスで連載。翻訳には、糸井重里氏監修の訳書『グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ』(日経BP社
代表選手たちを一挙ご紹介します。 (速報版、写真付きでより詳しい選手紹介は現在準備中です)...記事を見る
2018年04月05日22:11 カテゴリ芸能法律 森昌行社長を敢えて擁護してみる2 26年前の話だった 「週刊新潮」を買ってきて読みました。前回、オフィス北野は東通の後ろ盾で設立されたと書きましたが、森昌行さんが筆頭株主になったのはなんと26年前の東通破綻のときでした。その際に森さんは社長に就任したのだと思います。 これも前回に、 <大阪東通が破綻した平成13年(2001年)だと前過ぎる> というようなことを書いたのですが、それどころか大元の東通が破綻した26年前の話だったわけです。 言い訳めいたことを書くと、そもそも東通が随分前に破綻したと記憶していたのですが、ネットで検索してもそれが出て来ず、「破綻したのは大阪東通だったのかなあ」と思っていたのです。 これについて「リテラ」(!)の「愛人問題を森社長の責任にスリカエ、たけし軍団の声明文がネグるオフィス北野“株問題”の真相とたけしのタブ
代表選手たちを一挙ご紹介します。 (速報版、写真付きでより詳しい選手紹介は現在準備中です)...記事を見る
世界一を目指すプロテニスプレーヤー、錦織圭選手を応援しよう! 【お問い合わせ先】urryy★keinishikori.info (★を@に変えてください。)
今日(3月11日)はいよいよサウジアラビアの「怒りの日」です。サウジアラビア各地でデモ行進が予定されています。 一体、このデモ行進がどれだけ大きい規模になるのか、また当局は力ずくでデモ行進を解散させるのか?、、、、、予測できないことが山ほどあります。 ただサウジアラビアにおける反政府運動の在り方はエジプトやリビアのそれとはかなり違ったものになるのではないかと思います。 なぜならサウジの社会はワッハービズム(イスラム原理主義)により厳格に律せられており、蜂起を困難にしているからです。 言い直せばサウジの戒律は別格的に厳しいのです。 それではサウジの戒律とは一体どんなものなのか? 今日はそのイメージを持っていただくために有名な「プリンセスの処刑」のエピソードを紹介します。 1977年に起きたサウジアラビアのプリンセス(王女)の公開処刑のニュースは世界に衝撃を与えました。 この公開処刑をたまたま
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く