どこに? ここ↓にです。 http://www.city.machida.tokyo.jp/shisei/shiyakusyo/gyomu/kyouiku/ 多言は不要でしょう。
![ザイトクカイはここにもいる! - apesnotmonkeysの日記](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/ef380c8378d6c9804889136e68e2259cd4cec7ca/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fcdn-ak.f.st-hatena.com%2Fimages%2Ffotolife%2Fa%2Fapesnotmonkeys%2F20081226%2F20081226100523.jpg)
1月25日(木)の午後10時から放送されていた「たけしのニッポンのミカタ!〜ニッポンの食卓から魚が消える!?」を録画しておいたのだが、昨日ようやく見た。 のっけから銀座の有名寿司店「久兵衛」の主人がスタジオでマグロを捌いている絵で、嫌な感じ。 三重大の勝川俊雄・准教授がサバ、マグロ、ウナギをとりあげて「食卓から消える危険度」を解説。サバとマグロについては、日本の漁業者が目先の利益を追って未成熟魚を獲ってしまっているという問題(なんと、日本におけるマグロの漁獲の9割がヨコワの段階でのものだという! 実際、近年になって鮮魚売り場でよくヨコワを見かけるようになった気がする)が指摘される。 ここでもう一人のレギュラー、国分太一が「久兵衛さん、でもこれ複雑ですよね。やっぱりマグロは出したいという気持ちはあるけれども、助けたいという気持ちもたぶんあるだろうし……」と、極めて順当なしかたではなしを振った
昨年末のエントリで『週刊ポスト』が血液型診断ヨイショ記事を掲載した件をとりあげましたが、現在発売中の2/1号でもやってくれております。「あまりの反響で詳細続報 人生の9割は血液型でやっぱり決まる」だそうで。表紙をみると「ネットも新聞も雑誌も、なんにも書けないなんて 「言論弾圧」中国どこが先進国だ」という見出しが目につきます。そもそも中国ってそんなに「先進国アピール」してたっけ? という疑問がまずは頭に浮かぶのですが、もちろん言論弾圧がおおっぴらに行なわれる国家が「先進国」と呼ぶにふさわしくない、という点に異論はありません。しかし、『週刊ポスト』の刊行元たる小学館といえば辞書・事典類の刊行などでもよく知られた出版社です。ちなみに小学館の理念は「出版物が世の中全ての悪いことを無くすことはできないが、人の心に良い方向を生み出す、何らかの小さな種子をまくことはできる。人生の中で大きく実となり、花開
昨日テレビをザッピングしていてチャンネルが「ミヤネ屋」にまわったとき、たまたま「“常識”が変わる? 聖徳太子も西郷さんも仰天新説!」と題して、新旧教科書の比較をやっていた。英語では筆記体を教えなくなったことなどがとりあげられていたが、話題の中心は歴史教科書で。「鎌倉幕府成立の年」「大仙陵古墳(仁徳天皇陵)」、そして見出しにもある聖徳太子や西郷隆盛の肖像画が教科書から消えている件などをネタにしていた。 当ブログの読者の方であれば、Wallerstein さんのエントリ「「幕府」の「差分」−源頼朝」をお読みかもしれない。歴史修正主義者が言い立てるインチキとはまったく別の意味で、歴史学において「諸説ある」とはどういうことか、「通説が変わる」とはどういうことか、のコンパクトにしてわかりやすい例証になっている。その他のトピックにしても、日本史に関心のある人間にとっては常識に属するものであろう。 興味
以前にはてブでも言及したことのある件。 NNNドキュメント11' 6月5日深夜 「畳の上の警告 続発する柔道事故と中学必修化」 110人と275人。09年度までの27年間に部活動や授業の柔道でそれぞれ死亡した生徒、障害が残った生徒の数である(中・高校生)。中学校の部活動での死亡率は陸上・バスケット・サッカー・野球・バレーボール・剣道がいずれも10万人あたり0.5人に満たないのに対し柔道では2人を越えている。どちらも上記番組で紹介されていたデータ。 「2009年度までの27年間に中学・高校で計110人の生徒が柔道の部活動で死亡している」そんな衝撃的なデータが、大学の准教授によってもたらされた。柔道人口が日本の3倍というフランスでも、子供が死亡に至った報告はないという。国家資格を有する指導者が、医療の知識も持って指導にあたっているのだ。文部科学省は来年度から中学校で柔道、剣道、相撲の武道とダン
http://d.hatena.ne.jp/quagma/20110105/p1 こちら↑を拝見して。 私は、このエントリーおよびコメント欄において言われている「表現の自由キリッ」について、その意味するところがいまいち把握しきれない感があった。しかし、今回のやり取りを通して、私は「ああ、これか」と思ったのである。 「表現の自由キリッ」っていうのは、本来「表現の自由」の出番ではない場面で「表現の自由」によって自己の行為を正当化できると考えるズレた振舞いを揶揄した言葉なのではないか。 別段このような理解に異を唱えたいわけでもなく、また言うまでもなく「表現の自由キリッ」の定義に関して私が特権的な立場にあるわけでもないけれども、まあこれもなにかの縁と思ってこの機会に私が「キリッ」にどのような意味あいをこめているのか説明しておこうかな、と。 この表現の前提になっているのは次のような認識です。 法規制
何万、何十万という人間の死にこの社会が負っている責任を意にも介さないような「国民の正義感情」が死刑制度を支える論拠足りうるのか? を問題にしたエントリに対して、ブクマなりコメント欄なりで文句つけに来た人間の中に、ただの一人も、たとえただのエクスキューズとしてであれ、「いや確かに小泉の責任が追及されてないことは問題ですが」とか「名古屋市民ですがリコールが成立したら河村たかしには入れません」とか「ブッシュは平和に対する罪で訴追されるべきですが、それでも死刑にすべきでないと思いますか?」とか言ってみせた人間がいなかった、というのは極めて興味深いね。 追記 オレ、ちゃんとこう書いておいたんだけどな。 こういう境地に達するうえで、南京事件否定論者の言動をフォローして来たことは大いに関係しています。「捕虜を殺したのは正当である」と主張するために様々な詭弁を弄する人々を見ていると、そうした主張に対して国
私も以前は「なぜ死刑を廃止すべきか」の論拠をどう表現するかいろいろと考えたものですが、最近は実にシンプルな主張に落ち着きました。「殺すな、という主張に根拠は要らない」です。 こういう境地に達するうえで、南京事件否定論者の言動をフォローして来たことは大いに関係しています。「捕虜を殺したのは正当である」と主張するために様々な詭弁を弄する人々を見ていると、そうした主張に対して国際法やら当時の軍事的情勢やらを引き合いに出して「いや、あの捕虜を殺すのは不当だった」と反論するのは実は間違っているのではないか、とすら思えてきますから。 死刑存置論はしばしば「国民の正義感情」を論拠にしますが、しかしこの「正義感情」たるや、被害者の数が膨大で“顔が見えなくなる”とかえって被害者への関心を失ってしまうようなシロモノです。だって、9割近くが死刑を支持するその社会で、万の単位で被害者のいる大虐殺を否定するために詭
政権交代によってこの「自白の研究」というカテゴリーもいずれ不要になるのでは……という期待を以前に表明したことがありますが、まだまだ当分はこのカテゴリーでエントリを書いてゆかねばならないようです。 毎日jp 2010年6月18日 「取り調べ可視化:対象事件「限定」、法相方針 民主党公約の「全面」、現実にらみ転換」 暴力団など組織的犯罪では報復の恐れなどから容疑者が真実の供述をためらったり、容疑者に知的障害がある場合は容疑者が取調官に迎合する可能性もあるとして、全過程にこだわらない方法も検討するとした。 これ、小倉秀夫さんもすでに指摘されてるけど、「ほんとにこんな意味不明なことを法相がしゃべったの?」とにわかには信じ難いくらい。「容疑者に知的障害がある場合は容疑者が取調官に迎合する可能性もある」というのは可視化が「一部」ではダメで全面的でなければならない理由にこそなれ、いかなる意味でも「全過程
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