西洋政治思想史においてポリスの市民は常に理想的な政治的人間像として描かれてきた。その源泉は名高いペリクレスの『葬送演説』に求められる。この演説は、西洋の輝かしい民主主義を支えるべき人間像を提示したものとして典範としての位置を占めている。自らは貴族の出自でありながらも、ペリクレスは台頭しつつある平民に政治参加への道を開く制度改革を敢行し、アテナイ民主制の黄金時代を築いたのである(1)。確かにそこには今に至るまで民主主義の基本的理念として保持されている幾つかの考え方が提示されている。第一に、法の下の平等(isonomia)と民会で自由に発言する権利(isegoria)が保証されていること。「わが国においては、個人間に紛争が生ずれば、法律の定めによってすべての人に平等な発言が認められる(2)。」第二に、市民権を獲得さえすればその出身の如何に関わらず平等であること。「われらは何人にたいしてもポリス
立命館法学 2000年3・4号下巻(271・272号) 713頁 ジョン・W・バージェスの政治論 - 民族主義的国民国家の原理 - 中谷 義和 (一) 歴史学と政治学 第一次世界大戦頃までのアメリカ政治学は、総じて、ドイツの観念的国家論の影響を脱していなかったと言えよう。F・リーバー(Francis Lieber, 1800-72)に緒をえ、Th・ウルズィ(Theodore Dwight Woolsey, 1801-89)に継承された国家論型アメリカ政治学は、バージェス(John William Burgess, 1844-1931)に至って、ヘーゲルの歴史観とブルンチュリの有機体的国家論の論調を強く帯びるに至る(1)。こうしたバージェスの政治論は、アメリカ政治学の知的文脈に即してみると、リーバー以来の「国家」論型政治学の潮流に位置し、個人史的にはドイツ型知的訓練に負うものである。また、
擬人法の未来 西 成彦 連続講演会 21世紀・知の潮流を作るパート2 第2回(共生テーマ領域) 2002/12/04 於:立命館大学衣笠キャンパス・創思館カンファレンスルーム 16:30~18:30 コメンテーター:渡辺 公三 1 皆さんはテラピアという名前の魚をご存知でしょうか? テラピアではなく、ほんとうはティラピアと呼ぶのがより正確なようですが、目取真俊の小説にはしばしばこのテラピアが傍役として登場します。沖縄ではスズメダイとも言うそうです。目取真俊は、戦後(昭和で言えば30年代)生まれの沖縄作家ですが、その小説には、工場排水に冒されて背骨が彎曲していたり、生きていても悪臭を放ったりする不吉な魚として、テラピアがよく登場するのです。このエキゾティックな響きを持つこの魚のことが気になって、魚類の図鑑にあたってみることにしました。 『沖縄の帰化動物』(嵩原健二他訳、沖縄出版、1997)に
◆Haraway, Donna J. 1991 Simians, Cyborgs, and Women: The Reinvention of Nature, London: Free Association Books and New York: Routledge=20000725 高橋 さきの 訳,『猿と女とサイボーグ──自然の再発明』,青土社,523+XXXVp. ISBN:4-7917-5824-2 3600 [amazon]/[bk1] ※ *ここでは、第8章を紹介する。 〈目次〉 謝辞 序章 第1部 生産・再生産システムとしての自然 第1章 動物社会学とボディポリティックの自然経済:優位性の政治生理学 第2章 過去こそが論争の場である:霊長類の行動研究における人間の本性と、生産と再生産の理論 第3章 生物学というエンタプライズ:人間工学から社会生物学に至る性、意識、利潤 第2
立命館法学 一九九七年六号(二五六号)一六二五頁(四一三頁) 一九世紀末フランスにおける排他的ナショナリズムの様相 ― 反ユダヤ主義の動向を手掛かりにして ― 中谷 猛 は じ め に 概して政治体制の不安定性に悩まされ続けてきたフランスが議会的共和制の定着に成功するのは一九世紀末の時期である。社会構成から見た場合、この体制を支えた社会集団とは農民層であり、上層ブルジョワ階級(たとえば大実業家、銀行家、上級公務員など)であり、労働者階級にも上層ブルジョワ階級にも属さないと言う意味で中間層となる中産階級であった。とりわけ中産階級の実態は極めて複雑で、その社会意識も多様といってよい。ガンベッタがグルノーブル演説で「新社会層」(一八七二年)と呼んだ中小ブルジョワ階級には、伝統的手工業者、小土地所有者、年金生活者、自由職業人(法曹・医者・技師・教員・ジャーナリスト)など様々な職業の人々が含
暴力現象は人間社会のなかで弁別できないほど多様に、また無数に出現する。社会的暴力はけっして等質的ではない。それに応じて暴力を指示する用語もけっして明確には区別することができない。それは言葉の無力が原因であるのではなく、現象の複雑さに由来する。たとえば、ドイツ語のGewaltとMachtは互いに区別しがたい。政治権力はどちらの言葉でも表現できる。暴力と権力は区別しなくてはならないが、言葉の宿命によって区別しがたいだけでなく、事柄の本性によっても区別しがたい。とはいえ、認識の観点からいえば、暴力と権力との差異はもとより、力一般とそれから派生する種々の暴力的現象を区別しなくてはならない。この錯綜の森をどうして切り抜けていくことができるのだろうか。以下では、暴力以前の力が何ごとであるかについて試論を提起してみたい。 線を引くというふるまいは、いわば形なき空間に一本の線を引く、あるいは切断線を刻むこ
立命館法学 一九九六年六号(二五〇号)1699頁(三五九頁) イギリスのネイション・ 国民国家・主権国家の形成とその特徴 -西欧国際体系との関連において- 巣山 靖司 一 は じ め に 湾岸戦争の原因は、一般にいわれている論潮によるとイラクがクウェートの主権を侵害したということである。しかし中東における一般民衆大衆の間では、主権国家 sovereign state という概念は必ずしも根付いていないように思われる。ベドウィン族のような遊牧民にあっては、パスポートの存在すら理解できない者がいるし、事実「国境」といわれるものを無視して交易が行われる場合は多々ある。事実、戦争の過程で国連参加国によって経済封鎖が断行されたが、密輸的な交易は事実上黙認する以外なかったのである(1)。 中東一帯は一八・九世紀にヨーロッパ諸国がきて互に分割・支配する以前には、大きくいってアラブとペルシャに分
立命館法学 一九九七年二号(二五二号)四三九頁(一七五頁) 中谷 猛著 『近代フランスのとナショナリズム』 法律文化社 (一九九六) 加藤 克夫 一 本書は、著者が近年発表してきた九編の論考に、序文を付してまとめた論文集である。著者はフランス近代政治思想史を専門としていて、トクヴィルを中心とした一九世紀フランスの政治・社会思想に関するその研究成果は、すでに、『トクヴィルとデモクラシー』お茶の水書房〔一九七四〕、『フランス市民社会の政治思想ーアレクシス・ド・トクヴィルの政治思想を中心にー』法律文化社〔一九八一〕、『近代フランスの思想と行動』法律文化社〔一九八八〕として公刊されており、本書は著者にとっては四点目の単著である。前著に較べるとき、本書の特徴は次の点にあるといえよう。 第一に、トクヴィルを中心とした自由主義研究が自由主義的カトリシズム、オルレアン主義者に拡張された。第二に、従来から取
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く