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bookと§ Popsに関するakihiko810のブックマーク (5)

  • ①著者、柴那典に訊く。『ヒットの崩壊』はきちんと読まれたのか?

    2016年に出版された音楽関係の書物の中でももっとも注目された作品のひとつとして、音楽ジャーナリストの柴那典が書き下ろした『ヒットの崩壊』の名前を挙げることに異を唱える者はいないだろう。 乱暴に言うなら、彼の著作『ヒットの崩壊』は、主にゼロ年代から2010年代のポップ産業における、ヒットを生み出す構造の変化にフォーカスを当てた書物であり、そうした構造変化と共に、ポップ音楽とその受け手であるリスナーの関係性そのものにいくつもの変容が生まれたことを示すものでもある。 と同時に、『ヒットの崩壊』というタイトルとは裏腹に、多くの市井の人々が自らが暮らす時代を考える上での「対話のプラットフォーム」として機能するだろう、新たな「ヒットの誕生」を祝福する書物でもある。つまるところ、この『ヒットの崩壊』という作品は今に対する厳しい批評である以上に、これからの未来に対する可能性とヒントをちりばめた「希望の書

    ①著者、柴那典に訊く。『ヒットの崩壊』はきちんと読まれたのか?
  • 【読書感想】ヒットの崩壊 ☆☆☆☆ - 琥珀色の戯言

    ヒットの崩壊 (講談社現代新書) 作者: 柴那典出版社/メーカー: 講談社発売日: 2016/11/16メディア: 新書この商品を含むブログ (2件) を見る Kindle版もあります。 ヒットの崩壊 (講談社現代新書) 作者: 柴那典出版社/メーカー: 講談社発売日: 2016/11/16メディア: Kindle版この商品を含むブログ (1件) を見る 内容紹介 激変する音楽業界、「国民的ヒット曲」はもう生まれないのか? 小室哲哉はどのように「ヒット」を生み出してきたのか? なぜ「超大型音楽番組」が急増したのか? 「スポティファイ」日上陸は何を変えるのか? 「ヒット」という得体の知れない現象から、エンタメとカルチャー「激動の時代」の一大潮流を解き明かす。テレビが変わる、ライブが変わる、ビジネスが変わる。業界を一変させた新しい「ヒットの方程式」とは──。 「CDが売れない」と言われて久し

    【読書感想】ヒットの崩壊 ☆☆☆☆ - 琥珀色の戯言
  • 宇多田、林檎、aiko、浜崎……1998年デビューの4人はいかに特別か 初単著上梓の宇野維正に訊く

    音楽ジャーナリスト宇野維正氏が、1月15日に初の単著『1998年の宇多田ヒカル』を上梓した。著は1998年にデビューした宇多田ヒカル、椎名林檎、aikoという、日のJ-POPシーンにおいて多大なる影響を与えた3人のシンガーソングライターと、その“合わせ鏡”としての浜崎あゆみについて触れ、当時の状況や現在の彼女たちからみたアーティスト論を展開したものだ。今回リアルサウンドでは宇野氏にインタビューを行ない、執筆の理由や彼女たちの関係性、1998年という一年がいかに特別だったかについて語ってもらった。 ――『1998年の宇多田ヒカル』は、宇多田ヒカル、椎名林檎、aikoの3人について、当時の音楽シーンと現在の状況を比較しつつ、いかに彼女たちが特別だったかを知ることのできる一冊で、1990年生まれの私には新鮮に映りました。このを書こうと思ったきっかけは? 宇野維正(以下、宇野):もともと自分

    宇多田、林檎、aiko、浜崎……1998年デビューの4人はいかに特別か 初単著上梓の宇野維正に訊く
    akihiko810
    akihiko810 2016/04/04
    jpopは聴かないが、面白い本だった。
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  • 『ニッポンの音楽』が描く“Jポップ葬送の「物語」”とは? 栗原裕一郎が佐々木敦新刊を読む

    「史観」という言葉がある。「唯物史観」であるとか「自虐史観」であるとか、音楽の場合だと「はっぴいえんど史観」であるとか、歴史に対するときに採られる見方や立場、価値判断のことだ。これが極端に偏ると、捏造に基づく偽史や、悪い意味での歴史修正主義に陥ったりするわけだが、無数にある史実のどれを選び、どう評価するかということだけでも、史観は自動的に生じてきてしまうものではある。学校の歴史教科書にも史観はあるし、たとえば、あらん限りの資料を渉猟し、できうる限りそれらをそのまま提示して、1968年という「政治の季節」を実証的に丸ごと描き出そうとした小熊英二の『1968』にだって史観は存在している。 結局、人それぞれに史観はあり、史観の数だけ歴史はあるわけで、主観と客観は史観の強弱のグラデーションでしかないということもできるだろう。 歴史を描こうとする者は、このグラデーションの幅のどこかに自分を置くことに

    『ニッポンの音楽』が描く“Jポップ葬送の「物語」”とは? 栗原裕一郎が佐々木敦新刊を読む
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