ある人からカルペンティエールについて本を書かないかと言われ、その気になっているわけだ。エドガー・ヴァレーズの未完に終わったオペラのための、ロベール・デスノスとともに書いた台本など、初期の作品の研究が展開している近年、そういった動向に今ひとつついていけていないぼくとしては、いい機会だからまとめておこうと思ったのだ。手始めは、まだ日本語ではちゃんと発表していないベネズエラ時代(1945-59)の話かな?
これが『GRANTA JAPAN with 早稲田文学』01。表紙はもう今ごろあちこちに出回っているので、背面を。見えるだろうか? アンドレス・フェリペ・ソラーノの文字。この人の短編を僕が訳しているのだ。 製作に『トニー・マネーロ』のパブロ・ララインが名を連ねているだけあって(?)、始まりはディスコ、というかクラブ。離婚して12、3年になる中年女性グロリア(パウリーナ・ガルシア)が、そこで踊りながら新たな恋を探す、という話。〈めまいパーク〉という遊園地を経営するロドルフォ(セルヒオ・エルナンデス)と出会い、つきあい始めるが、1年前に離婚したばかりで2人の娘や元妻らにいまだに頼られている彼の言動と、真剣に今後の人生のパートナーとしてつきあいたいと考えるグロリアとの意見は時に擦れ違い、……という、まあよくあるラブストーリーと言えばラブストーリーだ。 それに、彼らの属する社会背景が時々透けて見え
なんだこのタイトルは? と思うが、考えてみたら、ジャームッシュの映画はすべて、こうしたカタカナ表記のものばかりなのだった。ひょっとしたら、ジャームッシュこそ(というか、彼を最初に見出したフランス映画社だろうけど)が日本における英語カタカナ語読みタイトルの元祖なのかもしれない。 まあいい。ジャームッシュが紡ぐ吸血鬼物語だ。そりゃあ、関節外しの名人、ジャームッシュのこと、ハリウッドの吸血鬼ものに見られるホモセクシュアルな欲望(と竹村和子が分析していた)など端から笑い飛ばすような設定だ。 今やゴーストタウンと化したデトロイト郊外で暮らすアダム(トム・ヒドルストン)とタンジール在住のイヴ(ティルダ・スウィントン)の吸血鬼夫婦が、妹エヴァ(ミア・ワシコウスカ)の夢に導かれてデトロイトで再会、そこにそのおてんばエヴァが現れ、生活をずたずたするものだから、2人はタンジールに逃げ……というストーリー。 『
エレーナ・ポニヤトウスカがティナ・モドッティやレオノーラ・キャリントンを小説の題材にしたように、この人はドイツの女性たちにこだわるんだろうな(なんたって『ローザ・ルクセンブルク』の人だから)、という程度の漠然とした意識しか持っていなかったのだが、ともかく、岩波ホールでの上映期間を過ぎて諦めていたところへ、シネマ・カリテでやっているというので、観てきたのだった。 もちろん、思想家の思考の過程を映画にすることはできない。そうなると、安易なやり方で行けば、彼/彼女の人生を扱った映画を作りがちになる。「暗い時代を生き」、戦争を逃れたハンナ・アーレントについてなら、その手もあっただろう。さらにはこのユダヤ人思想家が、後にナチに荷担したことで問題視される恩師(ハイデガーのことだが)と親密な関係を持った人物となれば、そこに焦点を当ててもいいかもしれない。 が、そんなことはせず、フォン・トロッタが焦点を当
表題作は、言ってみればフリオという文学青年がエミリアという女の子に恋をして、盛んにセックスをして、分かれて、……というだけの話だが、…… 世界中のあらゆるディレッタントたちが一度はそうしてきたように、彼らもまた『ホヴァリ―夫人』の最初の何章かについて議論した。友人や知り合いを、それぞれシャルルかエンマかに分類し、彼ら自身が悲劇のボヴァリー夫婦と重なるかどうかを話し合った。ベッドではなんの問題もなく、それは二人ともエンマのようになろうと、エンマのようにフォジャールしようとしていたからで、彼らが思うに、エンマは間違いなくフォジャールが異様に上手だったはずであり、さらには今の時代に生きていればもっと上手にフォジャールしたはず、つまり二十世紀末のチリのサンティアゴに生きていれば、本のなかでよりもっと上手にフォジャールしていたに違いないからだった。(35-36)
主演はオリビア・モリーナ。あのアンヘラ・モリーナの娘だ。しかももう29歳(当時)だ。同じ試写会の場にいた知り合いの女性たちは、最初の数分、10代のころの設定には無理が、違和感が感じられたと言っていたが、ブニュエルの『欲望の曖昧な対象』を何度も見たぼくとしては、母の思い出に取り憑かれていた。チラシやポスターの写真では気づかないけれども、動いてみればこれがそっくりなのだ。 しかも、その違和感ある10代のころの話しなどすぐ終わる。さすがに『電話でアモーレ』(この邦題もいかがなものかと思うが)などのオリストレル監督だけあってテンポ良い作りだ。 天才的な料理人ソフィア(モリーナ)が堅実な不動産セールスマンに育ったトニ(パコ・レオン)と遊び人で金もある接客業のフランク(アルフォンソ・バッサベ)、2人の幼なじみと独特の関係を保ちながらシェフとして成長していく話。それを生まれる直前の娘が語る。
訳者の寺尾隆吉が「あとがき」冒頭に、死後明らかになった作家本人の淫靡な性向の話題をほのめかし、その後、この小説のリプステインによる映画化作品にプイグが脚本家として加わったという話題などまで出しているので、われわれ読者はマヌエラという性倒錯者(いわゆる「おかま」)をめぐる過去と現在、ふたつの嬌態をクライマックスとしたこの小説の、クイアな世界にまず目を向けてしまうのかもしれない。 「ふたつの嬌態」のうち過去のものは、踊り子としてある娼館にやってきたマヌエラが男たちに愚弄され、傷つき、その隙を突かれてハポネサという娼婦と関係を持ってしまうという話。現在のものはそのマヌエラがパンチョという男と関係を持つのか、持たないのか? という話。 性の問題に関していうなら、マヌエラのクイアネスよりも、彼女を愚弄し、時には関係を持とうとさえする男たちのマチスモの方が怖い。それに乗じて彼女と関係を持ち、子をもうけ
何度か授業で扱ったジャームッシュの『デッドマン』のことをそろそろ本気で活字にしなければと思っていた矢先に、きっとその対としてチェックしておかなければならない作品に違いないと思われるものが現れた。それが、これ。だから観に行った。
ぼくらにとって7月末は地獄の季節だ。「かつては、私の記憶に狂いがなければ、私の生活は宴だった。ありとあらゆる人の心が開かれ、酒という酒が溢れ流れた宴だった」(宇佐美斉訳)だ。授業を力尽くで終わらせ、試験をつくり、試験をし、そのことで罵声を浴び(なぜだ?)、採点し、採点はまだ終わらず、ここぞとばかりに合宿に行ったり、そして打ちあげ、キックアウト、等々……しかし通常の仕事も続く……
余談1 終了後、出しなに後の若い女性2人組が話していた会話。「あのおじいちゃんが監督なんだってよ」「うそ。出演もしてるのに?」 余談2 ぼくらはなぜウディ・アレンの映画を見るのか? 理由のひとつは、本があるべき人の家には本がある、そんなセットを組んでくれているからだ。壁に作り付けの本棚に焦点が定まる必要はない。でも、そこにちゃんと本があるのだ。その部屋の住人が学生や建築家、作家、等々のインテリであるならば。 本題2 この映画のテーマは、なんて言い方をしたくないのだが、敢えて言えば、この映画のテーマは名声のむなしさと孤独、といったところか。いくつかのカップル(もしくは三角関係)を中心に進むこの映画のストーリーのうち、カップルが中心ではなく、現実離れしているのが、ロベルト・ベニーニ演ずるレオポルドのストーリー。時間軸も他とずれているのだが、これが楽しい。楽しくもあり、悲しくもある。しがない会社
3人の著者が薄めの著作ぐらいの長さの論文を書き、それにこのシリーズ(「21世紀歴史学の創造」)の主体だろうか? 研究会「戦後派第一世代の歴史研究者は21世紀に何をなすべきか」のメンバーと思われる人々による座談会が付された一巻。 第3部の執筆者・清水透さんからいただいたのだ。さっそく、彼の書いた:「砂漠を越えたマヤの民――揺らぐコロニアル・フロンティア」(pp.201-290)を。 リカルド・ポサスの古典的民族誌『フアン・ペレス・ホローテ』の翻訳とそこで語られていたマヤ先住民フアンの息子ロレンソへの聞き語りをまとめ、ふたつをひとつにして『コーラを聖なる水に変えた人々』(現代企画室、1984)として出したのが、ぼくが大学1年生だったころの清水先生だ。ぼくはその本を読み、サークルのガリ版刷りの機関誌に書評を書いた。そんな思い出話を、そういえば、最近、東京外国語大学出版会のPR誌『ピエリア』に書い
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