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2014年8月29日のブックマーク (4件)

  • 「リトル・トリー」に関しての私見

    クークラックスクラン(KKK) 南北戦争後に南部の白人が結成したテロリスト集団である。白い服で全身を包み、 松明を燃やしながら集会を行うことで有名である。特に黒人並びにその支援者に 対し激しいリンチ・放火・襲撃を行い、1890年代にはわかっているだけでも毎年 100人近くの黒人が殺される。アメリカ連邦政府が取り締まるものの、1920年代 再び活動し、現在も南部を中心に水面下で活動を続けている。これまでこのKKK によってどれだけの人が殺されたかは想像も出来ないくらいの数と言われている。 「当初、”ぼくと祖父”というタイトルを予定されていた書は、東チェロキーの 山中における祖父母との生活をつづった自伝的な回想録である。1930年 代、経済恐慌下の一生活記録として貴重だが、単にそれだけのものにとど まらず、どんな時代のどんな人にも共感を与えうる人間的な記録に高めら れている。万人の精神に語り

  • あるチェロキーの知識人にとってのリトル・トリー - Native Heart

    昨日のエントリーについては個人的にもいくつかのメールをいただいた。ショックを隠しきれないで困惑している人も見受けられた。しかしこの問題は、20代の後半から20年以上ネイティブ・アメリカンの世界と関係を持ち続けてきたぼくとしては見過ごすことのできない重大な問題だった。個人的な意見としていわせてもらうならば、『リトル・トリー』というをとおしてアメリカ先住民を理解されてしまうことはたいへんに困ったことなのである。日のみならず世界のニューエイジとされる人たちのほとんどがそのを絶賛し、感動して、涙を流したと公言してはばからないものにたいして、あえてそれを逆撫でするようなことを口にするのは、そうした生き方をしている人たちすべてを敵にまわすかもしれないにせよ、なお心ある人たちにほんとうのことを伝えなくてはならないと思ったからなのだ。 この『リトル・トリー』というについて、実際のチェロキーの人たち

    あるチェロキーの知識人にとってのリトル・トリー - Native Heart
  • アサ・アール・カーター - Wikipedia

    アサ・アール・カーター(Asa Earl Carter、1925年9月4日 – 1979年6月7日)はアメリカ合衆国の脚家・作家。 人種隔離政策を推し進めたアラバマ州知事ジョージ・ウォレスのスピーチライターで、North Alabama Citizen's Councilの創設者、また人種隔離政策を支持する月刊誌 The Southerner の発刊者でもある。カーターはフォレスト・カーターのペンネームのもと、2冊の西部劇小説と、チェロキー族インディアンの祖父母に育てられた自身の回顧録という名目の『リトル・トリー』を執筆した。1976年、ニューヨーク・タイムズは、フォレスト・カーターの実態は人種差別主義者のアサ・アール・カーターであると暴露した。 初期および政治への関与[編集] アラバマ州アニストンで生まれた。4人兄弟の長男。孤児であったと言うフォレスト・カーターの主張とは異なり、カータ

  • 「永遠に差別を!」米国を分断した政治家ジョージ・ウォレスの生涯 | Kousyoublog

    segregation now, segregation tomorrow, segregation forever. (今日も人種隔離を!明日も人種隔離を!永久に人種隔離を!)1963年1月、アラバマ州知事に就任したばかりのジョージ・ウォレスはその就任演説でこう叫び、駆けつけた支持者たちから大歓声を浴びた。一見、人種差別主義者の典型のような人物に見えるが、アメリカでは彼の評価は真っ二つに分かれているという。一方は偏狭な人種差別主義者として、他方では二大政党制にこだわらず草の根の民意を反映することに尽くした人物として。■南北戦争アメリカ南部小史・南部と北部の対立1776年、北部十三州が大英帝国から独立して以降、数々の侵略戦争、買収、入植等によってアメリカ合衆国の領土は拡大の一途を辿り、1790年に393万人だった人口は1830年にはおよそ1286万人と急増し、それにともなって、北部、南部

    「永遠に差別を!」米国を分断した政治家ジョージ・ウォレスの生涯 | Kousyoublog
    aliaki
    aliaki 2014/08/29
    えっ >アサ・アール・カーターは後にフォレスト・カーターと名前を変え、ネイティヴ・アメリカンを題材にした小説「リトル・トリー」を執筆することになる