タグ

ブックマーク / blog.tatsuru.com (88)

  • ネット時代の共生の作法 - 内田樹の研究室

    ある学会誌からインタビューの申し込みがありました。携帯の廃棄物としての重要性を論じるという切り口だったのですけれど、いつのまにあぜんぜん違う話になってしまいました・・・ 学会誌なので、一般読者の目に触れる機会がないと思いますので、ここに採録しておきます。 現在、人口比一人1.3台所持しているといわれる携帯電話。その一方で、出荷数2,610万台のうち、その70%の1,780万台が廃棄されています。これだけ消費されている携帯電話ですが、ケータイやネットによるいじめや犯罪など、現代の社会問題としてもクローズアップされてきています。この膨大な廃棄物となる携帯電話は、何のために利用され、わたしたちのくらしとどう折り合いをつけていくのか。人間の社会活動に造詣の深く日和らない、武道家であり思想家である内田樹氏に、ネット社会のありようやこれからの社会の行方を伺いました。みなさんとともに考えていきたいと思い

  • 新年のご挨拶がわり - 内田樹の研究室

    大晦日なので、何かたのしいことを書きたいのだが、書くことがない。 しかたがないので、ある媒体の新年号に寄稿したものを転載する。 年頭所感ということで書いたものである。 平川くんが『移行期的混乱』について自注している文章と併せて読んでもらうと、話の筋目が見えてくるかもしれない。 http://www.radiodays.jp/blog/hirakawa/ 震災と原発事故から1年半が経った。この1年半で日人は変わっただろうか?考え方やものの感じ方や、生き方が変わっただろうか? 変わったはずである。変わらなければ困る。だが、社会の表層を見ている限り、大きな変化は検知されていない。むしろ、2011年よりも退行しているような印象がする。 この文章を書いているのは衆院選挙戦の翌朝だが、選挙では「原発再稼働」やTPPだけでなく、「改憲」や「徴兵制」や「核武装」といった幻想的なイシューが「熱く」語られて

  • 困難な時代を生きる君たちへ - 内田樹の研究室

    神戸新聞の元日配達号に「中高生のために」一文を草して欲しいと頼まれた。 困難な時代を生きる君たちへというタイトルを頂いた。 神戸新聞購読者以外の方の眼には止まらなかったものなので、ここに再録する。 みなさんがこれから生きて行く時代はたいへんに困難なものとなります。 戦争に巻き込まれるとか、大災害に襲われるとかいうことではありません。そうではなくて、みなさんがこれから幸福な人生を送るために、どういう努力したらいいのか、その「やりかた」がよくわからないということです。 まじめに受験勉強をして、いい大学を出て、一流企業に就職したり資格や免状を手にすれば、あとは生計について心配はしなくてよいというような「人生設計」を立てることがむずかしくなった。 ただし、「むずかしくなった」だけで、まるで不可能になったわけではありません。そこがむしろ問題なんです。受験勉強なんか無駄、学歴なんか無意味、資格や免状も

  • 平松さんの支援集会で話したこと - 内田樹の研究室

    10月17日の平松邦夫市長を励ます会で「おせっかい教育論-教育条例の時代錯誤について」という講演をした。 講演録はそのあと『橋下主義を許すな!』というに採録された(香山リカ、山口二郎、薬師院仁志との共著、ビジネス社)。 選挙の応援のための、いささか「煽り」の入ったなので、手に取るのを控えた方も多いと思うが、私の書いていることはいつもの原則論である。 教育現場にドラスティックで急激な変化は馴染まない 平松市長から教育関係の特別顧問をと委嘱されて、お引き受けした時に、「大阪市の特別顧問に任ず」という委嘱状を頂きました。紙一枚もらって終わりだろうと思っていたら、いきなり「さあ、これから記者会見です」と言われました。そんな話聴いてなかったので、何の準備もしていない。いきなり記者会見に連れ出されて、「内田さんの顧問としての抱負を」と尋ねられました。何も考えていなかったのですが、そういうときの

  • 荒ぶる神の鎮め方 - 内田樹の研究室

    秋葉原のリナックス・カフェで、ラジオカフェの収録。今回はustで画像放映。 平川くん、中沢新一さんと、「カタストロフの後、日をどう復興するか」について、語り合う。 その中で、中沢さんが「第七次エネルギー革命」で人類ははじめて、生態系に存在しないエネルギーを、いわば「神の火」を扱うようになった、という話を切り出した。 そのときmonotheisticとい単語が出て来た。 原子力テクノロジーというのは、いわば「荒ぶる神」をどう祀るかという問題である。 そうである以上、それぞれの社会の「神霊的」なもののとらえ方をストレートに繋がるのではないか。 という話を中沢さんから聞いているうちに、いろいろなことが「がちゃがちゃ」っとつながった。 数千年前、中東の荒野に起きた「一神教革命」というのは、人知を超え、人力によっては制することのできない、理解も共感も絶した巨大な力と人間はどう「折り合って」いけるか

  • テクノロジーと常識について - 内田樹の研究室

    MBSの「辺境ラジオ」で名越康文先生、西靖アナウンサー、それと吉新喜劇の宇都宮まきさんと2時間おしゃべり。 今年の重大ニュースということで、ひとつだけトピックを選んでくださいというので、ウィキリークス事件を取り上げた。 ウィキリークス事件については、「すばらしい達成である」と声高に評価する威勢の良い人たちと、ぼそぼそと説得力のあまりない反論をする人たちに二分されてしまった。 インターネット・テクノロジーがらみの議論では、だいたいいつもインターネット賛美者たちが理路整然、博覧強記、縦横無尽の論陣を張って、「そういうのは、ちょっとどうかね・・・」という陰気な反論を鮮やかに蹴散らしている。 私はこういう言説状況をあまり健全なものだと思わない。 議論というのは同じくらい威勢の良い人たちが、同じくらい説得力のある論拠を示し合う拮抗関係においてもっとも生産的になるというのが私の経験的確信だからである

  • 声を聴くことについて - 内田樹の研究室

    朝8時半から講堂で中高部の生徒たちのために奨励。 「奨励」というのは、キリスト教の礼拝の中で、聖句をひとつ採り上げて、それに基づいてお話を一つすることである。 私が採り上げたのは、『コリント人への手紙一』7:24 「兄弟たち。おのおの召されたときのままの状態で、神の前にいなさい」という聖句である。 私はこの聖句から「召命について」という奨励を行った。 レヴィナス老師が教えるように、聖句の意味を知るためには、必ず前後の聖句を読まなければならない。 聖句の意味は文脈依存的だからである。 7章は性愛と結婚についての教えが書かれている。 基的な考えは「夫はを離別してはならない。は夫と別れてはならない」ということである。 結婚したら、「そのまま」でいなさいというのが聖書の教えである。 与えられた状況でベストを尽くせ、と。 「おのおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。」(7:20)

  • 映画「ノルウェイの森」を見ました - 内田樹の研究室

    好きな小説映画化されたとき、どこを見るか。これはなかなかむずかしいです。 基的にはやりかたは三つあると思います。 (1)原作をどれくらい忠実に映画化したか、その忠実度を評価する。 (2)原作からどれくらい離れたか、何を削り、何を付け加えたか、フィルムメーカーの創意工夫を評価する。 (3)原作のことは忘れて、単独の映画作品として、「同じジャンルの他の映画」とのシナリオや映像や演技の質的な違いを評価する。 『ノルウェイの森』の場合、なにしろ累計発行部数が1000万部を超えた「超ベストセラー」です。 僕だって三回読んでしまったくらいですから、「原作を読んでないふりをして映画を見る」ということは不可能です。 となると、残る選択肢は「忠実度を見る」か「裏切り度を見る」かしかありません。 僕はあらゆる映画評において「できるだけいいところを探してほめる」ことを心がけているので、「忠実度においてすぐれ

  • 非実在有害図書 - 内田樹の研究室

    東京都青少年健全育成条例について基礎ゼミの発表がある。 「表現に対する法的規制」というものについて私は原理的に反対である。 ふつうは「表現の自由」という大義名分が立てられるけれど、それ以前に、私はここで言われる「有害な表現」という概念そのものがうまく理解できないからである。 まず原理的なことを確認しておきたい。 それは表現そのものに「有害性」というものはないということである。 それ自体有害であるような表現というものはこの世に存在しない。 マリアナ海溝の奥底の岩や、ゴビ砂漠の砂丘に、あるいは何光年か地球から隔たった星の洞窟の壁にどのようなエロティックな図画が描かれていようと、どれほど残酷な描写が刻まれていようと、それはいかなる有害性も発揮することができない。 「有害」なのはモノではなく、「有害な行為」をなす人間だからである。 全米ライフル協会は「銃が人を殺すのではない、人が人を殺すのだ」と主

  • 死ぬ言葉 - 内田樹の研究室

    入学式。 私にとっては、「最後の入学式」である。 讃美歌412番を歌うのも、学長院長の「お祝いのことば」を聴くのも、これが最後である。 4月5日。あと360日。 朝起きるたびにカウントダウンの針が進んでゆく。 今年経験することはすべて「大学最後の経験」である。 そうやって見まわすと、目に映るすべてのものが儚く、移ろいやすく、いとおしいものに思えてくる。 邦の古人はこの感懐を好んだようである。 「美的生活」というのは別に書画骨董を愛玩したり、歌仙を巻いたり、文人墨客と賺した話をすることではない。 そうではなくて、「目の前にあるこれは、いずれ消え去って、あとをとどめない」という人事万象の「無常」を、その「先取された死」を「込み」で、ご飯をべたり、働いたり、遊んだり、つくったり、こわしたり、愛したり、憎んだり、欲望したり、諦めたりすることではないかと私は思う。 なぜ、「生け花」と「プラスチッ

  • Just like a barbarian - 内田樹の研究室

    の現在のメディアの「語り口」の定型性について、ずっと書いているうちに、それを書いている自分の語り口の定型性にうんざりしてきた。 ありがちなことだ。 ある対象を批判しているうちに、批判している当の対象とだんだん「面つき」が似てくるのである。 「重箱の隅」をつついているうちに、「重箱の隅」が視野の全面を覆ってしまうということはままある。 気分転換に、ぜんぜん違う時代の、違う論件について語ったものを読みたくなって、棚を見ると小林秀雄全集が眼に入ったので、中の一巻を抜き出し、適当にぱらりと拡げる。 棚というのは、こういうときに便利である。 ぱらり。 小林秀雄と三木清が対談している。1940年。 小林秀雄がこんなことを言っている。 「僕も前に福沢諭吉の事を書いたことがあるけれども、福沢諭吉は『文明論之概略』の序文でこういう事を言っている。現代の日文明というものは、一人にして両身あるごとき文

  • アドベントの死のロード - 内田樹の研究室

    今年最後から二番目の東京「死のロード」。 初日のスケジュールは両国で、ちゃんこをべて「相撲甚句」を聴きながら中沢新一さんとの対談シリーズ最終回。 どうして「ちゃんこ相撲甚句」という設定になったのかは不明。 中沢さんとの対談は4回目、ここまで霊性、死と演劇、異界とのインターフェイスと続いた最終回は農業と贈与経済の話になる予定だったのだが、相撲甚句を聴いているうちに、古代芸能の話になり、国見国誉めの話になり、在原業平の性的冒険と異族混血戦略の話になり、アフリカの遺伝子がどうやって日列島にたどりついたかという話になり、熊楠と昭和天皇のキャラメル箱の話になり、文字通り話頭は転々して奇を究めて、たいへん面白かった。 中沢さんは「知らないことはない」博覧強記の人である。何を訊いても「それはね」とすぐに答えてくれる。守備範囲はハイカルチャーからサブカルチャーまで、時代物から世話物まで、聖俗の全域にわ

    amenotorifune
    amenotorifune 2009/12/13
    「大阪アースダイバー」篇! まだまだ続くのですね、ようつべにあげてほし。
  • ピュシスの贈り物 - 内田樹の研究室

    東京ツァー中。 大学での会議を終えて、ばたばたと新幹線に乗って東京は飯田橋の角川書店へ。 中沢新一さんとの対談シリーズの3回目。 「くくのち学舎」のキックオフイベント、神戸女学院大学の大学祭でのトークセッションに続いての短期集中おしゃべり企画。 新幹線車中で、中沢さんの最新作『純粋な自然の贈与』を読む。 じつにわかりやすい、よいである。 「交換と贈与」という古典的な人類学のテーマが、(重農主義の再評価という)新しい視点から論じられている。 商業というのは質的に等価交換であり、そこからは何も富は生み出されない。重農主義者たちはそう考えた。 「『純粋の商業は・・・等しい価値と価値との交換にすぎず、これらの価値にかんしては、契約者どうしの間には、損失も儲けもない。』なぜなら、『交換は何ものをも生産せず、つねにひとつの価値と等しい価値の富との交換があるだけで、その結果真の富の増加はありえない』

    amenotorifune
    amenotorifune 2009/11/21
    好きな人二人がおはなしするのがうれしい。「純粋な自然の贈与」は中沢先生がオウムの件で苦しかった時に書いた本。とてもよい本。
  • 論争嫌い - 内田樹の研究室

    『日辺境論』の販促活動が始まっている。 昨日、梅田の紀伊國屋書店を覗いたら、入り口のところに特設のトレーが作ってあって、『街場の教育論』や『下流志向』や『私家版・ユダヤ文化論』も並べてあった。 文楽劇場での幕間でも、POP をたくさん書かされた。 「読んでね」とか「面白いよ」とかいう、まったく知性の片鱗も感じられない惹句であるが、読んでもらわないと話にならないのであるから、とりあえずは読者のみなさまのご厚意に取りすがるのである。 今のところ寄せられた感想にはどれも好意的で、まずは一安心。 もちろん、これからさき関係各方面から怒濤のような批判が寄せられることは避けがたいのであるが、批判に反批判を加えて、泥沼の論戦に・・・ということは私の場合にはありえない。 それは「論争」というものが生産的になることはない、というのが「文科系」の学問の宿命だからであるからである。 どこまでもやってゆくと、最

  • 河内小阪から梅田を経由して築地へ - 内田樹の研究室

    ああ〜授業をさぼって。日のあたる場所に、いたんだよ。 というのは嘘で、授業はさぼったけれど、行った先は近畿大学文芸学部の教室である。 私は原則として自分の授業を休んで、学外の仕事をするということはしないのであるが、どういうわけだかこの仕事は引き受けてしまった。 引き受けたときにどういう経緯があったのか、遠い昔のことなので、覚えていない。 だが、約束した以上は行かねばならぬ。 讀賣新聞と近畿大学のジョイントのイベントで、お世話いただいた讀賣の山内さんと文芸学部の浅野洋・佐藤秀明両先生にご挨拶。 お題は「教養なき時代の読書」。 そういうテーマならお話しすることはある。 こういうときに「教養とは何か?」という問いかけから入るのが常道であるが、それをするのはシロート。 こういう場合はむしろその語の一義的意味について合意されていると信じられているキーワードについて、「その定義でよろしいのか?」と一段

  • いつまで続くぬかるみぞ - 内田樹の研究室

    土曜日は指定校推薦入試。 指定校推薦の応募状況は堅調である。 ありがたいことである。 つねづね申し上げている通り、学のような規模の大学の場合には、120万人の高校生のうちの600人くらいが「行きたい」と行ってくれれば、それで教育活動を継続できる。それは志願者を「かき集める」必要がないということである。 必要なのは「旗幟を鮮明にする」ということである。 よその学校でもしていることをうちもしています。よその学校にある教科がうちでも学べます。よその学校で取れる資格がうちでもとれます・・・というようなタイプの「勧誘」をしているうちに、いったい私たちは「何をしたくて」そもそも大学をやっているのかという根のところの動機がわからなくなってしまう。 うちでやっているようなことはうちでしかできません。 という自負が教育機関には絶対に必要である。 そうでなければ、その学校には存在理由がないからである。 「

  • 学校の制度性について、など - 内田樹の研究室

    月曜日。珍しく、ふつうの月曜。 朝、下川先生お稽古。昼の部長会がなくなったので、授業の時間まで家事(カレー作り)と原稿書き。 それからゼミ。杖道の稽古。 帰宅してカレーべて、寝ころんで『鴨川ホルモー』を見る。 最初は「大学実名」でわくわくしたけれど、CGが出てきてから、急速につまらなくなる。 日映画はもうCGを使うのを止めなさい。 なんか「手抜き」という感じ。 山田孝之くんは『クローズzero』での怪演に比べると、ちょっとトーンダウン。栗山千明ちゃんも『キルビル』での怪演に比べると(比べるなよ)。 火曜日。世間はお休みであるが、われわれは教授会研修会。 学生たちの「こころのやまい」の現況と対応策についてのレクチャーとディスカッション。 境界性人格障害と発達障害について、専門家たちから貴重なインフォーメーションをいただく。 ぐったりして帰宅。しようと思ったが、そのあと中之島のリーガロイ

  • 追悼レヴィ=ストロース - 内田樹の研究室

    20世紀フランスを代表する思想家で社会人類学者のクロード・レヴィ=ストロースが10月30日、死去した。100歳。 第二次大戦中に亡命した米国で構造言語学を導入した新しい人類学の方法を着想、戦後フランスで実存主義と並ぶ思想的流行となった構造主義思想を開花させた。「未開社会」にも独自に発展した秩序や構造が見いだせることを主張し、西洋中心主義の抜的な見直しを図ったことが最大の功績とされる。 サルコジ大統領は3日の声明で「あらゆる時代を通じて最も偉大な民族学者であり、疲れを知らない人文主義者だった」と哀悼の意を表した。 1908年11月28日、ブリュッセルのユダヤ人家庭に生まれた。パリ大学で法学、哲学を学び、高校教師を務めた後、35年から3年間、サンパウロ大学教授としてインディオ社会を調査。41〜44年にナチスの迫害を逃れて米国に亡命、49年の論文「親族の基構造」で構造人類学を樹立した。 自伝

  • 週末は浜松 - 内田樹の研究室

    今週も「週末」がない。 先週もなかった。来週もないし、再来週もない。 週末がないということは、ずっと働きづめということである。 そりゃ風邪も引きますよ。 なぜそのような非人間的日程を組むのかと気色ばまれる向きもあるやもしれぬが、講演の日程なんて、早いのは1年半くらい前に決まっているのである。 そのときはスケジュールは「まっしろ」であるから、「あ、いいすよ」と気楽に応じてしまう。 途中からだんだん顔色が悪くなってきて、講演も寄稿も取材も必死で断り始めるのだが、「これだけは断れない種類の仕事」が一番最後にやってきて、それが「ばりばり」と時空を引き裂き、気づくとスケジュール表は「まっくろ」になっているのである。 いまだって一番最後に来たのは「自分の書いたの販促活動」である。 これはどうしたって断れない。 こんな生活をしていては長生きできないです。ほんとに。 今週の土曜日も合気道のお稽古を泣く泣

  • 風邪ひいたけど毎日仕事です - 内田樹の研究室

    げほげほ。 ひさしぶりに風邪をひいてしまった。 一昨日、ふと「そういえばこのところ風邪をひかないなあ」と思ったのである。 「私は風邪をひかない」と自慢すると、必ずそのあと大風邪をひくというジンクスがあるので、そのときも心に思っただけで口には出さなかったのであるが、思っただけで罰が当たり、その日の夜からのどが痛くなってきた。 困ったことに翌日は大学祭の初日で、演武会と中沢新一さんとのトークセッションが予定されているのである。 朝、目が覚めるともういけない。 鼻が詰まり、のどが痛み、微熱があって、身体がだるい。 終日ごろ寝をしていなさいと身体が指示しているのだが、そうもゆかず、怠け心(というか健康志向)を抑圧して、改源を飲んで大学へ。 演武会の方はもう手順がわかっているから、私がいなくてもてきぱきと準備が進んでおり、私はただ「じゃ、始めようか」とキューを出すだけ。 出場者も少ないので、さくさく

    amenotorifune
    amenotorifune 2009/10/27
    好きな人と好きな人が対談するのはうれしい。本になるのですか?