「結局、前科がつきました」SNSでの誹謗中傷、被害者が本気出すとどうなる? 身元すぐ判明→賠償拒否→告訴→罰金刑
長崎は九日、被爆から六十九年の原爆の日を迎え、長崎市松山町の平和公園で市主催の原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が営まれた。出席した安倍晋三首相の目の前で、被爆者代表の城台(じょうだい)美弥子さん(75)が「憲法を踏みにじる暴挙」と集団的自衛権の行使容認を痛烈に批判した。田上富久(たうえとみひさ)市長も平和宣言で「平和の原点がいま揺らいでいるのではないか、という不安と懸念が急ぐ議論の中で生まれている」と指摘。政府の姿勢に対する被爆地の懸念があらわになった。
2014年8月9日(土) 【再放送】2014年8月16日(土)午前0時00分 ※金曜日深夜 “戦闘配置”されず ~肢体不自由児たちの学童疎開~ 太平洋戦争末期、空襲による被害を避けるため、国が大都市の児童約60万人を農村地帯などに一時移住させた「学童疎開」。 実施されてからことしで70年がたつ。近年、それにまつわる数多くの資料が見つかり、学童疎開の知られざる側面が明らかになってきた。 肢体不自由児たちの集団疎開である。 日本で最初に開校した肢体不自由児の学校・東京都立光明(こうめい)特別支援学校では、数年前から古い文書や撮影フィルムが相次いで発見されてきた。 そこには、昭和初期の開校当時から戦後に至る学校生活の様子が記録されている。 戦中から戦後にかけて校長を務めた松本保平さん(故人)が残した手記には、肢体不自由児の境遇をめぐるさまざまな出来事と思いが生々しくつづられていた。 国による学童
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