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ブックマーク / crowserpent.hatenablog.com (8)

  • 「恋愛放棄」にまつわる個人的な話 - 烏蛇ノート

    お久しぶりです。 最近更新が滞りがちなのはネタがないのではなくて、書こう書こうと思いつつ、うまくまとまらないままネタばかりが溜まっていっているという状況なんですが、書けるものからぼちぼち消化していきたいと思います。 今回はその、これまで何度も書こうと思いつつ何となく書いてなかった記事の一つ、私自身の「恋愛放棄」についての話です。基的に自分語りなので、大して面白い話でもないですが、少しばかりお付き合いください。 「恋愛放棄」という言葉は割と非モテ界隈特有の用語かなぁと思っていたんですが、実際にGoogleで検索してみるとそういうわけでもないみたいです。とはいえ、二番目にシロクマ氏のページ、三番目に喪男道と、非モテ関係のページが上位にヒットすることは確かです。 この二つのページを改めて読んでみて印象的だったのは、立場こそ違えどどちらも「恋愛すること」のメリット・デメリットについて語っていると

    「恋愛放棄」にまつわる個人的な話 - 烏蛇ノート
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    another 2008/08/08
    「13歳のとき、私は「恋愛放棄」を一人で心に誓ったわけです。」
  • 恋愛という概念装置(1)/二つの恋愛文化 - 烏蛇ノート

    しばらく放置していてすみませんでした。掲示板での議論については、論点を再整理しようともしたのですが、あまり上手くいかないので諦めました。個人的に、「非モテを社会的弱者とみなすべきか否か」という問題設定自体に意味があると思えない、というのもあります。 今回からしばらく連続して「恋愛」について(正確には「恋愛という概念装置」について)述べていこうと思うのですが、その前にまず前提しておかなければならないことがあります。 それは「恋愛」という実体は存在しない、という前提です。正確には「存在するかどうか分からない」なんですが、そもそも「恋愛が実体として存在する」とはどういうことか、今の段階では定義しようがないため、ここでは「そのような実体は存在しない」と言い切ってしまいましょう。何を言っているかというと、平安時代の貴族の色恋と、明治時代の「恋愛」と、現代の「恋愛」が、それぞれ同じものである保障は無い

    恋愛という概念装置(1)/二つの恋愛文化 - 烏蛇ノート
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    another 2007/09/23
  • 「非モテ」の敵は「恋愛」に非ず - 烏蛇ノート

    田透の「電波男」以来、「恋愛至上主義」ないし「恋愛主義」こそが「非モテ」の根問題である、という認識が「非モテ」議論の暗黙の前提とされるようになりました。「革命的非モテ同盟」の古澤克大氏もまた、そうした「恋愛至上主義」を最大の問題の一つと考える「非モテ」論者の一人です。 今回は、この「恋愛至上主義」の実体とは何か、を考えつつ、古澤氏を初めとする多くの「非モテ」論者が陥っている「落とし穴」について述べていきたいと思います。 「非モテを苦しめているのは恋愛至上主義である」 という主張に対しては、古典的かつそれなりに有効な反論として 「世間は非モテ達が言うほど『恋愛』一辺倒ではない」「恋愛至上主義に陥っているのは実は非モテ自身である」 というものがあります。Paris713氏やまりねこ氏、ナツ氏の議論はこうした「反論」の典型的なものです。 これらの指摘は、ある面では全く以て正しい議論です。

    「非モテ」の敵は「恋愛」に非ず - 烏蛇ノート
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    another 2006/12/22
  • 非モテ男よ、奢るべからず - 烏蛇ノート

    しばらく放置しててすみません。前回の記事はまた別の形でまとめますが、その前に別の話を。 瀧澤氏のこちらの記事で提示されている、「事の際、男が女に奢るという慣習」に対する疑義についてです。 まず、瀧澤氏の主張は、 「奢られ慣れていない女性にとって、奢られることは心理的圧力にもなりうる」 「『男が女に奢る』を当然とみなすことで得をするのは、奢られ慣れている女性だけだ」 というもので、私もこれにほぼ全面的に賛同します。 しかし、これに対し、コメント欄でsho_ta氏から次のような反論が述べられました。 で、「原則ルールはあったほうがいい」派の私としては、「割り勘」、「女が払う」、「男が払う」の三択であるならば、「男が払う」が一番無難だと思うわけですよ。理由は簡単で、男が誘うケースのほうが事例として圧倒的に多く、かつそのほうが男(特に非モテ童貞)が女を誘いやすいからです。 さらにこれに対し、rA

    非モテ男よ、奢るべからず - 烏蛇ノート
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    another 2006/11/27
  • 「非モテ」が晒される性的視線 - 烏蛇ノート

    前回の記事に対して幾つかの反応がありましたが、その中で最も的を射ていると思われたのが大野氏の記事でした。今回はこの大野氏の記事を参照しつつ、非モテの女性がWeb上で置かれている環境について考えてみたいと思います。 オタク腐女子も、セクシャリティがその嗜好に強く反映される。そして、非モテ男と非モテ女は、しばしば「恋愛弱者」と表現される。つまりどちらの話も「性」を巡っている。男は昔から集まっては猥談などしたりして、性的な言語活動が活発だった。いかにモテるかとかセックスが強いかという自慢話。女はそこに参加することはほとんどない。そんなのは「はしたない」とされたこともあるが、それだけではないと思う。女は不特定多数の男の性的な視線(直接見なくて脳内でも)に晒されたくないのである。 この視線の中には、 『こいつ喪女だよ( ',_ゝ`)プッ;』 というのもありますが、 『喪女…処女だ(;´Д`)ハァハ

    「非モテ」が晒される性的視線 - 烏蛇ノート
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    another 2006/10/23
  • 性規範と「差別の内面化」 - 烏蛇ノート

    前回の記事を受けてのBLUE PINK氏の記事への返答です。 自分が普通の人間だと思っている人は自分が普通の幸福が得られないことをそう簡単に納得できない。これ自体、他人に暴言吐いたりしない限り悪いことじゃない。 もちろん納得できればちょっとは幸せになれるでしょう。でもそれを普通の幸福を享受する人間から言われたら余計こじれるだけ。じゃあ、てめぇも同じ状況になってみろよ、と。 性規範から自由になれ、っていう前に、まずその規範が与える強迫性を考えるべき。「恋愛男女間が当たり前」という性規範に漏れたゲイなんかに、「男女恋愛に固執するから不幸なんだよ。すなおに今の状態を受け入れることでもっと自由になれるよ」なんていったら怒るだけでしょう。受け入れずらくしてるのは誰なんだよ、と。 規範が与える強迫性というものは確かにあるでしょう。そして、それが「規範に従わなければ社会的承認を与えない」という形でな

    性規範と「差別の内面化」 - 烏蛇ノート
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    another 2006/08/26
  • 「女友達は恋愛と無関係」に潜むミソジニー - 烏蛇ノート

    最近また放置気味ですが、今回は久々に「非モテ」ネタで。 押井徳馬氏のこの記事では、非モテ男性の人達に「とりあえず彼女作れ」とアドバイスすることの無意味さが論じられています。記事の趣旨には全面的に賛同するんですが、問題はコメント欄でのg氏の発言です。 彼女を作る前に女友達を・・・という下りですが、 彼女を持つ事を最終目的とする場合は、 女友達を持つ持たないというのはあまり意味を成さないと思います。 基的に女性は異性に対して友人と恋人を 性的魅力などの要素で厳格にジャンル分けして、 友達のカテゴリにいれられた人は半永久的に そこから脱する事は出来ないようです。 (中略) こういったことを考えると、特に深い意図も戦略もなく、 単純に女友達を作っても恋愛には繋がらないかと。 g氏と同じような主張は、以前Masao氏からもありました。ここでは「好意は必ずしもセックスに繋がらない」ということが述べら

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    another 2006/08/17
  • 「オタク」のアイデンティティを巡って(2) - 烏蛇ノート

    前回の続きです。 「オタクは死んだ」と宣言した岡田斗司夫氏は、「オタクは一般人とは違う、特別な存在でなければならない。そうしなくてはオタク文化は維持できない」と考えていました。今回はこうした考え方がなぜ生じたのかについて、もう少し煮詰めて考えてみましょう。 「おたく」が来差別語であったことは前回も述べた通りです。「オタク」というカテゴライズはあくまで「差別の内面化」に過ぎないものであり、「オタク文化」が「特別な存在でなければ維持できない」ようなものであるというのは岡田氏の幻想に過ぎません。しかし、「そんな幻想がなぜ広く共有されていたのか」を考えることは重要だと思います。そもそも、岡田氏はなぜ「オタク文化」を「維持できない」と考えたのでしょうか? これはやはり「アイデンティティ」を前提に考えなければ理解できません。岡田氏が「オタク文化を維持できない」と述べているのは、「オタク文化」が文化

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