中国政府はラサで再び歴史的建築物の一つを自分たちの都合のいいように、歴史を書きかける道具として修復、復元した。今回はジョカンの北にあるトムシカン。清朝時代には「駐蔵大臣」の住居として使用されていたこともある、300年に及ぶ歴史を持つ建物である。 これをいつものように「チベットは嘗てより中国の一部であった」という虚構の偽の裏付けとして「歴史陳列館」という観光施設の一つとしてオープンしたのだ。この清朝時代の「駐蔵大臣」は清朝の大使のような役割を担っていただけであり、決してこれをもってチベットが清朝に属していたという証拠にはなり得ない。それ以前に第一、満州族の王朝である清朝がどうして現在の中国共産党の前身になり得るのか?いつもながら2重に不思議で理解不能な解釈である。 以下、ウーセルさんが7月24日のブログでこの建物復元について多くの写真と共に詳しく報告されているのでこれを紹介する。 原文:改写
昨日、院生Mに言われて、本日が調度百年前にチベット・モンゴル条約が締結された日であることを思い出した。なので本日急遽チベット・モンゴル条約に関するエントリーをあげる (確認の甘い部分があると思うので、気がついたところからあとで治す)。 20世紀初頭、清朝は主要な地に限って官員を駐在させ、チベットとモンゴルの社会と文化は尊重するという伝統的な政策を一方的に廃し、モンゴルと東チベットにおいていわゆる「新政」という名の実効統治を開始した。この情勢を受けてチベットとモンゴルの王侯たちはそれぞれの立場から様々な対抗措置をとった。 ハルハ・モンゴルは1911年に中国からの独立を宣言し、モンゴルにおけるチベット仏教界のトップ、ジェブツンダンパ八世を国王として推戴した。このあとモンゴルはロシアの庇護を受けることに成功し、結果として現在も独立国として存続している。 一方、チベットにおいては、チベット仏教界の
2012年12月31日に起きた、台湾とモンゴルの関係の転機について。歴史四方山話満載でなかなか面白いネタである。主にRFI中国語を参照した。 Ulan Bator (Mongolia) / Mario Carvajal ■清朝・理藩院の名残、蒙蔵委員会が消滅 現在、中華民国が統治しているのは台湾に限定されるが、建て前としては清朝の後継国家として中国本土の領有権も主張している。その中国本土の中でもチベットや新疆、甘粛省など旧藩部を統括する部局が蒙蔵委員会だ。清朝の理藩院からの組織割りが21世紀の今まで残っていたという次第。 台湾行政院の組織改組に伴い、2012年12月31日を持って消滅。業務及び人員はモンゴル処、チベット処として大陸委員会に所属することになった。 ちなみにモンゴルもチベットも統治していなかったのに70人のスタッフがいたとのこと。業務としては台湾在住のモンゴル人、チベット人絡み
日本とご縁の深かったゲシェラ(ゴマン元座主テンパ・ゲルツェン師)の、亡くなられる数日前からの健康状態、弟子や施主への遺言、ご臨終、トゥクダム、火葬、遺骨収集、この間一貫してなされる弟子による師の意識への供養、師の再生への祈り。の過程が、葬儀にたちあったMMBAの野村くんによって公にされた(詳しくは→ ここにリンク貼りました)。 この間の写真も以下のMMBAのFacebooKのページで見られる。 ★死から葬儀まで(→ここクリック) ★初七日法要(→ここクリック) ★火葬の一週間後の遺骨収集(→ここクリック) これを見ていて思ったのが、2009年におなくなりになったギュメ密教学堂の元座主ガワン先生の死の様子と非常によく似ていること、そしてこのガワン先生やゲシェラなどの現代の高僧たちの死の作法は、歴史資料に見える18世紀の高僧たちの死の作法とも軌を一にしているということ。たとえ難民となっても、僧
最近チベット近現代史の知識強化を行っている。そのため、土曜日は早稲田大学の「中央ユーラシア歴史文化研究所」主催のシンポジウム「近代モンゴルにおける『モンゴル史』の構築」に行き、日曜日は北大スラブ研究所主催のワークショップ「ユーラシア地域帝国としての清朝研究」と立て続けに行ってきた。 しかし、「まじめに座って勉強する」をやりすぎたせいか、日曜日の晩に20時きっかりに激しい悪寒に襲われど派手に体調が崩れた。状況から察して知恵熱かと思われる(おい)。 教訓: わたしはまじめに勉強すると死ぬ。 さて、こんな肉体的な苦労をともなったシンポジウムなので、一般人にも分かるように適当な報告して元を取ろうと思う(正確かつまじめな文作をする体力はまだない 笑)。 ●●●「近代モンゴルにおける『モンゴル史』の構築」●●● まず、早稲田のシンポジウムの方は発表者は以下の三人で、最初のゲストをのぞく残り二人は自分の
日曜日の朝、K嬢から耳よりなニュースが入る。 K嬢「先生、昨日上野の東博の故宮展に行ったのですが、乾隆帝菩薩画像来てましたよ」というので、急遽、午後は上野「北京故宮博物院200選」にいくことにする。 前エントリーでも連呼したが、乾隆帝菩薩画像は私の研究対象で三種類あり、今回来日する画像のタイプは一作例しかなく、去年北京まで行ったのにデジタル画像しかみせてもらえなかった因縁の画像である。 拙著『清朝とチベット仏教』にはデジタルで読み取れる範囲のものをのせたので、五体の仏の名前が謎のまま残っている。現物が見られるとあっては当然出撃せねばなるまい。 展示の行われる平成館にいく道には立て看が二つ据えられており、それは「乾隆帝大閲図」と「乾隆帝菩薩画像」であった。 カンバンの絵は実物より拡大されているので、このカンバンをみると乾隆帝菩薩画像中の小さな仏の銘文も読み取れる。しかし、この元になったデータ
ダライラマ法王と入れ違いに来日したブータン国王は、連日メディアで大きく取り上げられ、日本中の人がこのヒマラヤの小さな国について知ることとなった。 ブータンの国教はチベット仏教の一派ドゥクパ・カギュ派であり、17世紀に中央チベットでの政争に敗れたガワンナムゲル(1594-1651)がブータンに根拠地をうつして、僧王を戴く政教一致の体制を作り上げ、現在に続くブータンが始まった。中央チベットに政教一致のダライラマ政権がうまれるほんの少し前のことである。 つまり、ブータンとチベットは政治的に対立することはあっても、文化は同じチベット仏教圏なのである。 今のブータン王家は約百年前に、ブータンのダライラマに当たるシャブドゥン猊下から政治権力を委譲されて生まれたもので、それでも国王はチベット仏教の信徒であり、チベット仏教はブータン人の精神性の形成に非常に大きな役割を担っている。 あのブータン国王の強さ、
被災地での法要を終えたダライラマは7日に離日し、次の滞在地であるモンゴルに向かった。 最終日、ダライラマ法王は自由報道協会という会(記者クラブに反対するフリー・ジャーナリストが立ち上げた会)の主催で記者会見を行った。その模様はニコニコ動画やユーストリームで誰でも見られる形でリアルタイムに公開されたので、多くの人の目に触れることとなった。 わたしは最初ニコ動で見ようとしたら視聴者が多すぎてはじかれ、プレミアム会員にならないとダメと言われたので、ユーストリームの方で見た。ちょうど、日本赤軍の重信房子の娘さんとかがパレスチナ問題について法王に質問するところから見だした。後ですべての内容がネットにアップされたので、最初の方も知ることができた。 まず、最初法王から今回の来日の目的が高野山大学における灌頂であること、また、震災49日法要の時と同じく、津波・地震の被災者にメッセージを送るためであることが
本日三月十日はチベット蜂起記念日。 1959年、チベット暦正月に行われる恒例の論理学の最高学位の試験にパスしたばかりのダライラマ十四世の下に、ラサを占領する中国軍営から「三月十日に中国軍営に護衛なしで観劇にくるように」との要請があった。 それを聞いたチベット人たちは、「如意宝珠(ダライラマの美称)が中国に拉致られる」と、ダライラマの滞在するノルブリンカ宮の周りに集結した。 中国軍のチベット占領はこれより九年前の1950年に始まっていた。 精神的な豊かさを追求するチベット人が物質的な豊かさを追求する社会主義・漢人文化と相容れるはずもなく、東チベットから漢人に追われて逃げ込んできた難民たちでその年のラサは一杯であった。そして、中国全土は1958年に始まる毛沢東の失政「大躍進政策」で飢えに包まれていた。 この時点でチベット人が爆発することは起こるべくしておきたものである。 というわけで、ダライラ
ご存じ台北の故宮所蔵の宝物は、北京の紫禁城にあった清朝皇帝の遺産を、日本軍や共産党の破壊からまもるために蒋介石が大陸から台湾に持ち出したものである。故宮の秘宝というと、玉でできた白菜や豚の角煮で有名であるが、ここは一つチベットの秘宝に注目してみよう。 清朝皇帝、とくに最盛期の乾隆帝は敬虔なチベット仏教徒であったため、故宮には宮廷内でもちいられていたチベット仏教関連の法具とかも所蔵されている。1994年にはチベット仏教をテーマにした『皇権と仏法』という展覧会も開催されており、同名のカタログはたぶんいまでもネットで買える。 また、今回副院長さんの話しによると、三年後にまた大規模なチベット関連の展覧会を行うそうだ。 私が今回故宮で閲覧を楽しみにしていたのは康煕8年につくられたチベット大蔵経(通称龍蔵)と、ダライラマ五世の時代の豪華宝石マンダラである。 我々は24日の午前に故宮に到着した。タクシー
今年は中華民国暦100年、つまり辛亥革命から100年。 今年はやはり臺灣でしょ、ということで、卒業旅行は臺灣へ。 初日は台北の発祥の地、万華地区の龍山寺からはじめる。 臺灣といえば中国共産党に追われて大陸から移り住んだ国民党の国と思う人が多いだろうが、そんな単純なもんでない。万華(ばんか)の語源が臺灣の先住民ケダガラン族のつかう丸木舟「モンガ」にあることが示しているように、臺灣はじつはついこの間までケダガラン族のようなマライポリネシア系の人々が住んでいた。 しかし、300年間続いた、とくに1949年以後の漢人の大量移民の結果(日本の統治期もあった)、いまやケダガラン族はどこかにいっちゃって、その文化がどんなもんかもわからなくなっちゃった。おとろしや。 で、このようなマライポリネシアの先住民や、初期の大陸からの移民「内省人」、1949年以後大量移住してきた中国人である「外省人」をはじめとし、
[メインページに戻る | 前のページ | 次のページ] 研究者が語る清・チベット関係 ■平野聡著『清帝国とチベット問題』(古屋大学出版会2004/07)は、筆者によると、時代に存在したというチベットと中国との間に存在した民族統合の歴史を、成立から瓦解まで述べたものである。本書が発表された際、依頼原稿により二つの書評を出した。現在、清とチベットの関係について、いろいろな言説が錯綜しているため、新たな文を書こうかと思ったが、煩わしいため、この二つの書評を転載して清・チベット関係を歴史資料に基づいて研究する者の見解を述べたい。 最初の書評が『歴史学研究』に掲載されたもので、後の書評が『東洋史研究』に掲載されたものである。清朝史の研究者、杉山清彦氏も『史学雑誌』(115-9, 2006.9)に本書の書評をだしているため、そちらも併せて参照されたい。 『歴史学研究』(No.804, pp.57-59
【ニューデリー=武石英史郎】PTI通信によると、インドの警察当局は、不正送金を受け取ったなどの疑いで、チベット仏教の活仏カルマパ17世が居住する僧院を捜索し、側近らを逮捕した。17世本人からも28日夜、事情を聴いた。 僧院はチベット亡命政府と同じインド北部ダラムサラ近郊にある。27日から始まった捜索は29日も続けられ、僧院内のスーツケースなどから、中国元、米ドル、日本円などを含む外貨、7千万ルピー(約1億2600万円)相当を押収した。 17世側は、信者からの寄付と説明しているが、地元紙などによると、「ハワラ」と呼ばれる地下銀行網を通じた不正送金を受けた疑いや、難民には禁じられている土地の取得に絡んだ疑いなどが持たれているという。 カルマパ17世は、チベット仏教カギュー派の活仏として、中国政府から認定を受けたが、1999年末に中国側から姿を消しインドに亡命した。チベット仏教の最高指導者
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