『竜馬伝』で、山内容堂を「やまうちようどう」と呼んでいる。これは『功名が辻』の時に、従来やまのうちと読まれてきたが、浅井茶々の手紙と『寛政重修諸家譜』に「やまうち」とあるからと訂正したものだ。 しかし、それならいったいいつから「やまのうち」になったのかを確認しなければいけないのだ。もしかすると新井白石の時代以後「やまのうち」になったのかもしれず、むろん混在していた時期もあっただろう。仮に一豊が「やまうち」だったとして、幕末期にみなが「やまうち」と読んでいたら、明治以後「やまのうち」と言われたら、山内家で訂正したはずだと思うのだが。 (付記)その後情報が入り、明治以後、本家はやまうち、分家はやまのうちとしたという。これは面白い。松山には池内家というのがあって、高浜虚子が池内家の出身で、息子は池内友次郎だ。伊丹万作も池内だが、前者はいけのうち、後者はいけうちで、前者は家柄がいいという。山内と逆